指切りの記憶

「義勇さん私、鬼殺になりたいと思います。」

名前は冨岡に改まって向かい合いそう言った。
冨岡は少しだけ目を見開き名前をじっと見つめた。
名前の顔はいつも冨岡に向けられる綻ぶような笑みとは違い、きゅっと結ばれた唇、冨岡を捉えて離すまいと見つめる目、その目のなんと凛としたことか。
冨岡は見たことのない名前の表情に、その日初めて剣士としての顔を垣間見た。



「水柱様、どうぞようこそおいでくださいました。」

「ささ、どうぞ。すぐにお食事のご用意を致しますから。」

冨岡は任務の後鴉の鳴くままに藤の花の家紋を掲げる屋敷の敷居を跨いだ。
ここに世話になるのはもう片手では足りない数になっていた。藤の花の家紋を掲げる屋敷は各地に存在し、その規模は様々ではあったがここは一段と大きな屋敷で、聞くと歴史長い有名な旅館だと言う。何代も続く老舗らしく、その何代もが藤の花の家紋を掲げ続け今もなお鬼殺隊を支えんとしている。
冨岡自身何度もここに世話になるうちに居心地の良いものになり、特に世話になる必要がなくともたまに様子を伺う時もあった。

「これは、水柱様!お待ちしておりました。どうぞいつもの奥のお部屋へ。」

ここの主人も女将も人柄の良い、笑顔の眩しい人である。
生きていれば冨岡の親と同じくらいであろうか、何度か顔を出すうちに親と変わりないほどの世話を冨岡やいてくれるようになった。どんな隊士にも階級等分け隔てなく手厚くもてなす二人であったが、冨岡に対しては日頃の生活についてや巷の些細な世間話、出立する冨岡に作りおける簡単な食べ物を持たせたりと一等世話を焼いていた。
冨岡も勿論遠慮していた。初めは何度も断っていたがこの旅館である屋敷に世話になっている全ての人間の暖かい好意に驚くほど絆されているのが今である。
冨岡のことを知らない中居は居ない。料理番たちは冨岡の好物が鮭大根であることを皆知っている。
どんな藤の花の家紋を掲げる屋敷よりも、冨岡を大いに歓迎した。

「義勇さん!お勤めご苦労様です!」

「…名前」

「はい!名前です!」

冨岡を屋敷の皆が歓迎する理由はたくさんあれど、多くはこの幼さの残る主人の娘に由来した。名前、そう名付けられた末娘は鬼に襲われた時冨岡に命を救ってもらってからずっと冨岡を慕い、痛いほど純粋な恋心を冨岡に抱いていた。


この屋敷の世話になること二度目の夜の日のこと、冨岡は慌てる女中たちに「お嬢さんがお戻りにならないのです」と門をくぐって早々に駆け寄られた。
着いたばかりの水柱に失礼を働いてはならないと女将が女中たちを咎めたものの、女将も随分と心配している様子であったのを冨岡は何も言わずにただ聞き、見ていた。

「娘は、稀血なのです。夜道を歩かせたことなど勿論ほとんどありません。ましてや、一人なんて」

凛々しく女中たちを咎めた女将がそう言った。その仕草は娘をただ愛する母親以外にはなかった。冨岡は鬼殺である。悩む必要も勿論ない。俺が行こう、と一言女将たちに言いくぐったばかりの門を出た。女中たちがありがとうございますと頭を下げ名前の向かった場所、そこからの帰り道を聞いた。ただ帰りが遅くなっているだけならいい、ただ起こって欲しくはない、もしものことがあったときのことを考えると冨岡が出るのが最も相応しいと冨岡は当たり前に判断した。
冨岡はそのとき名前と知り合いではなかった。
鬼から人を助け、鬼を滅する、それが冨岡の使命であったから迷うことなど塵もなかったのだ。
予想していた最悪の事態になる寸前で冨岡は名前を助けることができた。ぼろぼろになって逃げ回った名前は立つこともままならず冨岡に背負われて屋敷に戻った。着く頃には疲れか安心感か、気絶するように名前は冨岡の背で寝ていた。
勿論、屋敷の者全員が冨岡に言葉にし難い気持ちで感謝した。
明くる日無事に目が覚めた名前が冨岡に自ら礼をするべく冨岡を訪ねた。冨岡は人を助け、鬼を倒す、それが鬼殺隊だとしか言わなかった。礼を言われるまでもないと深く感謝を述べる名前にさっぱりと言ってのけた。

