迅という男
踏みしめた灰色のコンクリートの床は、昔の頃に比べればもうかなり薄汚れてしまっていた。一見すれば、廃れたビルの屋上。そこにある重々しい扉の横にある機械にトリガーをかざせば、扉が自動で開いてくれるので、そこ2人で通り抜ける。
「思ってたより楽だったね」
「ゲートも結局あれから開かなかったですね」
「あれなら一人でもよかったのに……」
エレベーターに乗り込んで、閉めるのボタンを押す。何故付いてきたのか、当たり前のように隣に立っている後輩に、またじとりと視線を送った。
「生緒先輩……」
すると彼から零れた哀愁を感じさせる声色に、傷つけてしまったのかと一瞬たじろく。
「生緒先輩は保護者が一緒じゃないと…」
「あ?」
「まあまあ落ち着いて」
しかし、1ミリも彼の心は傷付いていないようだ。寧ろ、こうして人をおちょくる余裕すらお持ちのようで、あのクールの塊であるようなレイジさんの弟子というのは伊達ではないらしい。性格まで伝授してしまうとは、流石である。
「とりまるも、前はもっと可愛かったのになぁ」
「そうっすかね」
「どうしてこう悪ガキに進化しちゃったかなあ」
「先輩だけは言われたくないです」
「どういう意味だ?」
怒ってやろうと口を開きかけた刹那、目の前のエレベーターの扉がウィンと音を立てて開く。遠くまで続く、清潔感のある白一色で染まった通路には多くの隊員がいて、ここで声を荒げれば、目立つことは火を見るよりも明らかだ。仕方なく口を閉じ通路へと足を踏み出す。
「はあ……。せっかく今日からしばらくは玉狛支部だと思ってたのに、どうしてこうなったかなあ」
どうして本部に来る羽目になったのだろうか。どうも本部は人が多くて少し居心地が悪い。がやがやとにぎわう通路は少々落ち着かない。あまり来たくはなかった、というのが本音である。
「戦闘の報告もしなきゃいけないってのに……なんで今、なんで本部に、呼び出してくれるかなああのセクハラ野郎……」
そうして思い浮かべた彼は、腹立たしいことにいつも見せる笑顔で私の脳内に現れるものだから、込み上げてくる苛立ちを抑えきれず、小さく舌を打った。どうしてこうなってしまったのか、事の発端はつい先程、丁度戦闘が終わったときのことだった。
「生緒、京介お疲れ様」
「…げ、この声は……」
「迅さん…お疲れ様です」
まるで戦闘が終わる瞬間を分かっていたかのように、タイミングよく通信機から聞こえてきた緊張感のない呑気な声。その主を察した途端、思わず苦い声が零れた。とりまるも、迅の登場は予想外だったらしく、その人物の名前を呟く時、一瞬ではあったが動揺しているのがわかった。
「ちょっとやだなあ、生緒。そんな露骨に嫌そうな声ださないでよ」
「お前が絡んでくるときは大体ろくなことが無い」
「手厳しいなあ」
まぁそんなツンツンしたところも可愛いんだけどさ。そう続けられた台詞に思わず鳥肌がたった。何言ったって楽しそうにしてるこいつは、ある意味とりまるよりもたちが悪い。
「迅……」
「ん?なになに、どうした?」
「きもい」
「わお、直球」
単刀直入に悪口をぶつけてみるも、彼はあははと晴れやかな笑い声をあげるだけで、こちらもまた鋼のようなメンタルが健在であると察する。玉狛の精神力どうなってんだ。いっそうちのオペレーターも玉狛にいればいいんじゃないか?
「で、本題は?まさかそんなこと言うために声かけたわけじゃないでしょ」
「たまには生緒の声が聞きたくってさ」
「……」
絶句する。もともとこうおチャラけた性格であることはわかってはいたが、ここまでに甘い台詞を連発でかけられてしまうと鳥肌がたつのを超えて、乾いた笑いがこみ上げてくる。
「とりまる」
「なんすか」
「たすけて」
「無理です」
隣で通信機を通して行われている会話を静かに聞いていたとりまるに、こっそりヘルプを求めてみたが、案の定涼しい顔で断られた。薄情者め、心の中で叫びつつため息を零せば、迅の愉快そうな笑い声が通信機から聞こえてくる。
「名残惜しいけど、楽しいお話は終わりにして…」
「たのしい?なにが?わからん」
というか、本題あるんじゃねえか、おい。
「生緒、この後本部に集合ね」
「日本語でお願いします」
しかし彼は私にツッコむ隙も、返事する時間も与えてはくれなかった。彼が発言してから間もなくじゃあ待ってるぞ、という台詞と同時に一方的に切られた通信。そうして本部に来ることが決定してしまい、今に至るのである。今日から私は玉狛に派遣されるため、本日中に顔を合わせることは想像していたのだが、まさか本部で、こんな形で、顔を合わせることになるとは思いもしなかった。朝何となく本部に行くことになる気がしていたが、それはこういうことだったようだ。暫く放心している私に、とりまるは私の肩にそっと手を置き、ご愁傷様ですと唱えた。そうしてそそくさと自分は玉狛支部へ向かうんだろうと思いきや、意外にもこうして本部まで同行したのであるが……。
「そういえば、とりまるも本部に何か用?」
「いえ、なんも」
返ってきたのは、素っ気ない返事。滅多に本部に姿を現さない彼が、用もなしにわざわざここに来ることはあり得ないと思うのだが、彼は何をしに来たのだろうか?
「もしかして私の監視だったりする?」
「そうって言ったらどうします?」
「そうよねえ、違うよねえ」
そんなわけないよなあ。迅が頼むってこともないだろうし、私が来るってこと知ってるだろうしなあ。とりまるがこういう風に言ってくるってことも違うってことだし。とりまるが来た理由と言い、迅が私を呼び出した目的と言い、皆目見当もつかない。とりまるも迅も、何を考えているのか、わからないことだらけで溜息をついた。
「どうして来たの?」
「何でしょうねえ」
「全然わかんない」
そう言っても、相変わらず表情をピクリとも動かさないとりまる。これは口を割る気はないらしい。こう隠されてしまっては、増々気になってしまうのが人の性である。そもそもそんなに言えないことなのだろうか。彼の性格上、面白半分で言わないという線も考えられるが、もしかすると……。
「とりまるさ、まさかだけど」
「はい」
足を止めてとりまるを見つめる。そうすれば数歩歩いて、止まった私に気が付いたのか、彼も足を止めた。端整な顔を見上げながら、彼の背が高くなったことを改めて実感する。入隊した頃はもっと小さかったのに。
「とりまるがここに来た理由ってもしかしてさ……」
「なんです」
本部の廊下で2人の男女が見つめ合っている、一見すれば不自然な絵面であるが、気にしない。仏頂面のまま、私を真っすぐ見つめ続けているとりまる。彼も、口を開かなければただのイケメンでいられたのに。実に勿体ない。本部に用事がない彼がここに足を運んだ理由、私はそれに一つだけ心当たりがあった。
「迅に会いたいの?」
「やめてください」
「ごめん」
コンマ1秒すら経ってないと思う程の速攻で返ってきた低い声は、あからさまな怒気を帯びていて、即座に口をにつぐむ。ぷいっとそっぽを向いてスタスタと廊下を歩き出す彼の後ろを、そっとついていこうと足を動かした。
「あああああああああ!生緒さんだ!」
すると、横から元気な声が耳に入る。
「ん……?あ、駿」
大きな休憩広場に差し掛かろうとしたときだった。嬉しそうな声と共にこちらへ駆けてくる後輩の姿が見えた。