夢にまで見た人よ

「義勇さん!」

それなりに勢いのある衝撃と慣れ親しんだ柔さが冨岡の背後を襲う。振り返る必要などない程、自分の名前を呼び飛び付いてきた人物が誰か冨岡は確信していた。
柱合会議のある日、冨岡を探していつも甘露寺のあとを付いてきた冨岡にとって何者にも代えがたい眩しい少女。

「…名前」

「はい!義勇さん!」

冨岡が名前を呼べば嬉しそうに甘味を帯びた声で返事をして、より距離を縮めようと腕に力をこめて冨岡にすり寄る。冨岡は表情に感情が出る方ではない。けれども否定することは到底できぬくらい、この存在が愛おしいと思うのだ。表情に出ない分、きっと名前にもこれほどの気持ちは伝わってはいないだろう。他の柱の人間や隊士たちからは「もっと優しくしてやれないのか」と口うるさく言われたりもしたのだから。
冨岡の腰に回った名前の腕に、そっと手を重ねて緩めるように促せば言葉がなくともその意図を汲んで名前は腕を離す。
冨岡がそっと背後に振り返れば、目を細めてきゅっと微笑み、冨岡を優しく見つめる名前が見えた。

「おかえりなさい!義勇さん!」

「…ああ、」

「お怪我はないですか?ちゃんとご飯は食べましたか?何か困ったこととか、」

「…問題ない。」

「…良かった!!えへへ、ずっとお待ちしてました!義勇さん!」

冨岡の身を案じて、いつも名前は同じ言葉を口にする。冨岡の言葉数は名前に比べれば百分の一ほどしかないのではと思うほど、名前はいつも冨岡に聞きたいこと、話したいことでいっぱいだった。時にはどれから話せばいいのか迷って言葉が口から出てこない程、名前は冨岡の代わりにたくさん話す。

「私も昨日まで任務だったんです!また義勇さんとすれ違っちゃうんじゃないかなって、帰り道焦っちゃって…走って帰ってきちゃいました!」

「…怪我は」

「どこにも!」

「…何か変わったことは?」

「何にも!」

少し恥ずかしそうに、それでいて楽しそうに話す名前の言葉に少しだけ眉を動かした冨岡は名前の身を案じた。名前はそれを喜び大きな声で返事するのと合わせて嬉しそうな声を堪えられずにへへへと笑った。

「義勇さん、褒めてください!」

名前は冨岡に向かって一層笑って言ってみせた。いつからこうして名前を褒めるようになったんだろうか、と冨岡は意識の底で少しだけ考えた。
冨岡よりも随分下にある頭に向かってできる限り優しく手を延ばせば自然と柔らかな髪に触れた。髪の感触を確かめるようにくしゃりと数回手を動かすと、また「えへへ」と声を出して名前は笑った。
ああ、堪らなく愛おしい。
冨岡はいつもそう感じるのだ。

「んふふ、ありがとうございます…!!」

「…よく頑張った。」

「!!」

冨岡の言葉に名前が目を見開いて頬を染める。冨岡は自分のすること、なすこと全てにこうして隠さずに反応する名前を不思議に思ったりもしたというのに、今ではどうしてこんなにも愛いものなのかと疑問さえ抱いていた。
名前が喜ぶことをしてやりたい。そう思う冨岡は、名前がねだることに対して熱心に応えた。
褒め方等知らない冨岡は必死に考え、昔今は亡き姉がこうしてくれたことを思い出しこうして名前に触れるようになったのだ。
冨岡は名前にねだられるのが好きだった。必要とされていると感じ、自分を求めているのだと思えるから。こうして名前を撫でることも好きだった。こうすると名前は大層喜び嬉しそうに笑うから。
冨岡は名前を幸せにする方法が解らない分、与えられるものは全て与えてやろうと思っていた。それは冨岡もまた、名前に与えられてばかりいると感じていたからかもしれない。
名前が呼べば自分の名前さえ特別に感じ、名前が笑えば心の底から形容しがたい感情がじわりと広がり、名前に触れればこの感情が愛しいということなのだろうと実感するのだ。
全て名前が冨岡に教えたことだ。この「特別な感情」を自覚することが出来たのも、一心に冨岡を慕う名前のおかげであったに違いない。時にははち切れんばかりに、そして時にはこぼれ落ちるかのように、「大好き」だと冨岡に伝えてきた名前の言葉を冨岡は全部ちゃんと受け取っていた。名前の口から発される言葉一つ一つを不器用ながら丁寧に拾ってきた冨岡は自分の抱える感情が「同じもの」であることに気づくことが出来たのだ。
この感情が恋や愛でないというならば、一体何だと言うのだ。
いつからか冨岡はそう信じて疑わなかった。名前と同じ気持ちであることも、名前が感じる特別な感情が自分に向けられているということも、名前と同じ感情を味わうことができるということも、冨岡には新鮮であり同時に尊いものだった。
名前が与えてくれるのもはどれも冨岡一人では感じることのできなかったものばかりで、これら全てを幸せと呼ぶのだろうと形のないものに名前を付けていたほどに。

