「方や海水、方や水。そなたはどちらが欲しい」
「………み、」
「水であろうな。愚問であった」
「……」

男は私の前でひとつの湯呑から手を放す。開いた右手から瞬時に落ちて行った湯呑は、木で出来た船の床で鈍い音を立てて転がると、包容していた水を撒き散らして静かになる。男は転がった湯呑にも零れた水にも興味がない。まっすぐに私を冷たい目で見つめるだけだ。

「我が手放したのは水か、海水か」
「………」
「答えよ」
「…かい、すい……?」
「否、水だ」
「……」
「そなたには与えてやらぬ」

幾日か飲まず食わずのこの身も人なれば。男は初めて優越に似た笑みを浮かべて私に歩み寄る。船の柱に括られた私は食い入るように男を見つめた。男の手にあるのは海水が入った湯呑だけで刃物はない。しかし鈍色の鉄が傍にないとて、恐怖が拭えるか、否か。

「豊臣間者のそなたには、な」

否。

「海の上でどう逃げるつもりであった?」
「………」
「その美しいかんばせで駒共や我をかどわかし、生き永らうこと叶うと思ったか」

男は嘲笑うように私に顔を近づけて、首筋に鼻先を当てるとあからさまに息を吸う。身動き叶わぬ私はそれをどうにも拒むことは出来なかった。二日もこのままでいるのだ、体に張り付いた汗や垢が羞恥心を攻撃してくる。震える私に気づくと男はくつくつと喉で嗤った。

「そなたの女は芳しい」
「ひっ……」

実に滑稽そうに絞られた声が耳元で囁き、舌先と熱い吐息が首筋に戻ってくる。最悪このまま私の女を弄ばれるのであろうと覚悟した。覚悟したが、男はそれだけで体を引いた。結局囚われた間者である以上私の行く末は酷いものだ。いいことなどある筈がない。だから“安心”などないのだけれど、この瞬間の安堵を感じた。

……砲撃音が轟いている。

「…さて、遊んでいる暇がなくなった」
「………」
「これで終いぞ」

男は愉快そうに口端を上げたまま、私のあごをとらえて湯呑を唇に据える。先の話が正しければこれは海水だ。だが、“終い”とはどういうことか。此処に毒が入っているなら答えは明快、そしてその可能性は酷く大きかった。
せめて苦しむ毒でないよう祈りながら、喉を焼くであろう海水を促されるまま口内に招く。注がれるままに喉を鳴らせて嚥下する。

「……え?」
「…また来るぞ」

喉を流れたのは水だった。


毒のない水