『恋哀狂想』
第一話 日常
『なんで?』
吹き荒ぶ風がヒュウヒュウと不気味な音を立てるだけの真っ暗な空間の中、問い掛ける声がする。酷く抑揚のないその声はしかし、確実に彼女を責めていた。
『どうして、あなたは、いきているの?』
尚も問い掛けて来るその声音は幼い子供のそのものだったが、見詰めて来る目は子供らしい無垢な瞳だったが、子供らしくない感情のない死んだ瞳でもあり、その奥に潜む芯は大人以上に大人で、強烈な違和感とうすら寒いものを覚える。
『ねえ』
幼い子供は、手を伸ばす。小さくて蒼白い、手を。
『なんで』
嫌。叫んだつもりが、声に出ない。目を見開いた悍ましい白い顔が、徐々に近付いて来る。
『いきているのが』
蒼白な顔に、相反する赤い液体が流れ出て行く。
『あなたなの?』
ドクン、と心臓が跳ねる。知らず分からないのに、何か沸き上がって来るものがある。手首と胸の奥にズキズキとした痛みが広がるが、それも分からない。全てが、分からない。
『ひとごろし』
その言葉に、引き裂かれるような痛みが胸に広がる。何も分からないのに、その重さが心に突き刺さる。
罪悪感――。
人殺しなんて、したことはない。あるはずもない。なのに感じる、罪悪感。まるで自分がこの子を殺して、にも関わらず自分だけのうのうと普通に生活しているような、いきなり自分が無罪判定の犯罪者だと知らされたかのような気分。怖くて泣きたくて苦しくて、押し潰されそうな心。
だが刹那、その感情は恐怖に塗り潰されることになる。
『あなたも、しんじゃえ』
酷く徐に、放たれた言葉。とても子供のものとは思えない、大人でも無理がある強い怨憎を感じ、あまりの鬼気に、狂気に、脅威に、恐怖に、硬直した体はぴくりとも動かせず、声も出せなかった。悲鳴さえ上げられぬ、恐怖。
不意にぐにゃりと、目の前の子供が崩れる。見る見る内に子供の姿は、筆舌に尽くし難い姿へと変貌していった。
四肢は千切れ、全身バラバラ。頭の一部は破裂し、一応人の形をしてはいるが、それは子供の粘土遊びのように崩れた人形のようでしかなかった。
破裂した頭からは脳漿と脳味噌が零れ、切断された胴体から臓腑が長々と伸び、その目を背けたくなる悲惨な姿でケラケラと笑っている。心を引き裂くような、壊れた笑い声。
そして、子供は最後に、決定的な台詞を――。
『
ころしてやる』
落下して行くような感覚がした次の瞬間、体がビクンッと跳ね上がるように痙攣し、その少女は目を覚ました。
「はっ……はっ……」
激しく早鐘を打つ心臓と、中々落ち着かない呼吸。全身に嫌な冷や汗をかき、体は小刻みに震えていた。
(怖いっ……)
起き上がった少女は両手で顔を覆い、前のめりに上半身だけ布団に突っ伏した。
最悪な、悪夢。なんのことだか分からないのに、心はそれを知っている。自らを責める自らの心に、戸惑いを隠せなかった。
彼女は暫くそうしていたが、やがて少し落ち着いて来ると、目に溜まった涙を拭い、薄闇の中スマホで時間を確認する。
「支度、しなきゃ……」
心を鎮めようと殊更大きな声で呟き、学校へ行く準備を始め出した。
少女の名は、一淨黎果(いちじょう れいか)。
優等生だなんて実際に使ったりはしないであろうが、彼女はその呼び名が相応しい、真面目の上に糞がつくような人間だった。
電子書籍よりも紙の本が好きな彼女の部屋に設置してある本棚には、参考書やら難しそうなお堅い本などがところ狭しと並べられ、隅の方に少し趣味の小説が置かれている。部屋を見れば、彼女の勤勉さはよく分かった。
学校でも小中学校と学級委員長や生徒会役員を務め、中学三年の時には当然のように生徒会長。高校に入学し、一年の時は学級委員を務め、二年の現在は生徒会役員と学級委員長を兼任している。それは飽くまで建前で、実際は黎果が生徒会長のようなものだったのだが。
生徒会なんて仕事が多く面倒なため誰もやりたがらない上に、誰かを任命しても仕事をサボりがちになる。今の三年の生徒会長もそんな生徒であり、黎果が孤軍奮闘している状態だ。
お人好しとも言えるが、自身の中で“決して無駄にはならない”と答えを出していたためでもある。また、黎果が逃げたところで誰かがやらなければいけない。彼女はそれをちゃんと理解していた。
無論、そんな黎果の厳格さは学校だけではない。
先ず黎果の家庭環境は決して良好とは言えなかった。別に虐待だとか両親が不仲だとかそういった問題がある訳ではなく、寧ろ関係自体は良好だったが、単に黎果はいつも広い家に一人だったのだ。
彼女の父はいわゆるエリートで出張などは頻繁にあり、今現在は海外に出張中だ。母は、黎果がまだ幼い時に病気で亡くなったのだと聞かされていた。
男手一つで、女の子のことなど分からないことも多いだろうに、一生懸命育ててくれた父親。仕事では、皆のためにと無理してくれているだけであるのに、エリートの“なんでも出来る男”として先輩後輩、上司や部下たちから常に頼られ常に気を張り、疲れているであろうにたまの休日にはそんなことおくびにも出さずに構ってくれた、優しい男だった。
黎果はそんな父の言うことはなんでも聞くし、そんな父に少しでも自分は何をしてあげられるだろうといつも考えていた。
だから、父親のほとんどいない家でも彼女は律儀に規則を遵守する。
渡されているカードに振り込まれる生活費も、黎果は本当に必要最低限しか使わない。たまに欲しい本などがある時は、きちんと父に金額などもメールで連絡してから使い、細かく家計簿に記録しているのだから宛ら主婦のようだ。お金は毎月多過ぎるくらい振り込まれるので、生活費に使っているのに残高は上がる一方だった。
そんな彼女は、周りからこう呼ばれていた。
“規則の鎖”と――。
そんな彼女は今日もまた、誰もいない家に行ってきますと挨拶をして、学校へと向かうのだった。
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