臆病者だと罵ってくれ

冨岡義勇はある日、久しぶりに苗字邸を訪れていた。

藤の家紋を掲げる苗字邸は長く続く立派な旅館を営んでおり、鬼殺隊士を手厚くもてなしながらもいつ訪れても旅館を利用する客で繁盛している。今日とてそれは変わらなかった。
冨岡は任務の後ここに厄介になることしばしば、いつの間にかここに住む人皆の生活に変わりがないかを確認しに来るまでになった。さほど頻繁に足を運べるわけではなかったが、冨岡が任務とは別に訪れたとて誰も驚きもしない程だった。

「まあ、水柱様。よくぞおいでくださいました。」

一番最初に冨岡を迎え入れたのは女将である名前の実の母親だった。てきぱきと他の女中達に指示を出し、冨岡をいつもの部屋へと招いた。部屋に向かうまでの廊下で変わりはないか、体の調子はどうかと冨岡に笑いかけ、「お食事も召し上がって行って下さいな。」と言い鮭大根にしましょうねと相槌しか返さない冨岡に楽しそうに話した。冨岡はいつも、名前は母親似だとこの笑顔を見て思うのだ。

冨岡ももてなされるのには慣れたもので、いつもの部屋で出される食事を運んでくる女中達の話を聞いたりしながら変わらぬ様を確かめた。
食事を平らげると必ず最後に暖かいお茶を持って名前の母親の女将、時には父親の主人が冨岡の様子を覗きに来る。それを冨岡は待ち、運ばれてきたお茶に口をつけた後「変わりはないか」と改めて聞くのだ。先ほど冨岡が聞かれたように、冨岡も変わりのないことを祈って。

「うちはご覧の通り、お陰様でとても平和ですよ。」

女中に混じって部屋に顔をだした女将もまた慣れた様子でそう答えた。冨岡の不器用な優しさにいつも喜びを感じにこにこと笑いながら、冨岡が少し表情を緩めて「そうか、」と一言返すのを聞くまでがいつもの流れとなっていた。

その日も当たり障りない、いつも通りの世間話をした。最近きたお客の話、新人の女中の話、新しく出した料理の話、鬼のいるこの世等忘れさせてしまうほどの穏やかな会話だった。冨岡は耳を傾けながら相槌を打っていた。
ニコニコと微笑む女将は色んなことをそう言えば、この間、それから、と冨岡に話した。その話の節々から、やはり名前の母親なのだなと冨岡は思うのだ。名前より幾分落ち着いた声色、丁寧な口調、心地のよい会話に冨岡は名前の「いつか」の姿を思い描かずにはいられなかった。
女将は話しきったと言わんばかりに一息ついて、冨岡ににこりと笑いかけた。

「…それで、水柱様。今日は改まってどうされたんですか?」

冨岡は思わず面食らった。
いつもとなにも変わらないやり取りのどこに冨岡の違いを女将は感じ取れたというのか。冨岡は一瞬目を見開いて驚き、何から話せばいいものかと黙りこくった。

「……ふふ、うちの人を呼んできましょう。お茶も淹れ直してきましょうね。」

そんな冨岡に女将はまた笑った。





「また、どうしてそんなことを?」

名前の父親であるこの旅館の主人は落ち着きつつも少し驚いたようで疑問の声をあげた。冨岡に向かい合い並んで座った名前の両親は冨岡から目を離すことはなかった。女将は相変わらず背筋をぴんと伸ばして、父親は少し食いぎみであった。

「あの子は立派に務めを果たしているとばかり思っておりましたが、そうではありませんでしたか。」

「まさか、何かお気に障ることをしでかしましたか?」

冨岡はいつもと変わらぬ姿勢で二人から目を反らすわけでもなく、かと言って合わせているわけでもなかった。二人は努めて穏やかに冨岡の言葉の先を催促した。
冨岡は膝に据えた両手を少しだけ握った。

「…名前は立派な剣士だ。」

それはもう、眩しいほどに。
冨岡はそう心のなかで言葉を添えた。冨岡は名前の剣士としての実力を十分認めていた。傷まみれになって稽古を積み、冨岡に鬼殺になるとこの部屋で告げた日からさらに研鑽を積んだその実力を。あの柔らかで甘味を帯びた雰囲気からは想像できないほどのものを冨岡は感じていた。冨岡に限らず、誰もが名前のことを恋柱の継子に相応しいと認めていたのだ。そして名前もそれらに相応しい努力を重ねていたのだ。

「…では、何故鬼殺を辞めるようになど、引いては……嫁に出せなど」

主人はいつも優しく下がっている眉にぐっと力をこめて顔を歪めた。
無理もなかった。命をかけてその生を全うし人のためにならんと奔走する愛しい我が子が一生懸命慕う冨岡から、どこかに嫁がせて鬼殺を辞めさせて欲しい等とお願いされる日が来ることなど微塵も想像して居なかったのだ。

