「おい」
「は、はい……」
「ここ座れ」
「……はい……」

 仕事を終えて家に帰って早々、机に置かれた紙を見て一気に頭に血が上る。なんだこれ、ふざけてんなら大概にしろよ。ダイニングテーブルに着席させたこの紙を持ってきたであろう張本人は肩を竦めて小さくなっていた。

「何だよこれ」
「……り、離婚……届……です……」
「はあああ?」

 思わずデカめの声が出る。そんな事聞いちゃいねーよ見たらわかるわそんなもん。何でこれがここにあるかを聞いてんだよ。俺の声にびくりと肩を震わせて視線をうろうろとさせる嫁にイライラが募る。この反応を見るに、持って帰ってきたのはコイツで間違いなさそうだった。

「何、別れんの?」
「え、えと……」
「何が不満だったわけ?」
「……」
「不満があんならちゃんと言えよ。こんなモン持って帰ってきやがって、俺が納得すると思ってんの?」
「……うぅ……」

 歯切れの悪い、返事にもなってない言葉にイライラが猛スピードで加速していく。落ち着かなくて人差し指でトントンと机を叩いても、コイツはまともな言葉を返してこなかった。

「持って帰ってきたのオマエだろ、はっきり喋れよ」
「……」
「言っとくけど、俺が納得する理由が出てこない限り書かねえから。つーか俺が納得する理由なんかこの世にねーけど」

 別れる気なんかサラサラない。ここまで来るのにどれだけ時間がかかったと思ってんだ。二度と手放してやんねえって籍入れた時から決めてんだよ。なのにこんなもん貰ってきやがって、どんな理由があったって絶対書いてやる気はない。そもそも別れる理由が一切思いつかない。
 いよいよ俯いて俺の事をチラリとも見なくなった。なんだよその反応。

「……まさかマジで別れるとか言わねえよな」
「……」
「……はあ」

 勝手に出ていった溜息が小さいこいつの肩を大きく揺らした。何怯えてんだよ。いやイライラしたのは悪かったけど、俺の方がどう考えても参ってるんだけど。だってこんな日が来るとか一切想像してなかったし、まだ新婚って言われてもおかしくねえくらいしか経ってねえじゃん。こんなもん突きつけられて平気なわけないだろ。

「……俺なんかした?」
「……」
「俺絶対別れないから」
「……」
「……何とか言えって」

 黙りを決め込むこいつに少しずつイライラが焦りに変わる。理由もわからないまま目の前にあるたった一枚のペラ紙に胸の内側が逆撫でされていく。頭の中で今日までの生活を振り返ってもこの紙を突きつけられるほどの理由が思い出せない。

「……俺が何かやらかしたなら、なんとかするからちゃんと言って」
「……」
「……それとも俺のファンがなんかした?」
「……」
「……なあ、分からねえんだって。今更芸人の嫁が嫌とか、そんなことないだろ。何年一緒に居ると思ってんだよ。オマエにここまでさせた理由って何?」

 俯いた顔は上がることなく貫かれた無言が俺を責める。理由もなくこんなもん持ってくるような女じゃない。何でもよく考えて、合理的であれば多少の無理は厭わないような賢い奴だから、浅はかな考えじゃないなんてことは聞かなくてもわかる。感情的になって持ってきたもんじゃないだろう。

「……黙ってちゃわかんねえ」
「……」
「……なあ俺別れんの嫌。ていうか無理。生きてけないから」
「……」
「俺の事捨てないで、マジで、ずっと世界一大事にするから。お願い」
「……」
「お前が俺の事嫌いでも俺はお前が好き」
「……」
「……頼むから考え直してくんねえ?」

 思わず頭を抱えて黙り込むこいつの代わりに思うままに話す。それはまるで許しを乞うみたいだった。心臓の音が脳みその中で嫌な響き方をして息苦しくなっていく。ステージに立つことに緊張なんかしねえのに、今の俺の手のひらには汗が滲んでいた。
 しん、と静まり返る部屋に時計の音すら聞こえねえ。こんなことならアナログ時計にしとくんだった。

「……悟」
「……何?」

 ようやく返してくれた言葉にひゅ、と心臓が浮く。心臓がまるで胸から頭に移動したみたいにバクバクと音を大きくした。何を言われるのか見当もつかない。何を言われたって別れるつもりはない。取り返しのつかない事なんか俺には無い。こいつが生きてる限り、何がなんでも傍に置いてやる。そう心に思うのに、未知の告白にらしくもなく恐怖した。
 俺たちの間に置かれた離婚届に何も言わずにそっと触れたこいつは自分の手元までそれを寄せてからすっと手に取り、何も言わずに俺に向かって裏返した。

「……………………は?」
「…………ドッキリ、でした……」

 離婚届の裏には「ドッキリ大成功!」と見たことある字でデカデカと書かれていた。いや、は? なに? は?

