馬に蹴られるのは私か鹿か

「あら、お目覚めですか。ああ、痛むでしょうから起き上がらなくて構いませんよ。冨岡さん。」

誰に起こされたわけでもなく、自発的に開いた目の前に広がるのはそれなりに見知った天井だった。冨岡はぼやけた記憶をたどりながら、声の主の方に首を傾ける。
冨岡は声の主ではっきりここが蝶屋敷であることを理解し、自分はここに運ばれたのだろうと察することもできた。

「ここに運ばれたわけ、覚えていらっしゃいます?」

「………、ああ。」

冨岡は請け負った任務先で生きるか死ぬかを彷徨う程の激戦を繰り広げた。一人でここに還ることが出来ぬほどの怪我を負って。
数人の隊士を連れて就いた任務は鬼の数も、その強さも報告を大きく上回り苦戦を強いられた。にも関わらず冨岡は連れ立った隊士を誰一人欠かす事なく、どうにか任務を終えて生き長らえた。夜明けと共に任務を終えた冨岡は意識を手放し、動ける隊士と救護に駆けつけた隠にここまで運ばれた。同じ任務に就いた隊士たちは皆口を揃えて冨岡を命の恩人だと言う。蝶屋敷を仕切る蟲柱、胡蝶しのぶは一部始終を聞き「そうですか」と穏やかに笑ってみせたものの、 複雑な気持ちを抱いていた。

「しばらくは安静第一です。とてもじゃありませんけど外を歩けるような体じゃありませんよ、冨岡さん。」

胡蝶はかたかたと音を立てながら冨岡の側に怪我の手当てに必要であった器具や薬を綺麗に磨き並べる。冨岡はそれを横目に見ながら大人しく胡蝶の言葉を聞いていた。

「処置は完了していますが、何も治ってはいませんからね。ちゃんと私の言うことを聞いて下さいね。」

胡蝶は側にあった椅子に座り厳しく言う。冨岡は素直に「解った」と返し、生きていることを確認するように自身の手をじっと見つめ、ぐっと握ってはぱっと開いた。手のひらにまで巻かれた包帯の下がじんじんと痛むのが解った。その痛みが生きているということなのだとも。

「…冨岡さん、あなた、本当にお馬鹿さんなんですね。」

「………」

何の前触れもなく胡蝶から軽く罵られた冨岡は視線を胡蝶に向けその言葉の真意を探った。日頃から包み隠さず言いたいことを言う胡蝶の言葉に今さら冨岡が何か驚かされることもなかったが、相変わらずの言われように少し眉を寄せた。
完全に覚醒した冨岡の視界に入った胡蝶の表情は口角は上がっているものの少し冷たく見えた。それもつかの間、胡蝶はいつもの調子でにっこりと笑ってみせた。

「私は大いに結構ですよ。彼女はきっと、引く手あまたでしょうから。」

冨岡は頭を殴られたように目を見開いた。
冨岡はすぐに、胡蝶の言う「彼女」が誰で、何に対して「結構」だと言っているのかを理解した。「引く手あまた」だと言う胡蝶の言葉に確信と共感と、望んでもいないのに沸き立つ妬心でむせ返りそうになりながら。
もうあれから数日経つのだ。他の誰かが知っていたとて不思議もない。冨岡が名前に酷いことを言ったと、もう誰もが知っているかもしれない。
冨岡はそう自分に納得させようと思うものの、己で片を付けたくせにまだ自身の感情に何も整理がついて居ないために苛立ち、何も言うなと言わんばかりに胡蝶を睨んだ。

「あらあらあら、怖い顔。やっぱり貴方がまいた種なんですね?ほんと、信じられませんね。」

胡蝶は冨岡の反応に確信したような言葉を投げた。冨岡はまんまと胡蝶に鎌をかけられたのだ。想像以上に解りやすい反応を見せた冨岡に胡蝶は思わず小馬鹿にするように笑った。同時にひどく呆れもした。

「……関係ないだろう。」

「関係ない、ですか。…それは冨岡さんが負った怪我と冨岡さんが名前さんに酷いことをしたことの因果関係について、ですか?それともあなた方二人の関係のあり方と、それについて私が口を挟んでも良いことかどうかについて、でしょうか?」

「……。」

「残念ですねえ、冨岡さん。私はどちらも関係がある、と思っているのでこうしてお話をしているのですよ。貴方が嫌がったって、こんな風になって毎度任務から戻られては私の仕事が増える一方ですから。」

