しあわせのありか

どうすればいいのか解らなかった。

「心から、お慕いしています。多分、義勇さん以外の他の誰かを私は愛せないと、そう思ってしまうくらい。」

その淡く染まった頬も、穏やかに細められた目から注がれる眼差しも、どんな言葉も特別に聞こえる焦がれに焦がれた唇も、全部が俺をどうにかしてしまう気がした。
この手でその細い肩をかき抱いてしまえたなら、そう劣情が暴れる。

あまりにも都合のいい夢をまた見ているのかもしれない。蝶屋敷まで俺を迎えにきた名前も、俺のために軽食を用意していてくれた名前も、俺の隣でいつものように楽しげに話す名前も、もう二度と訪れないと思っていた。もう二度とこんな風に話すことは出来ないと確信していた。そう仕向けたのは俺だ。当然のことだ。ちゃんと諦めていたはずだったのに、夢にまで見てしまったこの景色にまた夢を見ているのかと思ってしまった。
違ったんだ。俺が、間違っていた。何年もこうして隣に居たのに、忘れていた。あの日、名前が鬼殺になると決めた日だってそうだっただろうに。名前には揺らぐことのない真っ直ぐな心があって、俺はそれに牽かれたのだろう。己の都合のいいように受け取って安心してとんだ大馬鹿者だ。変わらぬ日々が戻ってきたのかもしれないと喜んで、俺が心配していたことは杞憂に終わったのかもしれないと安心して。俺に向かって眩しく笑いかける名前の言葉にあらゆる決意も、願いもぼろぼろと崩れる。俺ごときが、名前をどうこうすること出来るはずがなかったんだ。やめてくれ、頼む。もうこれ以上を欲しがるのは辞めたいんだ。

全てこれでいいと思っていた。名前のためを思えば他のことはもう後回しでいいと思っていた。限りなく遠い、けれど俺の目の届くところで幸せになってくれれば他に何も要らないと思っていた。だから馴染みである名前の両親にまで頼った。失うくらいなら手の届かない場所で笑っていてくれればよかったんだ。いつ死ぬか解らない、こんな辛い思いを名前がする必要はないんだ。ひたむきで優しい名前の変わりに俺が刀を奮えばいいと思っていたんだ。そうだろう、今さら自分勝手に名前を欲しがるなんて許されるわけがないんだ。

「…義勇さん。私の気持ちに、どうかお返事をくれませんか。」

俺の羽織を握る手に力が籠るのと合わせて俺の心臓まで掴まれたような気がした。苦しい、こんなに痛むのならいっそこの心臓すら引き千切ってしまいたい。これが人を愛してしまったということなのか。だとするなら、なんて残酷なことなんだ。

「……俺では駄目なんだ、…俺では。」

名前の眼差しが俺の浅ましい心を暴いていってしまうような気がして俯いた。俺の羽織を握る小さな白い手が見えた。その手の温もりを想像するだけで胸が詰まって目尻が熱くなる。
後にも先にも、こんな風になれるのは名前だけだろう。それだけは、きっとどうなったって変わらない。

「……どういう、意味ですか」

心臓が跳ねる感覚がした。鬼を目の前にしたときよりもひどく、ここまでのものは最近の俺には無縁だった程の緊張感。俺を捲し立てる、優しい声。逃げてしまえればどれだけ良かったか。
名前がどんな顔をしているのか、俺には見ることが出来なかった。それを知るのが怖かった。名前に、どんな顔をしてやればいいのかも解らなかった。

