黒き疾風シリーズ | ナノ


『月の眼(モーント・アオゲ)』




「波紋さん」

 帰り際、声を掛けられる。振り返ると工場長の穏やかな笑みがあった。

「お、お疲れ様です。あ、あの……何かありましたか……?」
「ふふふ、そんなに身構えなくても大丈夫だよ。螺旋さんって、いつも自転車で来てるんだっけ?」

 突然上の人から声を掛けられて恐縮する私の緊張を解すように、工場長は肩をぽんと叩いてくれた。

「あ、はい。自転車です」

 私はいつも寮から自転車通勤をしていた。バスによる送迎も出ているのだが、当然ながら時間が決まっており、且つ殆ど男性な上に鮨詰め状態になるため、時間調整も利いて男性が少し怖い私は自転車通勤を選択していたのだ。

「そっかぁ。うーん……」

 白と黒の斑の髭が生えた顎をさすりながら唸る工場長。
 そもそも挨拶だけなら考え込むような様子は見せないはず。何か私に用があったのだろう。

「あ、あの……どうか、しました……?」
「いや、あのね。螺旋さんには最近、無理させちゃってるんじゃないかなって。それで、ちょっと食事でも奢ろうかと思ってね」
「そ、そんなことないですよ……! 雇って下さっただけでも大変感謝してます……! し、食事なんてとんでもないです……!」

 不意打ち過ぎて、自分でも少し落ち着けと突っ込みたくなるくらいには慌ててしまった。
 それに、正社員ですらない一社員と工場長が二人で食事なんて問題にならないのだろうかと考えたのもあった。誘ってくれるのは素直に有り難かったが。

「いや、螺旋さんの都合が悪いならいいんだ。ただ、俺は頑張っている人にはよく声を掛けるんだよ。この前も溶接の方の子たちに奢ったんだけどね、しょうもない奴らだったよ」

 冗談めかして笑う工場長は、その優しそうな印象通り社員を大事にしてくれる部類なのだろう。ならば、上司からの折角の好意を無下にすることはない。

「あ、よ、予定はないので大丈夫ですよ……! あ、有難うございます……! ただ、その……出勤は徒歩で行けますが、自転車は……」
「それなら、自転車は置いておいて大丈夫だよ。守衛には言っておくから」

 柔和に微笑む工場長を見て、世の中には自分を見てくれている人間もいるのだと嬉しくなった。一人でもいるのなら私は、幸せな人間なのだと。
 そのまま一台のセダンに案内され、後部座席に乗せて貰い、白色の格好いいハイブリッド車は軽快に走り出した。







 人生は、

 世の中は、

 何処まで私を虐げるのだろう――。







「捕まえたぞ。間違いなくフォルムだ」

 工場長が電話で話している声が聞こえて来る。
 視界は真っ暗だった。何故なら私の体は拘束具でガッチリと固められており、更に目隠しと猿轡によって一切の自由を奪われていたのだから――。
 何がどうなっているのか、分からない。
 暫く車を走らせたところで、工場長はいきなり私を殴り倒した。そして何が起きたのか思考が追い付かぬ間に、私をこのように雁字搦めにしてしまった。とても、慣れた手付きで。抵抗すらできなかった。
 いや、抵抗できたとしても私はしなかっただろう。男の人に暴力を振るわれて、もし脅されただけで振るわれていなくてもだが、抵抗なんてできるほど気丈ではない。怖くて逆らえなくて、縮こまって成り行きに任せる様は、まるで学生時代のイジメと同じだった。

「悪いな、波紋螺旋。俺の職業は、工場長だけじゃないんだよ」

 工場長は、いや、工場長だった男は、電話を切るとそう言って高笑いを上げる。声音まで別人のように聞こえた。
 何が可笑しいのだろう。
 何かおかしいのだろう。
 これは本当に、あの温和そうな工場長と同一人物だろうか。多重人格か、私を殴ったあの瞬間に誰か別の人間と入れ替わったのではないかと思うほどだ。

「っ……」

 拘束状態でみっともなく震えているだけの私は、端から見ればさぞかし哀れだったろう。宛ら弱った芋虫だ。
 だが殴られた時の痛みと、それも信頼していた工場長によるものという二重のショックに、押し寄せる恐怖が全身を、全霊を支配して脳が麻痺していた。思考も感情も、追い付かないのだ。

「けひひひひっ……! フォルムを捕まえたとあれば俺は昇格だ! 連中も血眼になって捜してるってのに、次々殺されてて情けないからな!」
(ころ、さ、れ……?)

 ――殺されて。
 麻痺した脳がその意味をまだ理解できぬ内に、凄い力で引っ張られた。同時に、地面とタイヤが鼓膜を貫く金切り声を上げる。
 私は為す術なく前部座席に打ち付けられ、目眩と吐き気を覚えた。

「おいっ!! 危ねえぞっ!!」

 どうやら急ブレーキを掛けたらしかった。シートベルトもできず無造作に積まれていた私は、慣性力で打ち付けられる羽目になったのだ。

「危ない? どちらがでしょうね? 大人しく後部座席に乗せている方を解放して下さい。従わないのなら……容赦はしませんよ」
「は!? ……お前っ、月の眼!?」

 女性の声が聞こえ、そのあとに男が放った“つきのめ”という言葉。
 意味が分からず、
 訳が分からない。
 見えていても理解できない範疇を、目隠しが更に邪魔をして置いてけぼりだ。