胡蝶は冨岡の言葉を待つことも、促すこともせずに続けた。胡蝶はいつも微笑んでいる。それが彼女にとっての信念の一つであり、義務であったから。胡蝶は変わらず口角を上げたまま、普段と変わらぬ声色であったが言葉の節々から物言わせぬ圧力を冨岡はひしひしと感じた。
寝台に横になったまま、冨岡は再び大人しく胡蝶の言葉に耳を傾けた。

「先日、伊黒さんがお薬を貰いに来たんです。擦りすぎて酷く目蓋が荒れているから塗り薬を出してやって欲しいと。話を聞くと名前さんのためだと仰ったので、私は冨岡さんと違ってとっても賢いですから簡単に察してしまいました。」

胡蝶は黙った冨岡に対して一から丁寧に話した。言葉の間に挟まった冨岡に対する軽い罵倒も、冨岡本人は聞き流しながら何処を見つめるわけでもなく宙に視線を放った。

「彼女、どんな怪我をしたって泣いて帰ってきたことは無かったんですよ。名前さんが泣くなんて、咄嗟に思い付いた原因は貴方くらいでした。」

「まあ、不躾に探るのは失礼なことですから、具体的なことまでは解りませんでしたけれど。」そう胡蝶は付け足しながら、側に並べた薬の一つを取り出して幾つかそれを冨岡に差し出した。冨岡は変わらず黙ったまま、胡蝶の行動から察して軽く上半身を起こしてそれを受けとるとその後渡されるであろう水を待った。本当に歩くこともままならないらしく、上半身を動かしただけで身体が悲鳴を上げ思わず患部を擦った。

「では、どうして私が冨岡さんが名前さんに酷いことをしたのだと解ったのか、気になりますよね?」

胡蝶は薬を流し飲むための水を冨岡に渡しながら続ける。
胡蝶から出される薬を疑うこともなく、何のための薬かも解らないまま冨岡は薬をまとめて口に含み水で喉の奥へと押しやった。

「少し前、名前さんが聞かせてくれたんですよ。望んでいない縁談を持ちかけられていると。すごく滅入ってる様子でしたからよく覚えて居ます。」

冨岡はぴくり、と手を揺らした。勿論胡蝶はそれを見逃さなかった。

「勿論その時は何かご家庭の事情があるのだと思っていましたよ。お話を聞く限り、とても不可解な点が多くて縁談を受けなくてはならない理由は全くわかりませんでしたが、冨岡さんがそんなことをするとは塵ほども考えませんでした。だって…ねえ?そうでしょう?」

胡蝶は追い討ちをかけるように続けたものの、言葉を選ぶように曖昧にぼかした。問いかけるような物言いだったが、冨岡は何の反応も見せなかった。胡蝶はそれを気にも止めずに淡々と話す。

「ところが今日、貴方がここへ運ばれてきて何があったのかよく聞くほど不思議に感じたんです。冨岡さん、まるで貴方が死に急いでいるようで。」

胡蝶はどこか叱るようだった。胡蝶は冨岡らしくないと思っていたのだ。一度引いて体勢を整えることも出来たのではないか、命をかけた戦闘に一瞬の猶予もないとは言え救援が来るまでどうにか凌ぐ判断も、その指示も冨岡には出来たはずなのにどうして冨岡だけがここまで負傷したのか、胡蝶は懸命に処置を施しながら疑問に思っていたのだ。
そこで一つたどり着いた可能性は名前だった。
胡蝶は冨岡が、名前に特別な感情を抱いているのではないかと十分察していた。ここ蝶屋敷に名前が世話になる度に顔を出しては普段見せぬ姿を露にする冨岡に少しずつ確信さえ抱いていた。
目蓋が酷くなるほど泣いた名前と、いつもと様子の違った冨岡を結びつけるのは容易かった。
この二人に何かあったに違いないと、むしろあれだけ前向きに強気に縁談を断っていた名前をこんな風にしてしまえるのは冨岡しか居ないと、自分の想像を超えることを冨岡はしでかして居るのではないかと。名前がわざわざ嫁に出ていかねばならぬ程の理由がどこにもないのに、執拗に縁談を迫られているのは家庭の事情ではない何かがあるのではないか、そうすると任務に限らず世話になっていたという冨岡が関わっているのではないかと。
まさかとは思ったものの、胡蝶は鎌をかけたのだ。