「…ふふふ、ふふ、ありがとうございます!」

冨岡に褒められ、嬉しくて堪らない名前はにやける口許を手で覆ってお礼を言った。そんな名前を見て冨岡も内心とても喜んだ。自分で名前を喜ばせることができたのだと安心し、同時に他では感じることのできない多幸感も抱いていた。この感覚に冨岡は溺れそうになっていたのだ。中毒的なまでの喜びはまるで薬物のようだ。
だから冨岡はどうやっても名前を手放すことができなかったのだ。なんと愚かなことかと、冨岡はいつも後になってから自分を嘲笑するのだ。
名前は冨岡の羽織を柔らかく握って冨岡が進んでいた道を一緒に進む。

「そう言えば、義勇さんのお庭に植えたお花がそろそろ咲く時期なんです!」

「…そうか」

「はい!もしかしたら、もう蕾が開いてるかも…!!」

「楽しみですね!」と名前は冨岡を覗き込む。冨岡は「そうだな」と一言返す。冨岡から返ってきた同意の言葉に名前はまたきゅっと目を細めて笑う。

「義勇さん、大好きです!」







「…………、…嗚呼」

ぼやけた視界を意識がさ迷う。冨岡は誰に起こされたわけでもないのに、今この瞬間に、まるでそれが必然のように覚醒した。随分良い夢を見たものだと、夢の中に居た自分の代わりに自分を嘲笑する。寝起きのかすれた声は非常なまでに落胆した言葉を吐いた。
ここは蝶屋敷、時間はまだ陽が登ったところ。
そう、冨岡は随分と自分に都合のいい夢を見ていた。
あまりにも具体的で現実味のある夢に、夢であったことを理解するのが遅れた冨岡は思わず自分の手を握って開いた。その感触に、やはり夢だったのだと確信した。慣れた手つきで名前の頭を撫でていた夢の中の浮わついた感触も思い出せないくらい、自分の手のひらがカサつく感触は残酷に感じた。
夢にまで見るほど自分は溺れているのだと思うと自分の浅ましさに頭痛さえ覚えた。
会いたいと、思わずには居られなかった。
もう随分と冨岡は名前に会っていなかった。その理由を作ったのは勿論冨岡だ。名前を突き放したのも、名前に見せることができない程無様な姿でここに運ばれたのも、全部冨岡がやったことだ。名前はどうしているだろうかと考えない日はなかったがそれを知る術すら冨岡は持ち合わせていない。
冨岡は燦々と登り続ける陽の光を遮るように己の目を腕で隠した。
冨岡の気持ちとは裏腹に、酷く穏やかで眩しい目覚めだった。


今日は冨岡の長い休養が明ける日だ。
胡蝶に無様だと罵られた日から数週間程たっただろうか、身体さえ治療が済んでしまえば機能回復訓練はあっさりと終えてしまい、無事に今日蝶屋敷を出ることになった。柱の冨岡にしかできない仕事はいくらでもある。一刻も早い復帰は願ってもないことだ。
いつもより早く目覚めてしまった冨岡はもう一度眠ることもできずに大きなため息を吐きながら上体を起こした。良い夢を見ていた時ほど目覚めてしまうのが早いのは、都合のいいことはそう長く続かないということなのか、あるいは夢から覚められなくなってしまうという本能的な危機感からなのか。いずれにせよ、冨岡は自分が蝶屋敷を出るということがどういうことなのかを今さら考えてしまった。
自分はここに居ることで安寧を与えられていたのだと、ここを出れば名前の居ない生活が来るのだと。
名前の影がちらつく、自分の屋敷に戻るのだ。
報せもなく突然現れる名前の元気な「ごめんください」の声を期待して縁側に面する戸を大きく開けていた、あの生活は戻ってこないだろうと今さら確信した。
与えられてばかりだったのだ。無償で与えられていたその幸せを手放したのは己だと言うのに贅沢なことを思うものだと自分に呆れた。
冨岡はただ与えられているばかりでは幸せにしてやれないことをずっと悩み苦しんできた。想像もできない程のものを自分に与えてくれる名前に、いつ死んでしまうかもわからない自分が何をしてやれるのか、今も解らないままだった。
名前に相応しい人間になることができたなら、名前を幸せにする術を得たのなら、遠慮なくその手を引いて掻き抱いてしまえるというのに。情けない自分にいつも辟易としていた。
だから名前を、自分から遠くへ引き離した。覚悟していたはずなのに、ここまで滅入るとは冨岡自身想像以上だった。
どうしようもない人間だと、ため息を吐いたのだ。