 見えないのは怖い。
 知れないのは怖い。
 聞こえるのは怖い。

 結局はどうしようもなく、同じようにその場で芋虫のように震えていることしかできなかった。
 猿轡を噛み締める。悔しい。いつもいつも、私は……。

「糞っ……!!」

 男は大きく叫ぶと急発進をしたらしく、二度目の慣性力が加わる。
 だが、それも直ぐに止まった。

(何がっ……起きてっ……)

 停まったのではなく、止まったのだ。
 見えなくても分かる。私の鼓膜が捉えた音は、普通ではなかった。男の怒号が聞こえ、妙な音が聞こえ、辺りは一気に静寂に包まれたのだ。

「呆気なぁーい……つまんなーい。帰って、ゲームやりたいんだけど?」
「もう少しですよ。彼女を連れて行きましょう。……あの、大丈夫ですか? 今、外しますね」

 不意に、声を掛けられた。びくりと体が震える。
 知らない女性の声は、少し冷たい感じがして、けれども嫌な感じはしなかった。

「……ぁ……」

 誰かも分からぬ女性によって拘束具が外されて、やっと暗闇から解放されると同時に、視界には端整な顔が二つ飛び込んで来た。
 一人は、グレーの鋭い瞳と外ハネのミディアムヘアーが印象的な女性。美人だけど能面のように表情がなく、冷たい印象を与える。恐らく、拘束具を外してくれた人だろう。白い服が同化しているかの如く馴染んでおり、白色だからだろうか、何故か病院を連想してしまう。
 その後ろに立つもう一人の女性は、西洋人形が立っているのかと一瞬びっくりするほどに綺麗な顔をしていた。ショートの赤い髪が絹のように真っ白い肌に映えて、ミステリアスな雰囲気を醸し出している。更にグレーの髪の女性より若干背が高く、モデルのように痩せ細った完璧な体型だ。

「怪我をされているようですね……」

 拘束具から解放されたと思ったら、いきなりレベル高過ぎの美女二人の登場に呆けてしまっていたが、頬の痛みと血の味で現実に引き戻される。

「あ、だ、大丈夫です……! そ、それより……貴女方は……?」

 私は、怖ず怖ずと声を絞り出した。
 混乱してはいたが、先ず彼女たちが誰なのか知らなければならない。工場長と違って乱暴を働く訳ではなさそうだが、何者なのか、何が目的なのか分からないことだらけだ。

「突然すみません。怪しい女が二人、名乗りもせず話を聞けと言うのは無理がありますよね。私は、灰崎純宋(はいざき じゅんそう)と申します。会社員です」
「赤鵺紅織(せきや こおり)」

 グレーの髪の灰崎さんと名乗った女性が丁寧なのに対し、もう一人はただ名前だけを告げた。そして着けているヘッドホンを直しながら、軽い口調で言う。

「とりまお初ー、伝説のフォルム能力者さん」

 聞き慣れない言葉。だが、それを聞くのは二度目だ。

「ふぉ、るむ……?」

 フォルムとはなんなのだろう。何かの隠語だろうか。単純にフォルムの意味としては形、もしくは姿か。
 現時点では考えたところで全く分からないが、どうやら私がその“フォルム”であるからこのような目に遭わされたらしいのは確かだ。工場長は私を間違いなくフォルムだと言って、昇格だとか喜んでいたのだから。

「紅織さん、話をややこしくしないで下さい」

 灰崎さんがジト目を向けるも、赤鵺さんは天然なのか図太いのかきょとんとしていた。

「そうですね……単刀直入に言いましょう。私たちと一緒に来て欲しいんです。詳しいことは、ここでは話せません。誰が聞いているか分かりませんから」

 私は赤くなっている手首をさすりながら、ただ灰崎さんを見詰めていた。
 何もかもが急だ。いきなり現れた自分たちに着いて来いだなんて、むちゃくちゃだった。
 ――そう、普通なら。
 私は、何故か灰崎さんたちに強い安心を感じていた。自分でも驚愕だが、心よりもっと深奥の何かが、この人たちを無条件で信用してもいいとまで言っている。
 先ほど信頼していた工場長の裏切りを目の当たりにしたというのに、知らない女性二人を信用できてしまう心境は異状だった。まるで、見えない何かに導かれているよう。

「簡単に言うと、私たちは貴女の味方側で、貴女を襲った男性は敵側であり、どちらも貴女を捜していたんです。私たちは理由あって貴女を守るために。しかし敵側は、貴女を捕まえてそれこそ玩具にしようと考えています。……無論、私の言うことを信じられないと言われても仕方ないのは承知の上です。しかし、もう時間がないのです。このままでは貴女は、何れ連中の手に渡ってしまう……。どうか、来ていただけますか?」

 灰崎さんの瞳を見詰める。臆病で俯きがちの私が、顔を上げて真っ直ぐ見詰めていられた。


 私は――。


「……ちゃんと……説明、して下さるんですよね……?」
「ええ、約束します」

 私は、酷く運命的なものを感じていた。
 いや、そんなものではない。運命とか宿命とか、そういったものは自分次第で変えて行けるだろう。だからこの時の私の返事は、もっと大きなものに強制されていたのだ。自分では変えられない、強大な何かに。

「……分かりました。行きます」

 俯き、数秒の逡巡があった後、顔を上げた私は殆ど無意識にそう言っていた――。



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