「名前さんに縁談が持ちかけられていたのは、冨岡さんが噛んでいるのですね?」

「……。」

「無言は肯定と取りますよ。」

今度こそはっきりと冨岡に聞いた胡蝶は全く、と呟いてため息を吐いた。
どうしようもない男だと、心底面倒に感じながら。

「…何を考えているのか理解に苦しみます。そんなことして、自棄になっていたんじゃないですか?こんな戦い方、柱が聞いて呆れます。本当、勘弁してください。」

とばっちりを食らったとばかりに胡蝶は冨岡に文句を垂れた。無理もない、最悪な形で巻き込まれてしまったのだから。こればかりは冨岡には言い返す言葉もなかった。言い返すつもりも無論なかったが。

「…ここまで言いましたけれど冨岡さんが為すことにとやかく言うつもりはありません。馬に蹴られるのも御免ですし。単純に、こんな無様なことはもう二度とやめて欲しいだけです。」

一頻り話しきった胡蝶は大きく息を吸って吐いた。相変わらずどこを見ているのか定かでない冨岡をじっと見つめて胡蝶は放って置けない気持ちになった。

「…まあ、でも。そんな無様な冨岡さんに私から一つだけ。」

小さな子供に言い聞かせるようにも、教え子に知恵を与えるようにも聞こえた言葉に冨岡はようやく胡蝶と目を合わせた。最初こそ胡蝶を睨んでいたというのに、肩を落として小さくなっている冨岡を見て胡蝶は本当にしょうがない人だともう一度大きなため息をつきたくなった。目の前にいる大の大人が、自分よりも幾つか年上の男が己のことすら儘ならなくなっているのだから無理もないかもしれないが、それよりも冨岡が迷子の子供のように見えて面倒を見てやらねばならない気になった。胡蝶はいつも面倒見がいいのだ。
互いの目を合わせて、冨岡は胡蝶の言葉を待ち胡蝶は冨岡に届けるように言葉を選んだ。

「愛しいという気持ちにただ素直になることは、悪いことではないのですよ。」

にこやかに語りかける胡蝶を、冨岡は呼吸音さえ立てぬほど静かに見ていた。二人の会話の内容と裏腹に窓の外では鳥が鳴き、風が木を揺らす。冨岡に厳しく言いつけていた胡蝶の声色は随分と柔らかく、穏やかな昼下がりに胡蝶の微笑みはよく似合っていることだろう。なんの反応も見せない、脱け殻のような冨岡に胡蝶は続けた。

「彼女が…名前さんがそうであるように、きっとそれは素晴らしいことなのですよ。…冨岡さんも、そう思うでしょう?」

冨岡は紡がれた名前の名前に目を見開いた。あまりにも解りやすく反応する冨岡に胡蝶は溢すように笑い、それを隠すように口許に手を添えた。

「…彼女を見ていると、なんだかそう思うようになりました。きっとそれは私だけじゃないと思います。…一つ一つに一喜一憂しながら、真剣に向き合って一生懸命人を愛する。素敵なことだと思いませんか。ねえ、冨岡さん。」

胡蝶はまるで、冨岡の心の底を掘り返すような口ぶりで言った。目の前の冨岡にではなく、冨岡が誰にも何も語らずに殺そうとしていた「もの」に問いかけるようだった。

「…なんて、私が偉そうに言うのも違いますね。」

胡蝶は冨岡から目線を反らして目を伏せた。冨岡に言い聞かせていながら、改めて自分の価値観を見直し自嘲していたのだ。鬼の居ない世界のために、復讐のようなものを抱えたまま生き急ぐ自分も、誰にも頼らずもがく自分も、色んな物を微笑みに隠して生きている自分も結局は冨岡と「似た者同士」なのではないかと。羨ましくもあったのかもしれない。純真無垢に冨岡に恋をする名前の眩しさが、とてつもなく尊く感じていたのだ。素直に生きる名前の美しさが、どうかこのまま穢れることのないようにとさえ祈っていた。

「冨岡さんが何を考えているのか、私には全くこれっぽっちもわかりませんが想像することはできますから、ついお節介なことを言ってしまいました。的外れでしたら忘れて頂いて構いません。」

胡蝶は椅子から立ち上がりまたにこりと冨岡に笑いかけた。相変わらず、冨岡は面食らったままだった。
「さあ、怪我人に必要なものは休養ですよ。」といつもの胡蝶らしい言葉をかけて起き上がったままだった冨岡を布団に押し込んだ。

