『恋哀狂想』
第二話 呪い
――荊茨県(きょうしけん)。荊(いばら)に茨(いばら)と書くその県は、修羅県という別名がある試練の地という噂が極一部で存在する。まさにいばらの道を歩くような、過酷な運命を背負うのだと。
そんな噂とは裏腹に、黎果の住む峰津市(みねつし)羅幕町(らまくちょう)は平和だ。田舎と言えば田舎だが、町中の方は割りと高めの建物が建ち並び、人通りも多く活気がいい。
隣には祁栖市(けせいし)があり、祁栖市の隣には軌鹿市(きっかし)が並ぶ。
この軌鹿市には黎果の憧れる超エリート学校もある。間違いなく国内一と言っていい、月華紫蘭(げっかしらん)第一高等学院という凄まじい名前の学校だ。実は彼女はトップに近い成績でその学校に受かっていたのだ。
だが彼女はそれを断り、敢えてこの羅幕学院に入学した。こちらの学校は滑り止めで、成績トップで受かっていたのだ。この学校も多少頭がいいくらいでは入れない、本来ならば滑り止めなどではなく本気で勉強して臨む高レベルな学校だったのだが、黎果の敵ではなかったため滑り止めとして受験し受かっていた。にも関わらず黎果が軌鹿市の月華紫蘭学院を諦めたのには、或る事情があるのだ。
黎果は元々、軌鹿市に在住していた。だが幼い頃、親は彼女を連れて峰津市に引っ越した。その時の記憶はほとんどなく、理由を聞いてもいつも曖昧に流されてしまう。
ただ、父は本当はもっと遠くへ引っ越したかったのではないかということは、なんとなく感じていた。
月華紫蘭学院への入学を希望していた黎果は、反対を押し切って受験だけはしたが、学費を払わないとまで言われ、仕方なく滑り止めとして受けていた羅幕学院に入学することになったのだ。同じ中学だった彪がこの学校にいたこともあり、憧れの月華紫蘭学院が駄目ならどうしても羅幕学院へ行きたかった。
そんなこんなで期待に胸膨らませ入学した学校で出逢ったのが、針乘という未確認生命体だ。何故か猛烈アプローチされる被害に見舞われ、唯一の救いは彪だけという高校ライフ。
ただ、そんな針乘も黎果は心底嫌っている訳ではない。寧ろ、黎果が気付いていないだけで彪以外の救いは針乘かも知れなかった。
昔からそうだ。真面目な子とはたまに話すが、周りが真面目過ぎる黎果を批判するのもあり余計に浮いてしまい、心からの友達というものはなかったから。
そんな黎果にも唯一、胸を張って友達と言える人間がいた。ただその人物は、黎果の通う学校にはいない。
……夢を見た。
飛び散る赤。
広がる赤。
何かがぶつかる重い音と、何かが飛ぶ風を切る音。
自身に染み付く、ねっとりと粘性を帯びた生暖かい感触。
それは紛れもなく……。
「っ……!?」
落下して行くような感覚がした刹那、急に驚かされたようにビクンッと体が震え、黎果は目を覚ます。少し荒い呼吸と、早鐘を打つ鼓動。昨日の朝と同じパターンだ。
(なんで……こんな……)
いつも悪夢は同じ。グロテスクなもの。
寝る前にスプラッター映画を観ていたとかなら分かるが、そんなものは観ていないし、そもそも黎果にそんな趣味はない。また、寝ている時に外で犬が吠えていて夢に犬が出て来たりなどはあるようだが、黎果の夢は曖昧にぼやけているものの日常生活では有り得ない内容だ。
夢というものは目が覚めるとほとんど内容を覚えていないというのが大半だろうが、黎果の悪夢もそうだった。ただ、恐怖という感情だけ。更に具体性に欠け、夢占いなどで気休めを得ようとすることすら不可能。
黎果は少しの間、深呼吸を繰り返したが、軈てゆっくりと立ち上がって支度を始め、学校へ向かった。
朝食作りや洗濯をやっている間も足が小刻みに震えていたが、いつものように登校し、いつものような朝の光景を目の当たりにしていく内にいつの間にか収まっていた。
生徒会の挨拶運動も終わり、一時間目が数学という朝から憂鬱になりそうな授業を苦もなく澄ました顔で受けながら、黎果は考えごとをしていた。