「私どもがあの子に、そんなことを言えようとお思いなのですか」

とうとう主人は冨岡から目を反らし俯いた。
名前が冨岡に命を救われたその日から名前はいつ訪れるかもわからない冨岡を慕い続け、鬼殺隊士の支えになろうと尽力し、冨岡が訪れた日にははちきれんばかりの笑みを浮かべて義勇さん、と健気に呼び自分にできる全てをしてやりたいと、一生懸命恋をする名前を両親も、女中も、この屋敷に住む誰もが見守ってきた。
可愛い娘を嫁に出す辛さ等主人にはなかった。叶うことなら、出来ることなら冨岡と結ばれて冨岡の元に巣だって欲しいとすら思っていた。健気な娘がどうか報われることを祈ってやまなかった。例えそうならなくとも、冨岡であればその恋に見合う言葉をかけてくれるだろうと勝手に思っていたのだ。

「いっとう貴方を慕うあの子に、そんな酷なことを仰いますか」

冨岡は名前を助けたあの日のことを思い出した。
必死の血相で自分にすがり付き名前を案じる女中たちを、落ち着きを保ちつつも不安げに顔を歪めた女将を、帰って来た娘を見て自分に何度も頭を下げた主人を。あの日からもう随分と経った。あの日を最後に、冨岡の目の前でこんな風に辛そうな二人を見たことはなかったからだった。
冨岡は自分の言ったことがこれ程の事とは思っていなかった。少しばかり驚いたと同時に罪悪感が胸を絞めた。

「…これは俺の我儘だ」

冨岡はいつもより幾分小さな声でそれだけ溢すように呟いた。
冨岡がいつも通される部屋は屋敷の奧に位置し、喧騒から離れ穏やかに時が流れる柱を通すに相応しい部屋だった。他の人の声も聞こえない、時折ちゅちゅんと鳥のさえずりが聞こえるだけの部屋には冨岡の小さな声は十分だった。
俯いていた名前の父親は冨岡の声に反応するように顔を上げた。

「…名前は何も、悪くない。全部俺の我儘だ。聞き入れてくれなくとも、構わない。」

冨岡は意思をもった言葉を発した。
今度はしっかり二人を見据えて、眉を寄せて悲しげな主人の顔も、何か心配そうに微笑む女将の顔もしっかり見ていた。
冨岡の言葉を聞いた主人はどこか唖然とした表情だった。

「水柱様」

冨岡の言葉に返したのは名前の母親である女将だった。
そのはっきりとした声に冨岡も主人も意識を傾けた。
ぴんと伸びた姿勢のまま女将はいつもより少しだけ表情を強ばらせ冨岡をじっと見つめていた。

「名前は、立派に務めを果たしているのですね」

「…ああ、」

「水柱様に何か無礼なことをしたわけじゃないのですね」

「ああ」

「あの子を、…お嫁に出しても、宜しいのですね」

女将は確かめるように冨岡に問うた。動揺し苦しげな主人の隣で落ち着いた声を発す女将の言葉は、決して大きくはない声であったが冨岡を射ぬいた。
冨岡はその言葉にぴくりと指先を揺らした。
嫁に出して欲しいと言ったのは冨岡だ。それ以上の理由は何も話さず、己のわがままであるとだけ告げた冨岡に対して何故か許可を得るような確かめ方をする女将に冨岡は胸をざわつかせた。

「…そう、言っている。」

「………そうですか。解りました。」

女将は冨岡をじっくり見つめた後に、いつものようににこやかに笑って「そのようにさせましょう」と言った。
隣で一部始終を聞いていた主人は思わず声をあげて女将の言うことに反論をしようとしたが女将は「幸い、あの子にもそういう話は残ってはいるのですよ」「早速手紙に書きましょう」と話を進めた。

「そんな、お前は納得できるのか…!?」

女将に置いていかれた主人は、普段の様子からは想像できないほどの威厳を放ち女将を捲し立てた。穏やかな主人もこの古くから愛される旅館を営んでいる人なのだと冨岡は初めて実感した。
女将は変わらず落ち着いた様子で主人の震える手に手を添えた。

「いいんですよ。あの子が、名前が心から慕う人なんですから。きっと大丈夫ですよ。」

女将は「ねえ、水柱様」と笑って言った。
冨岡は「すまない、…恩に着る」と頭を下げた。







陽射しの暖かい今日、冨岡は日輪刀を丁寧に磨きながらあの日のことを思い出していた。
あれは丁度、名前が任務先で大怪我を負いどうにか最悪の事態になる前に助け出すことができた日から少し後の事だ。怪我を負ったものの、後遺症もなく回復し変わらず笑いかけてくれる名前に、もうどうかこんなことが起こらぬようにと必死に考えあぐねた結果に起こした行動だった。

命をかけて鬼の首を切るのは自分でいいと。
名前が命を落とすくらいなら、名前の誇らしい勇敢さも決死の努力も何もかもを踏みにじる事になったとしても、鬼殺隊を辞めさせてしまいたいと。

決して名前は弱くはない、けれど、鬼とて弱くない。
運が良かったのだ。あの日、動けなくなった名前の所へどうにか間に合ったものの、冨岡は初めて失う恐ろしさをその手で感じたのだ。日に日にもう次はないかもしれないと考えてしまい、どうしようもない焦燥感が冨岡を襲い攻め立てる。もう何処にも出してやりたくはないと、目の届く所で護られていてくれと願って止まなかった。
ただ、そんなことは言えなかった。剣士としての誇りを胸に宿す名前を、勝手にずっと護ってきたなど知られるわけにもいかなかった。