名前は藤の花の家紋を掲げる家に生まれた末の娘である。
そのため、物心がつく前から鬼の存在を教えられ鬼殺隊の存在を学び鬼殺隊にどのように救われてきたのかを叩き込まれ鬼殺隊の人間を支えることがこの家に関わる人間の使命であると命じられてきた。
名前は自分の生まれをよく理解し家系の教えを十分果たしていた。藤の花の家紋を掲げることに責任を持っていた。よく働く姉に比べると名前は少しばかり病気がちであった。そのため旅館を営む両親の跡ではなく、鬼の居なくなるその日まで鬼殺隊を支える藤の花の家紋を掲げる家の跡を継ぐ娘として両親は名前に鬼のこと、鬼殺隊のことをよくよく聞かせたのだった。名前自身それに異論はなく、精一杯誇りを持って旅館の手伝いの最中精進していた。
名前は自身が鬼に襲われ、初めて本物の鬼を見て、死線を走った。そこを助けた冨岡に人生最大の感謝を抱くと共に救われた命をしっかり返していかねばならないと誓ったのだった。
名前は鬼殺隊の存在の大切さを身を持って知り、その日からより一層自身の使命への責任を果たそうとした。どうか屋敷に休みにきた剣士たちが無事であるようにと日々強く強く願った。
そうして鬼殺隊の剣士たちへの関心を深め距離を縮めていくと、自身の命を救った冨岡へ関心を持たないわけはなかった。より特別に冨岡に関わりを持とうとした。
冨岡が屋敷に来ることを前もって知ることなどほとんどないが、冨岡が来た日は必ず冨岡の元へ訪れ出来うること全てを尽くした。冨岡の好物を聞き出し、料理番に伝えたのも名前であったし、冨岡の滞在中は必ず名前が身の回りの世話をしたいと女中に言って回ったので女中の中に冨岡を知らないものは居なくなった。そして名前の命を助けた冨岡を、屋敷の人間は疑うことなく名前の言うとおり尽くした。

「…少しお話しませんか?あっでもでも、お疲れでしたら勿論戻ります!」

「構わない」

「!、ありがとうございます!」

名前は恩義として冨岡に精一杯のことをしてきたが、冨岡の足りない言葉を補うように冨岡の心中を察しようとし、そのほんの少しの仕草や声色や表情を汲み取り、たどたどしくも冨岡とやり取りをするうちに恩義だけでは到底計りきれないほどの気持ちを抱いていった。
冨岡にどうにか尽くそうと走り回り色んなことをしようとする名前を何度も気にかけ、名前の両親の他愛ない世間話にそっと耳を傾け小さく相槌を打つ姿や、女中の力仕事を横から貰い手伝う冨岡を名前は見逃すことはなかった。
生きていくのに苦労するのではないかと思うほど口下手な冨岡を誰よりも察することができるようになっていった名前はいつからか隠しきることなどできぬ程冨岡を好いていた。

その恋を自覚するよりも前から冨岡に恩返しがしたいと言い、冨岡について回っていた名前を冨岡は邪険にするわけでもなく、させたいようにしていた。というよりは、どうしていいか解らなかった。口数の少ない冨岡にニコニコと笑いかけ冨岡のためになりたいと言う名前は驚くほど素直で何度も何度もその素直さに心押され遠慮をするのも無駄であると気づいた。
富岡様と仲良くなりたいです、といきなり言った名前にそんな立派な敬称をつけられるような人間ではないと言う意味でその呼び方はよせ、と言った富岡を良いように解釈した名前は義勇さんと呼ぶようになり、色んな話をするようになった。
少しずつ少しずつ距離を縮めてきて、自分に驚くほど懐いている名前を冨岡も勿論気にかけた。そうして冨岡も名前に歩み寄るようになると命の恩人という関係は二人にとってはただのきっかけにすぎなくなった。名前が天真爛漫に思ったことを伝え、日々自分を大好きだと言うのを冨岡は穏やかに聞いていた。元々冨岡に対して好意しかなかった名前が冨岡に素直に言葉を使うのを冨岡は驚きもしなかった。
二人の関係の成長は屋敷の皆が見守っていた。
女中も、料理番も、女将も主人も。水柱という強く偉い人が名前と良い関係を築いていることを知っていた。

