黒の少女シリーズ | ナノ


『恋哀狂想』



 黎果も黎果でかなりの美人で文武両道であるため、周囲からは基本的に嫌われているのだが、唯一、精神の幼い男子連中からは騒がれている。
 だがあまり自分の容姿に関して自覚がないため、男子に対して大体の異性に興味を持ってしまう時期なのだという認識しかなかった。
 同時に針乘に対する嫉妬すらもない。自分の容姿に自覚もないのに、容姿はいいと認識している針乘に対する嫉妬の気持ちも抱かないということは、つまり執着がなかった。
 そんな黎果には分からなかった。可愛い女の子に難癖つけて、アイツ調子こいてるからハブるとか言い出す女子や、格好いい人を見てイケメンは死ねだとか嘆く男子の心理も。容姿とかそういったものなど、二の次ですらない。身嗜みは気にしなければならないが、千差万別な顔立ちなど気にする必要性があろうかと。元から色恋沙汰などもっての他であったのもあり、余計だった。
 愛に幼く、
 恋に無縁。
 ただ、そんな黎果でも唯一、いた。出来てしまった。
 一目見て、全てを奪われた人間が。
 一瞬だけで、全てを奪える人間が。

「黎果たーん」

 無視しても尚も話し掛けて来る針乘。黎果は立ち止まり溜息を吐いて、そんな変人に向き直った。

「なんなんですか?」
「いや? 様子がおかしかったからさ?」
「え?」
「さっき」

 不意を突かれた。
 どんな人間でも、よほど異常な精神か心理でもなければ、不意を突かれて少しも表情に出ない者はない。黎果は無表情の中に確りと、驚きの色を浮かび上がらせてしまっていた。
 見抜いていたのだ。針乘は、変人で阿呆で何かあってもヘラヘラ笑って流すと思っていた針乘は、黎果の微々たる変化に気付き、話し掛けていた。

「……少し、考えごとをしていただけですよ」

 ほんの少し、僅かな間が出来たが、直ぐにそう答える。視線を逸らしてしまったのは失敗だった。
 だが詮索される謂われはない。友達でもない針乘には関係のないことだ。

「黎果」

 呼び捨てにされ、固まる。更なる不意打ち。振り向くと真剣な、深刻な、今まで見たことがないほど真面目な顔付きで黎果を見詰める針乘がいた。
 無表情であるくせに、妙に威圧感を、畏怖を覚える視線。その瞳はただ一点を、黎果の目だけを見詰めていた。
 一見、虚空を映しているように見えるが、相手に簡単には目を逸らさせない気魄を湛え、黎果はなんだか侵してはならない領域を、誰にも許したことのない自分の内側を、無遠慮に不法侵入されているような気持ちになった。精神的な陵辱、とも言えるほどの強い瞳。
 嫌な視線。耐えられない。なのに黎果は硬直したまま動けなかった。逸らしたいのに、視線が逸らせない。

「黎果はさ――」
「でしょお!? 超ー有り得ないよね!?」

 針乘が言い掛けたところで、年相応の、女子高生らしい大きな声がその続きを遮った。
 二人が声のする方を見遣ると、複数の女子が階段から降りて来ているところで、無駄にデカい声でトーク中であった。先ほどまで静かだった廊下は、針乘が煩いせいで静かとは言えなかったかも知れないが、それでもそこまで煩くなかった廊下は、女子たちが屯して話し始めたせいで一気に騒がしくなった。

「あらん、厄介ねん。場所移そかー?」

 さっき雰囲気がガラリと変わった針乘はいつもの調子に戻っており、チェシャ猫のような質の悪い笑顔に多少迷惑そうな色を覗かせ、さらさらのショートヘアを右手で撫でながらそう言った。
 確かに黎果だってこんな煩いところはとっとと去りたかったが、針乘とのんびり話などしている場合ではない。先ほどの雰囲気に気圧されてしまったが、黎果は今、生徒会の仕事の真っ最中なのだ。
 油断するとあの視線や雰囲気をまた向けられそうで、どう断ろうか逃げてしまおうか黎果が考えていると、耳に入る。少し遠くで屯していて、黎果や針乘の存在に気付いてはいない、女子連中の会話が。

「ないわー、マジ。一淨ってそうゆうとこあるよね!」

 聞こえて来た名前に、反応する。針乘はきょとんとした顔を女子連中に向けていた。黎果は無表情は無表情でも先ほどより冷めた無表情になり、瞳から色が消えて行く。
 ――言わせておけばいい。そう思い、全てを耐え抑え込んでしまう哀愁がそこにはあった。