「義勇さん、お願い。教えてください。」

「……俺では駄目なんだ。」

「何が、何が駄目だって言うんですか。」

答えを急かすように羽織が少し引っ張られる。名前はいつも俺の考えを汲み取ってくれた。言葉が足りないと散々な言われようだった俺の言葉も、気持ちも、全部。その名前が、俺にどういう意味かと問うている。
ちゃんと解っている。俺の言葉を名前が理解できないんじゃなくて、俺が伝えることを躊躇しているのだ。言葉にすればするほどきっと、もう取り戻せなくなるだろうから。どうにかここで、このまま踏みとどまれないかと足掻こうとしているのだ。俺はつくづく我が儘でどうしようもない男だ。
手の届かないところに行ってくれと願うのに、叶うならこのままで居てくれなんて、矛盾もいいところだ。
思い出せ。一体、一体何度この陽だまりのような存在を幸せにしたいと願ったのか。何度どうすればいいのかと悩んだか。どうやったってその答えは出なかっただろう。だから俺では駄目なのだと、理解したんだろう。
こんなところで足掻いたって無駄なのだ。俺が俺である限り。

「…俺では、名前を幸せには出来ない。」

振り絞って出た言葉はちゃんと名前に届いただろうか。らしくもなく、声が震えたのは自分でもよく解った。情けない。弱虫だと、笑われてしまうんだろう。
俺の羽織を掴んだ名前の手がぴくりと震えて、少しだけ力が緩められたのが羽織の皺が広がる様を見て解った。それがどういう意味だったのかは解らなかった。

「…それは、私の気持ちと義勇さんの気持ちが違うから、好きの意味が違うから…義勇さんが…っ、義勇さんが私のことを好きじゃないから、ですか」

「…ちがう、そうじゃない」

「ち、ちが…ちがう…?違う、んですか?」

俺の言葉を確かめるような名前の声は少しずつ震えていった。泣かせてしまったのだろうか。きっとそうなんだろう。名前の泣き声は勿論、泣き顔も思えば初めて会ったあの日から見ていないかもしれない。出会ったときから芯の強い、立派な娘だった。自分が襲われたというのに、自ら鬼殺を志すほど。どんな辛いことにも泣かずに堪えてみせた。胡蝶がどんな怪我を負っても泣かなかった名前が、目を腫らすほど泣き薬をやったと言っていたか。だとするなら俺は、名前をまた泣かせてしまったのか。

「っわかり、わかりません、義勇さん…!わたし、私、」

名前のしゃくりあげる声が俺を呼ぶ。また強く握られた手は俺の羽織に皺を寄せた。罪悪感が俺を襲う。
名前が俺に教えて欲しいと願うのなら、ちゃんと俺が答えてやらないとならないんだ。名前が願うことをしてやることしか、俺には出来ないのだから。
込み上げるどの感情も名前を付けられないほど渦巻いていく。名前を傷つけたくない一心で言葉を選ぼうとしているのに、どの言葉も間違っているような気がした。

「…俺には、名前を幸せにする方法が解らない。俺は名前に、どうか…幸せに、なって欲しい。…だから俺では駄目なんだ。…俺のためにも名前のためにも、鬼殺隊をやめて幸せになって欲しい。ここではない何処かで、お前に似合う人間と。…頼む、」

決心して出た言葉は本心だ。一人で悩み悔やみたどり着いたもの、ありのままだった。結局、そう伝えるしか俺には選択肢はなかった。気のきいた言葉も浮かばない。名前が笑ってくれる言葉なんか勿論知らない。
自分で言っておきながら全てを終える覚悟がなかったのか、言いきった後に残ったものは酷いものだった。こんな気持ちになるのか、重くのしかかるこの気持ちの正体はなんだ。なんという名がついているのだ。この身も引き裂かれそうな程の胸の痛みは、一体どこからきたんだ。
唯一視界にあった小さな白い手を、その痛みから逃げるようにできる限り優しくほどいて払った。

「……どうして、そうなるんですか…」

するとどうだ、名前の震えた声と共に羽織からほどいた手が俺の手首を強く掴んだ。
驚きからか、反射的に名前の方へ視線を上げれば先程までの穏やかな表情は消え失せ、瞳いっぱいに涙をにじませ眉を寄せて俺をじっと見つめていた。かち合った視線から俺は反らすことが出来なかった。