名前は藤の花の家紋を掲げる自分の屋敷で数々の鬼殺隊と関わり、鬼殺隊の身を案じていくうちに自分ももっと役に立ちたいと願わずに居られなかった。
藤の花の家紋を掲げるこの屋敷だけでもよかったが、冨岡に抱えきれぬ程の恋心を抱いてくうちに、もっと冨岡の相応しい人になりたいと、鬼殺隊に守られるばかりの弱い人で居続けたくはないと、一日でも早く鬼がこの世から居なくなるために何かしたいと考えるうちに、自分も鬼殺になれないかと考え始めた。
名前の家系は相当長く続く藤の花の家紋を掲げる家であり、鬼という存在が常に近くにあった。そのため、家系の中に鬼殺隊に入った者も多くいた。名前の祖父もそうだった。
どの時代にも苗字家に鬼殺になった人間が居たわけではなかったが、その事実が名前をより強く動かした。
自分にできるかどうかよりも、やってみなければ始まらないと確固たる決意を胸に両親に鬼殺になりたいと告げ、祖父を頼った。
苗字家は代々鬼殺隊に関わって生きてきた。鬼殺の剣士を支えることが主であったが、それ故苗字家から鬼殺を目指す者が出たとき、それを大いに尊重し、敬い、尽力してきた。
名前の体の作りは極端に弱くはなくとも、決して強くもない。しかし誰もその名前の決意に反対するものは居なかった。皆、素晴らしい志だとこの上なく尽力した。
祖父を頼り、必死に修行を詰み、ひたすらに鬼殺を目指した。
名前の祖父は水の呼吸を使う剣士であり、随分と前に引退していた。育手として剣士に修行を着けていたが、名前はどうしても水の呼吸を使いこなすことはできなかった。
だからと言って諦めることもせずただひたすらに修行を重ねる名前に、祖父は苗字家に生まれた何人かの稀血の子が使うことができた苗字家の人間にのみ使えてきたという呼吸法、星の呼吸を教えた。祖父は勿論使うことができなかったため、記録をただひたすら読み、実践し続けた。稀血である名前は祖父と試行錯誤し、独学で鍛練にも励みどうにかこれを会得し、最終選別を受けることを許された。


しかし、そんな名前に唯一反対したのが、冨岡であった。


冨岡が任務の後、名前の屋敷に世話になることになった日。
何度も世話になっていてもそう頻繁に訪れるわけではないこの屋敷に冨岡は久方ぶりにそれなりに慣れた部屋で名前にもてなされていた。
冨岡は知っていた。名前が鬼殺を目指し修行をしていたことを。名前が鬼殺になりたいと言い修行に祖父の元に出た後、屋敷を訪れても出てこない名前を不思議に思っていたとき名前を可愛がる女中たちに聞いたのだ。
主人も女将も立派な志だと誇らしげに語ってくれた。
冨岡はそれに異論はなかった。ここまで鬼殺隊に尽くした名前がもっと何かやれることをやりたいと自らこの道を選ばんと修行を詰んでいる、なんと立派な人間なのだと勿論思った。
しかしそれと、これとは話が違った。

冨岡は名前に、鬼殺をさせたくはなかった。
あの夜、一人で死線を逃げ回り冨岡に助けられた名前の怯えた顔も、生きていることに泣いた顔も、安心感からか気絶するように寝た顔も、忘れることはできなかったのだ。細い腕で自分にしがみつき、声をあげて泣いた名前の小さな手もか弱い声も、会うたび陽向のような笑顔を見せる名前が側に居続けるほど冨岡に染み付いてしまったのだ。
自分に惜しみ無く向けられる暖かな笑顔をどうか護りたいと思っていたのだ。この屋敷に住む人間皆の穏やかな日常がここにあり続けるようにと願って止まなかったのだ。
だから冨岡はどうしても、名前に鬼殺をさせたくはなかった。

名前が修行に出てからも冨岡は何度か屋敷に世話になっていた。その度名前が戻ってきていないことを知らされていた。あきらめてくれれば一番いいと思っていた。考え直してくれはしないかと思っていた。次名前に会うときは考え直し鬼殺になることを諦めているか、それとも鬼殺になると告げられるかのどちらかだと冨岡は悟っていた。
その日が遂に来てしまったのだ。
冨岡の部屋に名前が、以前と変わらぬ仕草のまま茶を運びに来た。
少し背が伸び、髪は以前より少しだけ短くなっていた。茶を運ぶ盆を支える手のひらは傷まみれであった。

「お久しぶりです!義勇さん!」

「…ああ」

「ふふふ、実はとっても美味しいお茶が入ったんです!美味しい淹れかたを教わったので、是非飲んでもらいたくって」

名前は久しぶりの再会を目に見えて喜んでいた。冨岡が護らんとする笑顔で甘えたような声で冨岡に必死に言葉を紡ぐ。
見た目に変化が少しあれど、冨岡に対する名前は何一つ変わらなかった。冨岡と目があうと頬をより緩めて笑って、少し赤くなるのも、何も。
名前は冨岡の話をたくさん聞きたがった。最近食べた美味しいもの、最近見た綺麗なもの、初めて行った場所、さっき両親と何を話していたのか、まるで会うことができなかった分を埋めるように。
冨岡はそれに応えた。それと同時にどうか、諦めてしまったのだと言ってくれと願った。
何も変わらないこの暖かな彼女に至極安心しつつ、この変化のなさにもしかしたら願っていた結果なのではないかと期待もした。
目の前で冨岡の言葉に目を細めて笑い、耳を傾ける名前の気が済むまで、話し、願い、期待した。