「ドッキリ大成功〜!」
「あ?」

 情報の整理が追いつかないまま、すぐ隣の部屋の扉が勢いよく開いて中から傑が飛び出してきた。は?

「……いや、……はあ?」
「物の見事にしっかり策にハマってくれて本当に愉快だったよ。ありがとう悟、今年一笑わせて貰ったよ」
「ごめん悟……別れるつもりなんかほんとさらさら無いから……!」

 手に小型カメラを持った傑はけたけたと笑いながらダイニングチェアの空いてる席に勝手に腰掛けた。オイお前いつから居たんだよ。つーか今日お前遠征ロケの予定だろ。何俺より先に帰ってきてんだ。つーか何勝手に上がり込んでんだ。いやワケわかんねえ。ドッキリ? 俺が? この俺がドッキリにハメられたってワケ?

「……っハア〜〜〜〜〜〜……」
「ね、大成功だっただろう?」
「ホントに……夏油くんすごいね……」
「何がスゲーんだよ腹立つなコソコソすんな!」
「ははは、どうどう」

 一度静まったはずの苛立ちがまた息を吹き返す。あ〜まじでイライラする。傑は「彼女、この間は仕掛け人失敗しちゃっただろう? だから今度は何を言われても黙って堪えておけばいいよって言ってあったんだよ」とかなんとか言ってテーブルに肘をついた。クソ楽しそうに笑いやがって。今すぐぶん殴ってやりてえ。

「タチが悪すぎんだろ!」
「五条悟は本物の愛妻家なのか、ってお茶の間が気になってるんだから仕方ないよ。良かったじゃないか、きっとこれでまた一歩愛妻家に近づいたよ」
「そんなことしなくても俺はちゃんと愛してるし世間に認められたくもねーよ別に!」
「まあまあそう言わずに」

「いやあ久しぶりに腹の底から笑ったよ、私たちのどんなネタより面白かったね。悟いつもドッキリ引っかからないからさ」そう言って傑が俺にカメラを近づけてくる。腹が立つから思いっきり振り払ってやった。「見せもんじゃねーぞ」と言えば「こんな面白いもの世界中に見せてやらないと勿体ないよ」と傑が笑う。表出ろぶん殴ってやる。

「お前も何また仕掛け人引き受けてんだよ!」
「だ、だって……」
「だってもクソもあるかチクショークソ焦った……」

 何もかもが仕込まれたモンだと思い知ると一気に肩の力が抜けた。テーブルに突っ伏してデカい溜息を吐く。やっと生きた心地がした。

「……マジやめてこういうドッキリ」
「ご……ごめん……」
「次やったらマジで怒る」
「はい……」

 正直みっちり説教してやろうかとも思った。でも怒る気も失せた。安心感に全部どうでもよくなってきた。仕事から疲れて帰ってきたはずなのに、今日こなしたどの仕事より疲れた。もう今すぐ寝たいわ。

「……ふふ、でも嬉しかったよ」
「あ?」
「悟超私のこと好きだね」
「うるせえ分かったなら二度とやんなマジで」

 適当にカッコつけて否定する気も起きねえ。照れくさそうに笑ったこいつの隣で傑が相変わらずにたにた笑ってやがる。こいつマジでいい加減にしろよ。覚えてやがれ。



 その後部屋の中に仕込まれてたあらゆるカメラを取りにきたスタッフ共にキレ散らかして、ドッキリと書かれた離婚届をカメラの前で思い切り破って捨ててやった。「最高の撮れ高だったよ!」とか言ってきたディレクターにブチギレた。俺は最低な気分だっつーの。
 結局俺の意思は汲み取られることなくバッチリいい具合に編集されて全国に放送された。俺のイメージが狂うだろうがクソ。スタジオでは一生機嫌が悪かった俺に対して傑が「今までやった仕事で一番楽しかったですね」なんて言ってた。マジでもう二度とウチに来んな。

愛ある嘘に牙を剥かれた
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