「幸せにできないって、義勇さんに毎日会いたいと思うのも、義勇さんと一緒に居て嬉しいと感じるのも、義勇さんが居ないと寂しいと感じるのも、義勇さんの言葉一つに舞い上がれるのも、義勇さんの笑ったお顔に胸が苦しくなるのも、全部全部、これが幸せじゃないというのなら、なんだって言うんですか」

俺の手首を掴んだ小さな白い手は少しずつ力を強める。強く握られるほど、その小ささを心底痛感した。俺がどうしても守りたかったその手は震えていて、暖かい。

「私の幸せを、勝手に決めないでください」

力強い眼差しに、言葉に穿たれる。頭を殴られたような衝撃と理解の追い付かない脳と整理のできない感情が沸き立つ。こんな顔もするのかと目を離せなくなった。名前の瞳から大きな粒が一つ落ちる。まるで宝石のように輝いて、染みになる。何故かそれが、とてつもなく勿体ないと感じた。
名前は掴んでいた手を緩め、俺の手首を滑って俺の手を包むように両手で握った。名前の両手を使っても、俺の手は余る。小さなその両手が愛おしくて、また胸が締まった。

「幸せにできないなんて、言わないで。私、あなたに恋をしてこんなに幸せだったのに」

「っ、」

名前は握った俺の手にこつりと額をあてて願うように言った。俺はその言葉に思わず息を飲んだ。胸の内側が、心臓のあたりが掻き乱されていく。

「義勇さんを私は幸せにできないかもしれないけど、私は義勇さんだから何もかも幸せだと思ったんです」

違う、そうじゃないんだ。なんて伝えたらいい。どう伝えたら、どうすればいい。

「義勇さんが私を認めてくれないのも、選んでくれないのも仕方のないことです。解ってます、」

俺はただ、ただ名前が幸せならなんだって良かったんだ。それが例え、俺にとって地獄だって構わなかったんだ。

「でもお願いだから、私の恋を否定しないで」

「っ…違う…俺は、…俺は…」

「ねえ、義勇さん。私、義勇さんが大好きです」

名前が額を離して俺を見上げる。ぽろぽろと流れていく涙が淡い頬を濡らしていた。切なげに俺を見るその瞳は陽に照らされてきらきらとしていた。震える唇が俺を呼ぶ。何度も何度も俺のために告げられた言葉が、俺の頭の中に響いていく。

「他の誰でもない、義勇さんに恋をしてきたんです」

俺の手を握る両手がその力を強めるほど俺の手と滅茶苦茶になって絡んでいく。
俺だって、俺だってそうだ。他の誰でもない、名前だから恋をしたんだ。余りにも特別だったんだ。だからこうして必死になって迷ってきたんだ。これが最善だと俺なりに答えをだしたはずだった。

「お嫁に行けだなんて、幸せになって欲しいなんて、…義勇さんじゃ、駄目なんて…そんな言葉で片付けないで。私は今日義勇さんに、告白しに来たんです。私のためとか、そういうことじゃない。義勇さんの気持ちで、ちゃんとお返事をください。」

もう名前の言葉しか聞こえない。いつも聞こえる鳥のさえずりも、揺れる木々の音も、何も聞こえなかった。この世界には、もう俺と名前の二人しか居ないと感じるほどに。

「そしたら私、ちゃんと諦める努力をしますから。お願い、」

「っ、」

泣きながら、俺にどうにか笑ってみせた名前がどこかへ消えてしまいそうで。握られた手を強く引っ張って腕の中に引き寄せてしまった。抱き締めた肩も、腰も余りにも細くて力加減を間違えてしまえば最後、簡単に壊してしまいそうだった。

「ぎ、義勇さ」

「好きだ、この世の誰より名前を愛している。」

「!!」

「…ずっと俺のもので居て欲しいと、…どうしても、思ってしまう、」

無茶苦茶なことを言っている自覚はあった。それでも勝手に口走ってしまう。俺の決意は名前を前に意味を成さず、格好のつかないどうしようもない人間の姿を露にした。大の大人が、すがり付く様は滑稽なことだろう。それでももう、形振り構っていられなかった。
俺は、名前がどうしようもなく好きだった。

