僕を連れ出した小さな手が、あんまりにも白くて夜中だっていうのに眩しくてさ。喉を通った唾液が音を立てて、ドキドキと心臓を揺らした。
「お、怒られないかな!?」
「だーいじょうぶだよ! 多分!」
「多分!?」
繋がれた手とは逆の方、彼女の手にはガサガサ揺れるビニール袋、僕の手には寮に放ったらかしになっていたバケツ。足の向かう先は校庭の傍にある水場。時間は夜中、もうすぐ零時を迎えて日付が変わるくらい。熱帯夜を謳われた今日、夜になっても気温は高く、湿度が僕たちに絡みついていた。
「花火、しよう!」そう言ったのは彼女で、長期任務から戻った寮には同級生は彼女しか残されて居なかった。他のみんなは揃って任務に出てしまっているらしくて、僕を迎えてくれたのは彼女だけで、「私だけでごめんね、寂しいよね」と言った彼女の言葉とは裏腹に、どんなご褒美かと内心大喜びしてしまったことを気づかれて居ないかヒヤヒヤした。
二人揃って部屋着のまま、静まり返った寮を飛び出して自然の音しか聞こえない校内を駆ける。僕は帰ってきたばかりだから明日は休みだけど、彼女はどうなんだろう。
「憂太くん、どれがいい?」
「ええっと、僕はなんでも……」
バケツに水を汲んで、ビニール袋から引っ張りだされた花火は想像より沢山あった。たった二人で花火をするには少し多いんじゃないかな。もしかして皆でやるつもりだったのかな。彼女は広げた花火を楽しそうに僕に見せながらどんな風に火花が散るのか説明してくれた。
「へえ、色々あるんだね、すごいなあ」
「憂太くん、あんまり花火したことない?」
「あ、うん。覚えてないくらい昔に少し、くらいかも……」
というか、やった事もないかも。そう付け加えてから、ハッとしてやってしまったと思った。少し暗い話題にしてしまったかもしれない。実際、人と花火をしたり、見たり、そういう経験は覚えている限りでは無い。ずっとあの子と二人だったから、あの子以外のことは、あんまり覚えていない。忘れたのか、そもそも無かったのかははっきりしないけれど。
恐る恐る彼女を見やる。せっかく楽しそうに話していたのに、水を指してしまったに違いない。
「……え……っと、」
彼女は僕をじっと見つめていた。にこにこと、目を細めて。想像していた表情とは真逆の反応に、思わず呆気に取られてしまった。
「そっか、そっか! じゃあ初めての花火だ!」
「え、……まあ、そうなるのかな……?」
「そっか〜〜! なんか嬉し!」
「えーと……それは、どうして?」
困惑する僕を他所に、彼女は頬を緩めたまま花火をすべく手を止めずに準備を進めていた。
僕の初めての花火を嬉しいと言った、その言葉の本意がわからなくて戸惑う。どういう意味なんだろう、一緒に花火ができることが嬉しい? だとしたらそれは僕のセリフで、一緒に居るだけで脈打つ速度さえ僕のものじゃなくなってしまったみたいに感じるのに、たった二人で夜中に駆け出して、もうパンクしそうだ。
彼女の言葉の意味が知りたい。それがどんなものであっても、彼女のこと全部を知りたいと思う。息苦しい。心臓が縮まってしまったみたいだ。
彼女は一つ、僕に手持ち花火を手渡して柔らかく笑った。
「初めての日のことって、きっと一生忘れないでしょ?」
彼女は「だからきっと、私のことも忘れないでしょ?」なんてずるいことを平気で言ってのけた。そうやって僕を雁字搦めにするんだ。君のそういうとこが、僕の脳裏にこびりついて、離れなくなるんだ。
僕の人生で、今日が初めての花火じゃなくたって、ここに花火がなくたって、君のことを忘れる未来なんかありえないのに。それなのに、君は僕の中に一生居座ろうとするなんて。
ずるいよ、そうやって簡単に僕を掻き乱して、こんなの心臓がいくつあったって足りないよ。
ねえ、君は僕に忘れられたくないってこと? 僕にずっと、覚えていて欲しいってこと? 僕の中に、一生居たいって思ってくれてるってこと? そう都合よく受け取ってしまってもいいかな。そう思ってしまっても仕方ないと思うんだ。
だって僕、君のことが好きだから。