「先程の薬には副作用として強い眠気が冨岡さんを襲いますから、大人しく寝ちゃってください。痛みもやや、和らいだでしょう?」

冨岡は胡蝶にされるがまま布団に寝転び胡蝶の言葉に気を向ける。先程飲んだ薬はどうやら鎮痛剤であったらしく、冨岡は起き上がるのもやっとであったというのに寝転ぶのに痛みは感じなかったことを思い出した。

「薬の効力が切れる頃にまた様子を見に来ますから、安静にしていてください。」

「それでは。」と胡蝶は冨岡の返事を待たずに使い終わった薬品と器具を持って部屋を後にした。
冨岡はそれなりに見知った天井を眺めながらゆっくりと目を閉じた。
痛みは和らげど、胸のあたりがざわついたまま。





「…あら、」

「し、師範…!」

「しのぶさん!!」

胡蝶が薬剤庫へと薬品を戻しに行こうと廊下を進むと慌てふためく胡蝶の継子であるカナヲと、丁度冨岡と話題にしていた名前の姿が見えた。胡蝶は少し困った顔をした。

「…どうかされましたか?」

「あの、えっと…!!う、…」

見かねた胡蝶は努めて優しく名前に声をかけた。言いたいことはあるというのに、胡蝶に対して全く言葉が出てこない様子の名前をカナヲは少し心配そうに見つめた。カナヲよりもさらに慌てている様子の名前に、怪我は見受けられなかった。胡蝶は先日伊黒に頼まれて薬を処方した、瞼のあたりも随分良くなった事を名前の言葉を待ちながら確認した。

「ぎ、ゆうさんに…義勇さんに、何かあったんじゃ、ないかって…私……。」

「…冨岡さんですか?…誰かに何か言われたんですか?」

「い、いえ!…でも…なんだか皆さん、いつもと違って…むしろ何も教えてくれないというか、それで…私…」

胡蝶は心の中でため息をついた。うまくいかぬものだと頭を抱えたくなった。
それもそのはずだ。柱の冨岡の負傷は産屋敷や他の柱に通達済であり、関わった隊士や隠にも知れて居る。だが、胡蝶は口酸っぱく、名前には知らせることのないようにと言いつけていた。
それは傷心している名前を思いやったことでもあり、情けない冨岡のためでもあった。
心の傷というものは、薬では治らないと胡蝶は十分に知っている。それ故に今知るべきことではないだろうと判断したのだ。双方に良い影響を与えるとは到底思えなかったのだ。
ところがどうやら名前は周りの人間の違和感を気づいてしまい、胸騒ぎのするままここまで走ってきてしまったらしい。名前の額にはじんわりと汗が光って見えた。この素直で真っ直ぐな少女の師範は甘露寺なのだ。隠し事なんかできるはずもなかった。名前の純粋な眼差しに対して隠の誰もが上手く嘘をつくことができなかったのだろう。胡蝶の心配りはたった数時間でなし崩しになったようだ。
カナヲは精一杯名前をここで足止めしていたのだろうと胡蝶は察した。

「ぎ、ぎゆうさんは…っ無事、ですよね…!?」

うまく言葉をまとめられないまま、名前は瞳に溢れんばかりの涙を溜めてどうしても聞きたかったことだけを胡蝶に投げ掛けた。
名前の震える声に胡蝶は思わず眉を下げた。随分と健気なものだと、心が締め付けられる思いだった。

「…冨岡さんなら、今丁度お休みになられたところです。何も心配入りませんよ。」

「!!」

「師範…、」

「とは言え、随分情けない姿ですから面会は今度にしましょう。ね?」

胡蝶は名前の頭をそっと撫でてやり、心配で歪む顔を覗き込んだ。胡蝶の言葉に安堵したのか、心配が一気に流れ出るように名前の頬を涙が伝う。カナヲは心配している名前に何も言ってやれなかった歯がゆさがようやく安心に変わりそっと胸を撫で下ろした。肩を揺らして泣き出した名前の肩をそっと支えて大丈夫だと声をかけてやった。
ここまで来てしまったのだ。嘘をついてやったとて、気がかりになってしまって結局苦しむだろうと胡蝶は名前に触る程度ではあるが冨岡の容態を伝えた。