冨岡はのそのそと寝台から降り身支度をする。
いつ何時何があってもすぐに対応できるようにと側に置いてある日輪刀を一瞥して、自分の羽織に腕を通した。



「冨岡さん、そろそろお時間ですが……あら、」

「…胡蝶。」

「おはようございます。てっきりまだ寝ぼけてらっしゃる頃かと思ったんですけれど。」

そろそろ発つかと冨岡が腰を上げた時、胡蝶が丁度冨岡の様子を伺いに来た。胡蝶は少しばかり驚いた顔で冨岡と挨拶を交わした。胡蝶が「もう出られますか?」と声をかけると冨岡は頷き短く「ああ、」とだけ答えた。
胡蝶が冨岡を連れるように玄関に繋がる廊下を歩く。窓から射す陽も高く、暖かい。胡蝶は「良いお天気ですね。ご退院日和と言った所でしょうか。」と冨岡には冗談とも皮肉とも判別のつかない事を言った。勿論、冨岡はそれに返事もしなければ相槌も打たなかった。

「もう二度とこんな風にお世話するのは御免ですからね。」

「………世話になった。」

「本当ですよ。私がここまでしてあげたんです。いい加減、ちゃんとしてくださいね。」

胡蝶は何か含みのある事を言って玄関の戸を引き冨岡を連れ出す。
冨岡は一瞬、勢いよく降りかかった日差しに目が眩んで顔を反らした。ゆっくり目を慣らしながら外に踏み出し、愕然とした。

「義勇さん!」

蝶屋敷の門の側で、名前は立っていた。
冨岡の姿を見て、一段と表情を綻ばせて。

「…名前、」

「お迎えですよ、冨岡さん。」

胡蝶は戸を閉めて穏やかに言い放つ。

「お礼は今度たっぷりと頂きますからね。」

冨岡は驚くあまり、胡蝶に返す言葉が出てこなかった。
目を開いて胡蝶をただ見つめる冨岡に、胡蝶は思わず吹き出すように笑った。

「さあ、散々待たせたんですからさっさと行ってあげてください。しばらくここには帰ってこないで下さいね。」

ぽん、と冨岡の背中を押した胡蝶はにこやかに笑い名前にお待たせしました、と声をかけた。
冨岡は訳もわからないまま、少しずつ名前の元に歩みを進めた。

「…へへ、お迎えに来てしまいました!」

「……そう、か」

「一緒にお屋敷に行ってもいいですか…?」

「…ああ」

「わーい!ありがとうございます…!」

名前は何事もなかったように冨岡に笑いかける。
冨岡はそれに安心すると同時に、少しだけ動揺した。一体どうしてやるのが相応しいのか解らなかった。
名前は胡蝶に向かって深く頭を下げる。胡蝶はそれに手を振って応えた。

「帰りましょう!義勇さん!」

「…ああ。」

名前は冨岡の羽織の袖をちょいと引っ張り冨岡を促した。
二人揃って、同じ早さで帰り道を歩く。名前は鼻歌なんかを歌いながらご機嫌な様子だった。冨岡は夢でも見ているのだろうかと疑ってみたりした。

「そうだ!義勇さん!」

名前が思い出したように冨岡に話しかけると、冨岡も意識を名前に戻した。

「義勇さんのお庭に植えたお花、そろそろ咲く時期なんです!もしかしたら、蕾が開いているかも…!」

ああ、やっぱり夢なのだろうか。
冨岡は名前の言葉にそう思った。夢の中の名前もそう言っていたと思い出しながら。

「…そうか」

夢の中の自分と同じ言葉で返事をする。
どうかこれが夢であってくれるなと祈りながら、夢ならもう醒めてくれるなと懇願しながら。
いつも想像できない程のものを与えてくれる。会いたいと願った自分の目の前に今微笑んでいる。
夢にまで見た、恋も愛も幸せも何もかもを与えてくれたこの隣の温もりが、例え夢幻であっても構わないから側に欲しいと、冨岡は人間らしく神に乞うた。
赦されるなら、一生このまま、と。
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