あのね、

「はい、いいですよ。お薬を用意してお持ちしますから、ちゃんと飲んでくださいね」

「はい…ごめんなさい…」

「どんなに鍛えたとて、私たちも人ですから。体調を崩すこともありますよ」

しのぶさんの声がとっても優しくてぼーっとした頭にじんわりと沁みた。
私は蝶屋敷の寝台に深く布団を被って寝ていた。一昨日、大雨に降られて不死川さんに送ってもらったあと、風邪を引かないようにと言われたのにも関わらずど派手に体調を崩してしまった。
情けない。日頃あれだけ鍛練していたのに、体調の管理もできないだなんて。怪我ならまだしも、風邪をこじらせるだなんて。
鬼殺になって、こんなに熱を出したのは初めてだった。鬼殺になる前は人より少しだけ風邪を引きがちだったのもあるけど当たり前に季節の変わり目には体調を崩したりしていたとは言え、まさか、雨に濡れてここまで悪化するなんて。
まだまだ未熟者だと感じざるをえなかった。ほんと、情けなさで涙が出そうだった。

「今はとにかく、ゆっくり休んでくださいね。貴方が慕う先生も、大変心配されてましたし。」

「はい…」

蟲柱の胡蝶しのぶさんはそう言うとお大事に、と一言かけて部屋を出ていかれた。
ぼんやりと天井を見上げて今日ここにくるまでのことを思い出した。
朝先生の声で目が覚めて、目を開けると心配そうな顔をした先生が見えた。先生が私の額に手をあてていけないわ、と一言言って鴉を飛ばしていたことだけはしっかり覚えている。そこからのことは曖昧で、しのぶさんに大丈夫とはとても言えませんね、と困ったように微笑まれたことしか覚えていない。
熱い、けど寒い。喉を通る息がひゅうひゅうと音を鳴らしている。
もう目を開けているのもじんわりと熱くてしんどくて自然と瞼が降りていった。




夢を、見た。

実に見慣れた景色だけれど、もうしばらく見ていないこの景色。通いなれていた私の家と、馴染みの街を繋ぐ道。
忘れもしない、あの日の景色と同じ。
その日も雨が降っていて、雨宿りしていたら陽が落ちてしまい暗くなった帰路を少しだけ急ぎ足で帰っていた。
その日私は初めて、鬼に会った。



「この匂いは、お前だな」

急ぎ足の私に届く声に身震いをした。振り返ってはいけないと本能が告げた。そのときの私には、何もわからなかった。その声の主がなんなのか、どうして私に声をかけたのか、何も。
ただ、逃げなければならない、足を止めてはならないと、そう思った。
何もわからないのに、とても怖くて、怖くて。私は夢中で走り出した。
走れ、逃げろ、振り返ってはならない、どうにか声を振り切れと。
それが鬼であることは知らずに。

「お前、稀血だな。俺は運がいい。ご馳走だ。」

お前、稀血、ご馳走。私の耳にしかと届いたその声に絶望した。形振り構わず走っているのに、その声は少しも離れず付いてきていると確信させた。
何を言われているのかわからない。でも私はきっと、殺されるのだと悟れた。
鬼だ。
お婆様や、お父さんからは特に、痛いくらい聞かされていた、鬼だ。私の後ろに居るのは、鬼なんだと私は無我夢中で走りながら声の正体の答えを導き出していた。
こんなに走ったことはない。息を出来ているのかわからない。足の感覚がおかしくなってきて、どう走っているのかもあやふやになってきた。
それでも私の後ろにぴったりと張り付いている鬼の気配だけがどんどん色濃くなって、私に迫った。
恐怖と走り続ける疲労とこの状況を打開するために必死で働かせる脳ミソとが空回りして涙が止まらなかった。
逃げろ、とにかく、振り切って助けを呼ばないとならない。
朝まで逃げ続けることは私の体力を鑑みても不可能だ。朝まで随分と時間がある。
助けを、呼ばなければ。でも、誰に?
誰に助けて貰えばいい、誰ならこの鬼を倒せるのか。巻き込んで誰かも死んでしまったら、私はどうしたらいいのか。
考えろ、考えろ、考えろ。

どれだけ考えたって、答えは見つけられなかった。
縺れそうな足をただ命の叫ぶままに動かした。

「もういいかい?鬼ごっこには飽きたんだ」

そう聞こえた瞬間私の足が何かに引っ張られ倒れこむように転んだ。動きを止められた足は膝が震えて痛かった。
私はそこで初めて、鬼を見た。
人と同じように二本の足で立って、私よりも随分と大きな体を持っていた。大きな目が私を捉えていて、大きな牙を隠さず口を大きくあけて笑っていた。全身が震えた。

「稀血がこんなところに転がっているなんて、いい夜だなあ」

頭が真っ白になった。もうダメだと、思わずにはいられなかった。引っ張られた足をずるずると引きずられどう抵抗しようにも力では勝つことができなかった。食われる。そう覚悟した。
それでも私は決死の覚悟で、ただ一言。