梅雨の時期で窓の外には細糸のように白い雨が降り注ぎ、頬杖を突く黎果の耳にパラパラとした音を響かせる。
「じゃあ、黒雫。問い一を前に来て書いて」
「んぁ……? ふぁい……」
教師に指名され、明らかに居眠りしてただろと思うような返事をして怠そうに立ち上がる針乘。
黎果はその姿を横目で見詰めていた。
針乘は今日は珍しくちゃんと制服を着ていた。と言ってもピアスは健在で、ワイシャツはスカートから出している上にボタンを三つも開けててリボンもなし。しかも開けたワイシャツから派手な柄の明らかに校則違反のシャツが見えてるし、どうやったのか不明だがなんか懐中時計繋げてるし。スカートは階段を上っている時に下から見たら確実にパンツが見える短さに、ニーハイなんかを合わせていて、コスプレかと突っ込みたくなる有り様。しかし普段の服装の酷さを考えると、男子制服のパンツではなくスカートを穿いて、ちゃんとワイシャツも着てきたところは誉めるべきところか。
いや、やはり甘やかすべきではないだろう。針乘の服装について注意出来るのは、黎果しかいないのだから。教師たちが針乘に何も言えないのは針乘の叔母を恐れてのことだろうから、彼らに注意しろというのは酷だろう。
「いい夢見たか、黒雫」
思いっ切り机上に突っ伏して寝ていた針乘に気付いていた男性教師が、腕を組みながら怖い笑顔で少し近付く。
「いやん、エッチ! 僕に何する気!?」
頭を掻きながら答えを黒板に書いていた針乘が、両手で自らを抱えながら体をくねらせ上目遣いに数学教師を見遣ると、教室中から笑いが巻き起こる。
「そうだな……黒雫には特別に超難問だけを詰め合わせた問題集を二、三十枚くらい宿題として出そうか?」
「すみませんでした許して」
教室内に再び笑いが巻き起こった。
「こんなもんかなー? うん、大丈夫だね多分。これで合ってるはず、きっと。どうかなー、先生?」
「おお、正解だ」
「よっしゃ! やっぱり僕、天才!」
「そんな黒雫には特別に難解問題集を十枚プレゼントしよう」
「なんでやねんっ!?」
何故か定番の関西弁でマジ突っ込み。ふざけているようにしか見えないが、本人は割りと真剣である。
針乘によって教室内は笑いで満たされ、和やかに賑やかだった。
変人であるくせに、変人であるから故かも知れないが、ムードメーカー的存在でもある針乘。友人はと聞かれると沢山いると答える彼女だが、彼女が友人と言っている多くは知り合い程度の存在だろう。だからこそ、対人関係は手広いと言えるが。
奇人変人である色々と残念な針乘。ムードメーカー的存在である針乘。何処へ行っても必ず誰かから声を掛けられるような、交流が幅広い針乘。大概、いつも笑っているか飄々とちゃらんぽらんとしていられる針乘。勉強は出来るのに不真面目である針乘。その全てが、黎果とは対照的だった。
奇人変人とは対照的に色々と完璧で、ムードメーカーとはかけ離れ、薄っぺらい上辺以下の人間関係しかない黎果。いつもクールで無表情で、真面目な優等生である黎果。
「……」
見詰めていた針乘が不意に振り返り、目が合う。
胸がざわつく。その時抱いた感情が羨望だったことは、黎果には分からなかった。
(……いっちゃん……)
ふと別の学校に進学した或る人物を想う。
その人物こそ黎果が心からの友達と言える唯一の存在、時神一姫(しかん いつき)。無表情だがふんわりいた印象で、非常に頭がよく天才少女と称される子だ。
だがその子は軌鹿市にある、黎果の憧れる例の月華紫蘭学院にトップ入学してしまっている。たまにメールや電話などするが、忙しいようで長い間会えずにいた。
彼女がいれば、なんて何度思ったことか。だからか、いつも必ず誰かが傍にいる針乘が羨ましかったのだろう。
そんなことを考えながら、授業時間は刻々と過ぎていった。
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