授業も終わり、生徒が自由に動き出す夕方頃。騒がしい部室の中で部活の練習着に着替えを終えた俺は、部室の棚から備品を取り出して体育館へ向かう準備をしていた。うちの部の1、2年は騒がしい奴が多く、今日も軽い言い合いをしながら着替えをしているためか、山本たちは準備があまり進んでいない。早く着替えろよ、と声をかけると同時に着替えを終えた1年が俺の手から荷物を受け取って部室を出ていく。残った軽い荷物を持ち、部室を出て黒尾と一緒に体育館へ向かおうとして、俺は何かが足りないことに気が付いた。

「黒尾、俺サポーター教室に忘れたから取ってくるわ」
「ん?おう、珍しいな夜久が忘れ物なんて。今日いつもよりぼんやりしてっけど、調子わりーのか?」
「いや、大したことねーから。先行ってて」
「おー」

黒尾に背を向けて元来た道を戻り、さっきとは別の角を曲がって教室棟へ向かう。黒尾に言われた通り、今日はいつもよりぼんやりしていたと思う。その理由はなんとなく自分でもわかっていた。

毎日部活で体を動かしていることもあってか、俺は眠りが深くて夢を見ることがあまりない。時々夢を見ても、内容をあまり覚えていないし、これといって気にすることもない。しかし、今朝に見た夢は今まで以上にはっきりと覚えていた。

黒尾には腐れ縁の女子がいる。中学からずっと同じクラスで、高校でも3年間同じクラスだというみょうじは、現在俺のクラスメイトでもある。黒尾と一番近い女子というわけで、なんだかんだで俺も親しくなった。そんなみょうじが、今朝夢に出てきた。

いつものように黒尾と親しげに話をしている様子を、遠くから俺が見ている。黒尾のあの特徴的な寝ぐせに手を伸ばし、弄って楽しそうに笑うみょうじと、同じようにみょうじの髪に触れる黒尾。その光景は俺が頻繁に見ていたもので、相変わらず仲がいいなといつも思っていた。でも、今朝の夢は違った。

夢の中の俺ははっきりとそれを「うらやましい」と思っていた。ためらいもなく黒尾に延ばされる小さな手を、黒尾に笑いかける人懐こい笑顔が、俺に向けられないことに対して、どうしようもない羨望と悲しみの感情を抱いていた。自分でも、自分の中で何が起こっているのかわからなかった。今までそんな気持ちを抱いた事は、一度もなかった。

目が覚め、なんとも形容し難い感情を抱いた俺は明らかに動揺していた。たかが夢、そう考えることにしていたけれど、目覚めた時に感じたあの黒く重い感情は俺に強烈なインパクトを与えた。

今朝の妙な夢のことを思い出しながら階段を上り終え、自分の教室に向かう。歩きなれた廊下は、ホームルームが終わったからか、人通りがない。静かな廊下に自分の足音だけが聞こえる中、俺は自分の教室に足を踏み入れた。

人がいなくなった教室は、誰かが窓を閉め忘れたのか、開け放たれた窓から入る風がカーテンを揺らしていた。少し日が傾いた日中の暖かい日差しが教室をわずかに照らす。窓際の後ろから2番目の席に、一人の女子が頬杖をついてすやすやと眠っているのを見つけ、思わずどきりとする。

自分の机にかかっているサポーターを入れた袋を回収し、ちらりと視線を窓際に移す。眠り込んでいるみょうじに起きる気配はない。

そういえば今朝、道で黒尾とみょうじに遭遇した時にみょうじが言っていたことを思い出した。怖い夢を見たらしいみょうじは、朝見かけた時はとても眠そうで、どこかぼんやりとしていたことを思い出す。暗くなる前に起こした方がいいだろうなと思い、みょうじに近付いた時、窓から風が吹き込んでさらさらとみょうじの髪を揺らした。

なんとなく触れたくなって手を伸ばし、艶のある髪に触れる。夢の中で黒尾が言っていた通り、柔らかくて綺麗な髪だ。伏せられた長い睫毛や、少しだけ赤らんだ頬、その全てが綺麗だとそう思った。

何をしているんだとはっと我に返り、慌ててみょうじの肩をぽんぽんと叩く。ん、と小さな声を上げてゆっくりと目を覚ましたみょうじはゆっくりと首をかしげた後、「夜久?」と掠れた声で俺の名前を呼んだ。

「起きたか」
「え…?」
「もう授業が終わって放課後だぞ。暗くなる前に帰れよ」

ぼんやりとしていたみょうじはしばらく俺の顔を見た後に、教室の掛け時計に目を向ける。そしてはっとしたような顔をするとガタンと音を立てて勢いよく立ち上がった。

「やばい!帰らなきゃなんだった!」
「おー、気を付けて帰れよ」

慌てて帰宅準備を始めるみょうじを確認してから、俺も練習に向かおうと教室を出る。サポーターをしっかり持っていることを確認して体育館へ向かおうとすると、もう準備を終えたみょうじが教室を飛び出し、夜久!と明るく声を張った。

「起こしてくれてありがと!またね!」

みょうじはそう言ってにこりと笑う。その笑顔は間違いなく俺が夢の中で望んでいたもので、照れと喜びがじわじわと俺の心に浸透していった。駆けて行った小さな背中は少しずつ遠くなり、やがて角を曲がって見えなくなる。どうしてかはわからないが、しばらくの間俺はその場から動くことが出来なかった。みょうじが曲がった角を眺めながら、俺は喜びと照れくささと、そして何とも言い難い切なさを胸に感じていた。