「誰か、助けて…っ」

そう泣いたあと、風のように一瞬何かが通り抜けて、私の足を掴んでいた鬼の手が凪ぎ払われた。
私の足に突然血が通いじんわりと熱を持った。何が起こったのかわからなかった。手を落とされた鬼が大きな声で唸りを上げ、体が跳び跳ねるほど驚いた。
地べたに転がる私の側に、誰かが舞い降りるように現れた。

「よく頑張った。」

月明かりの逆光で一瞬眩んだ焦点を合わせると男の人が私を見ていた。抱き起こされ、まじまじと見つめる私に一言「もう大丈夫だ」と言った。わけもわからず私は頷いた。
頷いた私を見てその人は立ち上がり、刀を抜いて、激情する鬼に対峙した。
向かってくる鬼が何を言っているのか、私には聞き取れなかった。

「水の呼吸、肆ノ型」

変わった羽織を着たその人は呪文のように何か唱えて、まるで水が流れ落ちるように鬼の首を落とした。
鬼はそのあと、灰になってしまったようにさらさらと消えて、風に流れていってしまった。
抱き起こされ、座り込んだままの私に羽織の人が近寄って目線を合わせて言った。

「怪我は。」

怪我は、擦り傷がいくつか、それから少しの打撲。
足も手も動く。匂いも色もわかる。
私は生きている。
私は答えるよりも先に、我を忘れてその人に飛び付いてわんわん泣いた。怖かった。食べられてしまうと思った。
その人は声をあげて泣く私の背中をぽんぽんと叩いて撫でてくれた。

義勇さんだ。
私はその日、鬼に初めて会い、義勇さんに救われたのだ。

そのあと義勇さんは、立つこともままならない私を抱えて家まで連れ帰ってくれた。
あの日から、私はずっと義勇さんのことを1日足りとも忘れずに生きている。
今も、こうして。




懐かしい夢だった。私が鬼殺になることを決める少しだけ前の記憶。
雨に打たれたからか、熱を出したからか、怖い夢を見てしまった。
胸の内が苦しい。あれより怖い思いはもう御免だと思った。

「起きたか」

まだふわふわとする頭にそっと滑り込むように私に向かって声が降りかかった。
これも夢かもしれない。そっと声の方を見ると義勇さんが私を見ていた。

「ぎゆ、うさん…?」

「ああ」

義勇さんだ。
目を覚ました私に向かって手を伸ばして前髪を退けるように義勇さんの手が額に触れた。冷たくて気持ちがいい。夢じゃない。義勇さんだ。

「…熱が高いな。随分、うなされていた。」

「…夢を、見たんです、義勇さんに助けてもらえた夜の、夢を」

汗でこめかみから頬に張り付いた髪を義勇さんが払う。
その手をそっと両手で掴んで、その冷たさと感触を噛み締めるようにすり寄った。熱のせいか、夢のせいか、やっと生きた心地がした。
義勇さんの手にすり寄る私の頬を、義勇さんの親指がそっと撫でた。
少しだけ、瞼の奥がじんわりと熱くなって涙が出そうになった。

「義勇さん、大好きです」

「…そうか」

「あの夜から、ずっと、ずっと」

「…ああ」

「義勇さん、あのね」

両手で捕らえた義勇さんの手を、力が入らない手できゅっと握った。涙で潤む視界でも、義勇さんの輪郭だけは浮いて見える。
一週間、やっと一週間経ったんですね。いろんな事があったんですよ。全部話したいな。義勇さんのお話も聞かせてほしいな。お怪我はないですか。ここに居るってことは、何かあったんですか。絶対怪我しないでくださいって、私言ったのに。私、義勇さんのことずっと考えちゃうんです。いつも、どこでも、気になってしまって。だから、

「どうか、ずっと、お側に置いてください」

目を開けている力が抜けて瞼が降りるのに合わせて溢れた涙が伝う感触だけがわかった。
言いたいことはたくさんあった、けれど出てきた言葉はたったそれだけだった。




「お前が、それを望むなら、」

私が名前さんの様子を見に行くと数刻前に名前さんの具合を聞きにやってきた冨岡さんが名前さんの寝る寝台の側に座っていた。
一部始終を聞いていたわけじゃない私は冨岡さんが何を言っているのかはわからなかった。

「もしもし、冨岡さん。名前さんの薬を調合したのでお届けに来ましたよ。」

「ああ、悪い」

「名前さん、起きたんですか?」

「…ああ、少しだけ」

「そうですか。まだ絶対安静ですから、起こしたりしないでくださいね」

名前さんの寝台の側の机に、彼女が起きたときすぐに飲めるように水と一緒に薬を置く。
冨岡さんが大好きな女の子、元気でとっても天真爛漫な、健気な子。
その子を見つめる冨岡さんの背中は随分と心配そうに見えた。
勿論、私にはそう見えただけですけれど。

「起きたらお薬を飲ませてあげてください。任務のあとでお疲れでしょうけれど、病人はとても心が弱りますから。もし無理でなければ側に居てあげてください。」

「ああ」

彼女もその方がきっと早くよくなるでしょうから。
私は彼女の熱だけ測ってまた部屋を出た。
いつも冨岡さんを追いかけているあの子のこと、もう少し大事にして差し上げたらいいのにと思っていたんですけれど。
どうやら私のいらぬ世話だったみたいですね。
どうか、お大事に。

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