「それすーっごく勢いよく出るから! 気をつけてね!」
「っえ!? 出るって、なにが?!」
「花火!」
彼女は立ち上がって花火に火をつけた。彼女の言葉に現実に引き戻されたみたいだった。火がついた花火が音を立てて火花を散らす。暗闇にその光は眩しくて思わず目を瞑った。次にゆっくり目を開けば花火を持ったまま、楽しげにくるくると回る彼女が見えた。
「あ、危ないよ〜……!」
「へいきだよ! 憂太くんも、はやく!」
花火に照らされた彼女はいつもと少し違って見えた。なんだろう、このドキドキ。いつものドキドキとは少しだけ違う。夏の夜だからかな、花火のせいかな。何が理由かはわからないけど、とてつもなく彼女が綺麗に見えて、恋しくて、愛しくて、堪らなくなった。
「……綺麗だね」
「ね!」
思わず零れた言葉に彼女は肯定の返事を返した。花火じゃなくて、君のことだよ、なんて言えなかった。
ずっと見ていられる気がした。楽しそうに花火をする彼女を、彼女の笑顔を、一生ここで見ていたって飽きたりしないんだろうな。こんなに可愛くて、綺麗で、愛しくて。彼女が動く度に揺れる、髪の先まで全部好きだなと思った。
一生がここにあればいいのに。時間が止まっちゃえば、このまま独り占めできたかもしれないのに。ああでも、そんなことになっちゃったら好きすぎて簡単に死んじゃうかもしれないな。どうしようかな。
「あ、終わっちゃった〜 次はどれにしようかな〜」
彼女の手元で輝いていた花火が消えて、僕の元まで小走りで戻ってきた彼女からはほんのり火薬の匂いがした。ああこれがきっと夏の匂いなんだろうな。僕の知らなかった匂いだ。彼女が教えてくれた、特別なものがまた一つ増えた。
「ん〜 これにしよっかな! 憂太くんも! 見てるばっかりじゃなくて!」
「……うん、そうだね」
広げた花火を目移りしながら選ぶ彼女も可愛い。僕の名前を呼んで上目遣いで見上げてくるのも可愛い。涙が出そうなくらい、好きだな。
「最後は線香花火って決まってるから、今のうちに大騒ぎしなくっちゃ!」
「ふふ、そうなの?」
「そう! 最後は線香花火で〜夏の終わりを感じてちょっと切なくなるの! エモいな〜!って!」
今度は両手に花火を持った彼女が言う。
線香花火を最後にやる人が多いことは知っていたけど、皆がみんな彼女と同じ理由でそうしているわけじゃないんだろうな。
「切なくなるんだ?」
「うん、そう! もう同じ夏は来ないんだなって、ちょっと切なくなるの。ちょっとロマンチックじゃない?」
彼女はまた花火に火をつけた。勢いよく火花を吹くそれがまた彼女をキラキラと照らす。
もう同じ夏は来ない、そう言った彼女に少しだけ胸がぎゅっとした。
そうだね、もう同じ夏はどうやったって来やしない。君と二人で初めて花火をする夏は、この夏しかない。今日しかない。君のいる夏がとても奇跡的で、特別なものなんだって気付かされたみたいだった。
来年、僕と君はどんな夏を過ごすんだろう。きっと暑いんだろうね。今年みたいに物凄く忙しいのかな。また来年も花火、一緒にできるかな。来年も、君は僕と一緒に夏を生きているのかな。
ここに、一生が、永遠があればいいのに。本気でそう思った。
「……寂しいね」
「うん?」
「同じ夏が、もう来ないなんて」
「ふふ、そうだね。でも、新しい夏がすぐ来ちゃうよ。きっと!」
そうだね、きっと次の夏なんて、君と一緒に居ればあっという間なんだろうな。でも君がいない夏なら、来なくてもいいや。
「……ね、僕さ」
「うん?」
眩しいな。君の全部が。裏表なく笑って見せて、僕のどんな言葉も君に照らされて、君の生きてるこの世界は素晴らしいものだって思っちゃうんだ。
もう駄目みたい。君が居ない未来なんか、きっと受け入れられないよ。来年もその次もそのまた次も、同じ夏を生きていけないなら、違う夏も絶対、ずっと一緒に居たいよ。君の居ない夏を想像することさえできないからさ。
「もう我慢できない、君が好きだよ」
だから変わりゆく夏を、季節を、この世界を、僕と生きていく約束をして欲しいんだ。
同じ夏を生きていけはしないから、