「義勇さん」

「…なんだ」

冨岡は次はなんだと名前からかけられる質問に構えるように一度茶をすすりその湯飲みを元の場所に戻した。
すると名前は冨岡に改まって向かい合った。

「義勇さん私、鬼殺になりたいと思います。」

冨岡は絶句した。
思わず少し目を見開き、ただ名前を見つめた。
その見つめた顔の凛としたことたるや。
名前は変わっていなかった。冨岡を思う痛いほどの恋心も、冨岡に向ける甘さを秘めた眼差しも、溢れる言葉を冨岡に伝えてしまう素直さも。会えぬ間もずっと変わらなかったのだ。
だから冨岡は勘違いしたのだ。もう鬼殺になりたいという志を改めたと。
そうではなかった。名前は変わってしまっていた。
立派な、一人の剣士に。
冨岡は凛とした眼差しに、少女以外のものを感じずにはいられなかった。知らしめられたのだ、名前の決意を、必死の修行と苦悩の連鎖を。
鬼に襲われしがみついてきたあの夜の護られていた名前からはとても想像できない顔をしていた。
冨岡は名前の、剣士としての顔を初めて垣間見た。

「義勇さん、私今日まで死に物狂いで頑張りました。やっと、義勇さんに言うことができました。次の最終選別を受けます。」

「…考え直す気はないのか」

「ありません」

ぴしゃりと言ってのける名前に冨岡は目を細め眉をひそめた。
名前は決意を胸に冨岡をじっと見つめ続けた。

「義勇さんにはまだまだ及びません。それは確かです。それでも、やっと私も誰かを守る力を付けることができました。義勇さん、私も一日でも早く鬼の居ない世界を見たいと思います。そのために命をかける皆さんをずっと見てきました。だから私も戦いたいと思います。」

冨岡も名前も決してお互いから目を離すことはしなかった。
いつもふわふわと話す名前の声が殴り付けるように冨岡に響いた。
冨岡はただ、ただ名前の決意を聞くだけだった。
名前は一度大きく息を吸って吐いた。

「義勇さん、私は鬼殺の剣士になります。必ず。」

名前はぎゅっと手のひらを強く膝の上で握った。
ぴんとはった背筋が強ばる。冨岡から視線を離さず、冨岡の表情、仕草、声色をいつものように丁寧に見て、冨岡の言葉を汲み取ろうとしていた。
冨岡は名前の言葉に微動だにしなかった。
他の音など耳に入らない。名前の言葉が反響して冨岡を揺らす。冨岡はすっと息を吸った。

「必ず、帰ってこい。いつ、どこに行っても、必ず。約束ができないのなら最終選別には絶対に行かせない。」

富岡もまた、名前の見たことのない顔をしていた。
穏やかな表情で、何を考えているかわからないと言われがちな富岡だが微々たる差を汲み取ってきた名前にはここまで表情が大きく出る富岡に驚いてしまった。
肯定の返事しか認められない、否定を許さない顔。
水柱として数々の場を乗り替え幾多の苦戦を生き抜いてきた富岡の鋭い視線が名前を穿った。
握りしめていた拳をさらに強く握って名前はその視線を返すように見つめ言う。

「必ず、帰ります。だから!私の帰る場所として生きてください!約束、してください!」

名前は勢いよく富岡に右手小指を差し出した。
富岡は驚いたのかまた目を見開きじっとその小指を見つめた。
なかなか動かない富岡に痺れを切らした名前は指切り!と一言言い、さらに手を富岡に近づけた。
富岡は表情を崩し一度軽くうつむき手を口に添え笑った。

「ふ、はは、……お前は、本当に」

笑う富岡に名前が今度は驚く番だった。
富岡をさらに凝視し、義勇さんが笑った、とただその仕草を笑い声を一心に受け止めた。
富岡は顔を上げていつもの穏やかな表情で名前の小指に自分の小指を絡めた。

「指切り、だ」

「……はい!指切り、約束です!」



そうして名前は最終選別に見事炭治郎たちと生き残り鬼殺隊に入り剣士になった。
少し病気がちであった体も鍛練を詰むごとに強くなり、必死で会得した星の呼吸をも我が物とし実力を伸ばし恋柱の継子としてなおも鍛練を詰む。
どの任務へ赴こうと、必ず帰るという約束を1日たりとも忘れずに。
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