失うことが怖いなど、懸命に自分を慕う名前の手をとる勇気もない冨岡が、名前に言えるはずもなかった。

冨岡は名前の幸せを心から願う一人だ。両親や師範である甘露寺、その周りの人間達以上に名前が幸せならそれでいいとすら思っていた。
冨岡は名前が特別自分を慕ってくれていると勿論知っている。名前が自分にだけ見せる表情に何度も何度も喉から手が出そうな程だったのだから。
それでも冨岡が名前の手を取れなかったのは、名前の幸せは自分にはないと確信していたからだった。
いつ死んだって可笑しくない。名前から貰う痛い程の気持ちに返すに相応しいものも持ち合わせて居ない。
自分が名前を幸せにするにはどうすればいいのか冨岡は何年も何年も考えてきたというのに、その答えだけはどうしても出てこなかった。
自分には名前を幸せに出来ない。その方法が解らないのだから。
冨岡は、自分は名前にとっての幸せには成れないのだからその手を取ってはいけないとずっと考えてきたのだ。

冨岡は酷く名前を愛していた。その自覚もずっとあった。
けれど冨岡は名前の幸せのために、名前を諦める必要がずっとあった。
だからと言って諦めようと思って手を引けるほどの思いではなかった。己から触れることを良しとせず居たのにも関わらず思わず触れてしまう程、本能的に名前を必要としていた。

ずっと一人もがいてきた。もういっそ、自分の手の届かぬところへ幸せに拐われてしまってくれと。

だから自分より名前に近く、信頼を寄せられる名前の両親に頼ったのだ。易々と引き受けて貰えるとは勿論思って居なかったが、ほかに宛もなかった冨岡は頭を下げた。
冨岡は女将が何を以てして「大丈夫」と言ったのかはまだよく解って居なかったが、女将が大丈夫だと言うのだからきっとうまく事は運ばれて行くのだろうと信じていた。
冨岡もまた、言うまでもなく名前の両親を信頼していた。

間違いなくこれは冨岡の我が儘だった。
冨岡は自分の安寧のために名前に鬼殺を辞めさせ、自分一人ではどうしても名前を諦めることが出来なかったから、嫁に出して欲しいと言ったのだ。

理由も聞かずに受け入れた女将に冨岡は感謝すると同時に、自分で頭を下げたにも関わらず、いよいよ自分の手の届かぬところへ行くかもしれない名前を思うと息が詰まって苦しむばかりだった。
ずっと両親からの手紙に「応えられない」と返してきた名前に、冨岡自身がとどめを刺したのだ。もうきっと、自分の元へは帰って来てくれないだろうと確信していた。

「…自分で、絞めた首だろうに」

冨岡は誰も居ない水柱邸でぽつりと独り言を溢した。
昨日、ここで名前を傷つけてしまったことを一人思い出しては罪悪感に襲われながら、これで良かったのだと自分に言い聞かせていた。

名前はどうして居るだろうか。
炭治郎に追わせたものの、無事に帰れているのだろうか。
名前の鴉が何も報せにこないのだから、きっと大丈夫だろう。
そんなことをずっと頭に廻らせながら任務に備えて日輪刀を磨き続けた。

冨岡は名前が離れていくことが怖くて堪らないと言うのに、名前の幸せを願えばその恐怖も耐えて忍べと自分の首を絞める。
ずっと自分にその好意が向けばいいのにと、他の誰にも触れて欲しくはないと、名前がどうしようもなく愛しいと、名前の居ない日々を思うと何が後に残るのかと恐れるにも関わらず、名前の幸せにこんな身勝手許されないのだと。

名前に幸せになって欲しいというのも冨岡の我が儘かもしれない。結果として、名前を傷つけてしまったのに違いはないが鬼殺を辞め鬼と関わることのない残り長い人生を思えば、こんな浅ましい男の我が儘など、全うな人間と添い遂げれば大した傷跡にはならないだろうと冨岡は昨日涙を堪えた名前に思った。

「……錆兎なら、」

違っていたかもしれない。
冨岡は結局、こんな風にしか成れなかった自分を責めた。
錆兎ならもっと上手く、名前を傷つけずに出来たかもしれない。いや、そもそも錆兎なら、きっと名前を幸せにする方法を知っていたかもしれない。
そう考えるほど、自分じゃやはり駄目なのだとまた首を絞めた。

名前が幸せになれないなら何もかもを、己すら切って焼いてしまってもいいと思うのに、名前が居ない生活が酷く怖い。
どうしようもない人間だと、冨岡は一人ごちた。

冨岡は明日、任務に発つ。
柱の冨岡が直々に出向く任務は勿論、それ相応のものだ。
冨岡は怖くもなんともなかった。

名前の甘味を帯びたあの声がもう二度と「義勇さん」と呼んでくれないかもしれないと思うと、他に怖いもの等どこにも無かった。
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