「この前なんかさ、プリント持ってったら提出物の期限は今日の昼休みまでとか言い出しやがってさ! 私、ちゃんと持って行ったのに未提出ってことにされて平常点下げられたかんね!? ぶっ殺すぞ」
「アタシもさぁ、五千回も書かなきゃいけない英語の課題のやつ一個足りないとか言いやがってさ! その場で書き足したのに駄目とか融通利かなさ過ぎ! 誰だってそれくらいの間違いはあるじゃん! 最悪だよね、アイツ! 先公もアイツの言うこと聞き過ぎ。マジ死ねよ」
「うわ……調子乗りすぎだろ、あの女。キモッ」

 身勝手で自分勝手で、だが学生らしい、そんな意見。意見と言うより、批判が正しい気がするが。
 最初の子の場合、教師に予めプリント提出の期限は伝えられていた。その日の昼休みまでに持って来なかった人は未提出になりますよ、と。未提出の人だけ特別な課題を出します、と。それを彼女は、やってあったが昼休みまでに持って行くのを忘れていたからいいだろうと抗議をしていただけである。抗議に折れ掛けた教師に黎果が意見し、結局、課題地獄に陥った悪因悪果の逆恨みだ。
 次の子の意見も、確かに人には誰しもミスをしてしまうということはあるだろう。ただ、それに対し融通を利かせてくれる人が単に優しいのであり、それをミスした側が声を大にして求めるのは間違っている。
 社会に出れば、仕事でこれと言われれば“これ”でしか有り得ず、これより少しでも違ったというだけで重大に取られることもある。忘れていただけだからいいだろう、その場で書き足したからいいだろう、なんて言い訳でしかない。彼女たちはそれに対し、我が儘を主張している子供であった。

「勉強も運動も出来るからって人のこと見下してんじゃね?」
「バカ男子共に騒がれて勘違いしてんのもあるよね! 顔いいっつーか、能面女なだけじゃん」
「つーかさ! アイツ絶対、先公に色目使ってるよね!?」
「分かる分かる! 先公もアイツに対して妙に弱いもんね。体でも売ってんじゃねー?」
「キンモッ! ガチで死ねばいいのに」
「調子こいてんじゃねえよ、糞ビッチ! 殺すぞ」

 いつものことだった。こういうことを言う女子が大半を占めている。男子は騒いでいる一部の幼稚男子以外は、真面目すぎてウザいというストレートな意見であることが多い。だが女子は違う。ネチネチと難癖つけて、粗探しして、悪意をぶつけて来る。
 しかしそれが女であるとも言えるし、学生であるとも言える。
 何かあれば直ぐに“死ね”、“殺す”。若気の至りで許されるレベルなのかは分からないが、若者は当たり前かのように物騒な言葉を平気で使う。
 黎果は何も言わず、彫刻のように美しいが動かない無機的な表情で踵を返し、今度こそ生徒会の仕事に戻ろうとしていた。

「おい」

 だがその声に、振り返る。聞き覚えがあり、聞き覚えのない声。
 見ると針乘がスタスタと女子連中の近くまで歩いて行っており、女子連中は怪訝な顔をしていた。

「ちょっ――」
「君らさ、何言ってるの?」

 引き留めようと声を発し掛けたが、遮られる。
 間違いなく針乘が発した声であり、だがそれは普段のおちゃらけたそれではなく、刺突するような鋭い声音であった。
 ……まるで、針の切っ先が突き刺さるような、大したことないようでいて甘くない痛みを持つ、そんな鋭利さ。

「は? 何が?」

 屯している女子の中の一人、金に近い髪色に染めているピアスを大量につけた人物があからさまに刺のある鋭い口調で聞き返す。

「いきなり来てなんなの? ウザいんですけど」

 するともう一人の、アッシュ系カラーの髪色をしたブレスレットを何連にもつけている女子も追い討ちを掛けた。
 どうやらバカには針乘の雰囲気が伝わらないらしい。
 弱そうなオッサンを見掛けた若いヤンキー連中が、ただのオッサンだと思って恐喝しようとしたら実はその男がヤクザで大変なことになった、ということは本当にあるものだ。それはそういうヤンキー連中がバカで鈍感だったからである。この女子達も同じだった。針乘が持つ“狂気”に、まるで気付いていない。

「へぇ……」

 針乘がドヤ顔で、女子連中を見る。そうか分かった、ならば仕方ない、とでも言いたそうな雰囲気だった。
 彼女は左手だけ袖の指穴から親指を抜き、右手を左手の甲に添えるようにして袖を捲ろうとした――その時だった。

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