「…俺は、与えられてばかりで名前に何もしてやれない。返してやりたいのに何をしてやれば、名前が幸せになるのかわからない。だから、だから」

「義勇さん、」

「せめて俺は、名前を想って」

「義勇さんっ!!」

「!…す、まない…」

俺の腕の中で名前が俺に大きく呼び掛ける。それを合図に無我夢中で居た俺は意識して呼吸をした。腕の力を少し緩めると名前が俺を見上げて微笑んだ。きっとひどく情けない顔をしているだろう俺を笑ったのかもしれない。勢い任せに名前に自分勝手な都合を押し付けていることに今さら気づいて後悔した。

「言ったじゃないですか。私はもう、義勇さんしか愛せないと思うって。…ずっとずっと、義勇さんのもので居たいんです。」

するりと俺の頬に名前の両手が伸びてきてそっと包まれる。握られていた手より、頬の方がその手の柔さも暖かさもよく解った。

「…私の幸せを、勝手に決めないでください。私は、義勇さんと幸せになりたいのに。…一緒に、幸せになりたいのに。」

「……名前、」

「義勇さんの幸せを教えて下さい。私の幸せは、義勇さんの幸せです。…二人で、幸せについて話し合うのは…だめですか」

目頭が熱くなって、視界が歪む。堪えたくて眉を寄せたが逆効果だった。苦しい。息の仕方が解らなくなる。名前の暖かい手にかさついた自分の手を重ねて、その存在を確かめた。それは小さいのにあんまりにも大きく感じた。少しずつ渦巻いていた胸の内が凪いでいく。とてつもない安心感も、込み上げるこの感情も、全部名前が俺に与えたものだろう。また俺は名前に与えられてしまったのだろう。

「…俺で、いいのか」

なんとか口から発せた言葉と一緒に目から溢れた涙が俺と名前の手を濡らした。
衝動か、本能か、それ以外なのか、解らなかったが堪らなくなって名前の額にこつりと己の額を合わせれば名前が「へへ、」と緩く笑った声がした。

「私は義勇さんがいいんです。…義勇さん、大好きです。」

「…俺もだ、」

鼻と鼻が触れ合って、そのまま。欲しがるように唇を合わせた。
名残惜しく離してやれば一層頬を赤く染めて、恥ずかしげに名前が目を反らした。その仕草があんまりにもいじらしくて思わず貪りたくなってしまう。苦しく締め付けていた胸の内が、今度は破裂しそうなほど膨れ上がる。何か暖かいものでいっぱいになってしまった。

「…あ、!!義勇さん、義勇さん!」

「どうした」

「見てください!」

思い耽っていると名前が俺の羽織をくいと掴んで庭を指差す。その指の先を追うと名前が甲斐甲斐しく手入れをしていた花が目に入った。

「咲いてる…!!」

少し前まで蕾だったその花は可愛らしく桃色の花びらを開いていた。
嬉しそうに俺を見上げる名前がどうしようもなく愛しくて、名前の頭を撫でた。

「…良かったな」

「…はい!!とっても、嬉しいです!!」

名前は満面の笑みで俺に笑いかける。風が名前の髪を揺らして乱す。そっと頬にかかった髪を整えるように触れて、その頬の感触を楽しめば名前が俺の手にすり寄って両手を添えた。

「…私、…とっても、とっても幸せです。義勇さん。」

「…俺も、この上なく幸せだ。」

幸せだと言葉にしたことはこれまで無かったかもしれない。
言葉にするだけで、こんなにも満たされるものなのか。
幸せだと、言われることはこんなにも自分を満たしてくれるものなのか。あまりにも贅沢な感覚に、酔ってしまいそうだ。
少しずつ返していこう。俺の隣を選び続けてくれたこと、俺をその日向へ連れ出してくれたこと、俺に名前が与えてくれた全てに。
この一生をかけて。

「名前」

「はい、義勇さん」

「…ありがとう」
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