「よ、よかった、良かった…」

「こら、擦っちゃいけませんよ。やっと良くなったんですから。」

溢れる涙を必死に拭う名前の手を抑えた胡蝶は困ったように笑った。ここまで必死になって想ってくれる人が居るというのに、冨岡はなんて馬鹿なのだろうと心の底で思うばかりだった。冨岡には少し、勿体ないのではないかと思うほどに。

「冨岡さんも幸せ者ですねえ、こんな風に想って貰えて。」

胡蝶は何も知らない風に、それでいて名前を元気付けられる言葉をかけた。
名前はぐすぐすと鼻を鳴らしながらゆっくり呼吸を繰り返し、ようやく落ち着きを取り戻して言った。

「…約束、したんです。」

「…約束?冨岡さんと、ですか?」

「はい。…何があっても義勇さんのところに帰るって。だから義勇さんは、絶対…絶対に生きてなきゃだめですよって。」

指切りしたんです、と名前は言いきって最後にぐっと羽織の袖で涙を拭いた。胡蝶は自身のかけた言葉に対して返ってきた言葉に思わず目を見開いた。

「…義勇さんを、助けてくれてありがとうございます。」

名前は深く深く頭を下げた。
決して名前は冨岡のために鬼殺隊に入ったわけではない。それでも、必ず「ここ」に帰るのだという一つの義務のようなものを忘れたことはなかった。甘露寺の継子として負けるわけにはいかないと日々研鑽を詰みながらも、冨岡と交わした指切りを今でもずっと忘れずに居たのだ。
冨岡が自分を認めてくれたこと、自分が負けられないこと、帰る場所があること、冨岡が自分の身を案じて言いつけてきた言葉のそれら全てが名前を強くしてきた。
名前が冨岡と交わした約束は、名前にとって他の何にも代えがたいものだった。
その約束はまるで、ずっと一緒に居ると誓ったようにさえ感じていたのだ。
心から慕う人を失う辛さをまだ名前は知らない。知りたくもないと心から思ってやまない。まだ知らずに居られることに、心から感謝した。

「…冨岡さんは、本当にお馬鹿さんですねえ。」

「……へ、…?」

「…ふふふ。元気になった冨岡さんには約束は破っちゃいけないんですよってキツーイお説教が必要ですね。」

名前は胡蝶の言葉の真意がわからず間抜けな声を出して首を傾げた。胡蝶はまた名前の頭を撫でてにこやかに笑うと楽しげな声で語りかける。

「…その様子だと飛び出してきたのでしょう?先生が心配しますよ。」

「っあ!!」

「冨岡さんのことは私に任せておいてください。お会いできるくらいになったら、私からご連絡しますから。」

「…ありがとうございます、しのぶさん…」

「いいえ、こんなに健気な子を放っておけませんからね。」

胡蝶は心からそう言って、名前の背中を優しく押した。
名前はカナヲに「ごめんね」と迷惑をかけてしまったことを謝るとカナヲもまた「私も、ごめんね」と名前に謝った。

馬に蹴られるのは御免だと言ってみたものの、いささか深入りしすぎたと胡蝶は思う。しかしここまで巻き込まれにきたのは自分かもしれないと思うとそれもいいか、とも感じた。
生きるか死ぬかの最前線で、年相応の感情や生き方も惜しまずに精一杯生きている名前に、どこか自分にないものを与えられているようにさえ感じるのだ。
諦めようと思ったわけではなく、もはや初めから期待さえしていなかったことを思い出させてくれる名前に寄り添うと、年相応に生きることを少しばかり想像してしまうのかもしれない。
名前とて、幾度も死線をこえてきた。それでも変わらずこうして一生懸命冨岡を慕い何にも諦めずに居られるのはどうしてだろうと胡蝶は考えた。
答えは名前しか知らない。胡蝶はその答えを名前に求めはしなかった。
きっと、冨岡が居るからなのだろう、と一人勝手に答えらしいものを当てはめてみせた。
名前が命にも代えがたいものを失ったとき、今と同じで居られる保証はどこにもない。
だったらせめてそんなことにならないように、今と変わらぬ名前があり続けられるように自分も周りも、冨岡も生きねばならないと心のすみで思った。

「…冨岡さん、覚悟しておいてくださいね」

急ぎ足で甘露寺の元へ戻る名前の背中を見送りながら胡蝶はぽつりと独り言を垂れた。
簡単には死なせてやりませんよ、と心の中で一言添えて。
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