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夜も更け、自室の扉を開けて電気のスイッチを押すと、薄暗い室内が一瞬にしてあかるくなる。なまえは濡れた栗色の髪をタオルで拭きながら、机の横にある小さなドレッサーの上、最近買ったばかりの化粧水に手を伸ばした。

ひんやりとした液体が肌に吸収される感覚が気持ちいい。ちらりと机の上に置かれた開かれた問題集を一瞥し、ため息をついた。数学の難問に挑戦しているのだがうまく解けず、気分を晴らすために入浴した後だった。今日はこの問題だけ解いて終わりにしよう。そう思いドライヤーで髪を乾かしていく。この調子なら、課題は来週の提出期限までには余裕で終わらせられるだろう。

柔らかな栗色の髪は完全に乾くと、辺りにふわりとシャンプーの香りが漂った。勉強を再開する前に携帯に目を向けると、緑色のランプが点滅しているのに気付く。誰かからメールが来たみたいだ。ベッドの上にぽんと置かれていた携帯に手を伸ばしてメールを開く。彼女はしばらく文面を見つめた後、首を傾げ、自分以外誰もいない室内で小さく内容を声に出して反復した。

「明日の昼、練習付き合って……?」

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「なまえ、珍しいねお弁当じゃないの」
「うん、今日はちょっと急いでて」

昼休みの2年4組の教室で、私は朝コンビニに寄って買ったクリームパンを食べていた。一緒に買った新発売のカフェオレはちょうどいい甘さで、こんなにいい商品を見つけられてラッキーだと感激する。お弁当だったら気付くのが贈れたであろうこの小さな幸せに頬を緩めつつ、クリームパンを頬張った。

「いとこに呼ばれてるの」
「え、どういうこと?」
「いとこがね、入学したの。そのいとこに用があるから急いでて」
「へー!男の子?」
「うん!とっても可愛いの!」

クリームパンを飲み込んでにっこり笑ってそう言う。そう、私の可愛い二個下のいとこがこの春、同じ高校に入学してきた。そのいとこから昨日連絡が来て、呼び出されたのである。だから今日のお昼は、早めに済ませることが出来る様にお弁当にしてこなかったのだ。

「てかあんたそんな少量で足りる?」
「足りないけど、今日おやつ買ったから授業の合間に食べる」
「それなら大丈夫か」
「……ごちそうさま!行ってきます!」
「早っ!いってらっしゃーい」

カフェオレを飲み干し、完食したクリームパンの包みを綺麗に畳んでから黒板前のごみ箱に入れる。友達に挨拶して騒がしい教室を出て、一目散に階段へ向かった。体を動かせば暑くなるかもしれないからという理由で制服のジャケットを教室に置いてきたため、少しだけ肌寒い。しかし久々の昼休みの運動に気合を入れるため、階段を下りながら袖をまくり、腕に付けていたヘアゴムでさらさらの髪をまとめた。
1階に到着し、約束した体育館の脇へ向かうために歩き出す。途中遭遇した仲の良い友達に手を振ったり、先輩に挨拶をしながら外に出ると、見覚えのあるオレンジ頭の男の子がこちらに気付き、ぱぁっと表情を明るくした。

「なまえちゃん!」
「翔ちゃん!ごめんね遅くなっちゃって」
「ううん!来てくれてサンキュー!」

私と同じくらいの背丈の男の子の元へ、先程まとめたポニーテールを揺らしながら駆け寄る。太陽みたいな笑顔で笑った私の従兄弟である日向翔陽は、両手でバレーボールを抱きかかえていた。

「よし、時間もないし早速練習しよっか!」
「おう!レシーブ!レシーブ教えて!」

翔ちゃんからボールを受け取り、彼から少し離れた位置に移動する。くるりと彼の方を振り返ると、レシーブの構えを取った彼がにっと笑った。

翔ちゃんは中学時代バレー部に所属していた。だけど部員はほとんどおらず、満足な練習が出来なかったらしい。そして今、うちの高校に入学して念願のバレー部に入ったものの、1年生と喧嘩して体育館を出禁になったとか。人と仲良くするのが上手な翔ちゃんが喧嘩なんて珍しい。よほど相性が悪い相手なのだろうか。

そして、先輩とその問題の1年生と組んで試合をしなければならないらしく、こうして一人でも特訓をしているらしい。彼の熱意に関心しつつ、私は彼に声をかける。

「翔ちゃん、手もう少し下げた方がいいよ」
「こう?」
「そうそう!いくよー!」

私がぽーんと軽く打ったボールを、翔ちゃんがぎこちなく打った。それをアンダーレシーブで拾って返し、つたないラリーが続いていく。

「いつも誰と練習してるの?」
「先輩!あとたまに他の部の奴に練習付き合ってもらってるんだ」
「へーえ!」
「でも今日は相手決まってなくて。誰にしようかなーって考えてたらなまえちゃんがすげーバレー上手だったの思い出したんだ!」
「もう引退してから1年以上たってるよ?」
「でも!やっぱりなまえちゃんはバレー上手いと思う!」

上手くレシーブできなかったボールを追いかけて取って帰ってきた翔ちゃんは、うーん、と少し悩んだ後に「だって、スッ、サッ、ポン!って感じで!すげー!」と褒めてくれた。いやいやそんな、と照れていると翔ちゃんがボールを打とうとしたので、慌てて構える。

「バレー続けなかったのもったいねーよ。何で続けなかったの?」
「うーん…お姉さんにはいろいろ事情があるの」
「オネーサンって大変なんだなー」

ラリーを続けつつ、時々翔ちゃんに指導をする。一生懸命バレーに向き合う私の大好きな従兄弟は本当に可愛いし、かっこいい。ふと、翔ちゃんがボールを打つのをやめて上手にキャッチした。翔ちゃんの目線は私の後ろ側に向けられる。ちわす!と声を上げる翔ちゃんの挨拶の相手がなんとなく気になり、くるりと後ろを振り返った。

「お、日向ー!頑張ってるなー!」
「…あれ、みょうじ…?なんで…」
「え、縁下くん…!」

振り返った目先には、驚いた表情をした同じクラスの縁下くんと、見た事がある坊主頭の男の子が立っていた。同じクラスの彼は私と翔ちゃんを交互に見つめ、やがてふわりと優しく微笑んだ。



きっとそれはミラクル