フォーゲット・ミー・ノット



 胸に穴が空いたなんてもんじゃなかった。心臓丸ごと引きちぎられたみてえな気分だった。何度も味わった苦しみ、後悔、絶望すらも比にならなかった。

『本気だよ』
『嘘じゃない』
『別れよう』

 あの声が、言葉が頭の中で反響してまるで昨日のことみてえに思い出す。夢なら良かったのに、夢であってくれと祈り願えば願うほど、手からすり抜けていったものはあまりにも大きなものだったと俺に知らしめてくる。
 俺に悪い所があったなら全部なおすからと格好がつかないほど縋りついた俺を、アイツはたった一言「他に好きな人ができちゃった」と言う言葉だけで地の底まで突き落とした。
 誰だよそいつ、そいつにお前の何が分かるっていうんだ。そう言ってまくし立ててしまいたかった。でも多分、アイツのことをわかっている気になっていたのも俺で、住む場所や生活が変わった中で、アイツの変化に気づけもしなかったのも俺で。俺じゃない誰かを好きになってしまったと言われれば最後、わかったと彼女の選択を受け入れるしかなかった。
 どうやら俺は、いつの間にか永遠を勝手に信じ込んで居たらしい。手離す未来を何一つ想像していなかった。一生傍に居ると勝手に思い込んでいた。
 俺以外の誰かを好きになる、アイツのことなんか考えたこともなかった。





「ショートくん、あんまり根詰めると身体に良くないよ」
「……大丈夫です」

 俺の日常からアイツが消えても俺の生活は変わらなかったのに、俺の内側からはどうやっても消えてくれなかったせいで、身体が重くて自分の機嫌も持ち上がらない。まるで重りのついた枷が身体中に繋がれているようだった。これまでだって同じように任務に就いて人を助けて、へとへとになるまで動き回ってたのに、そういう疲れとは別の重みだった。
 ずっと、一番に俺を応援してくれてた人が、俺はもう一番じゃないと言った。それがどんなに残酷なことか身をもって知った。アイツを思えば乗り越えられた。アイツが心配してくれるからもっと強くなろうと思えた。アイツがすごいと褒めてくれるから疲れなんかどうでもよくなった。アイツを、はやく迎えに行きたかったから頑張れた。はやく独立して事務所を持って、胸張ってアイツを迎えに行こうと思ってた。アイツが俺に託した分、俺の一番近くで見ててもらおうと思っていた。なのにどうだ、失う時は一瞬だった。
 今まで以上に出動要請には積極的に手を挙げて、依頼は一切断らなかった。与えられた以上のものをこなしていけば、いつも頭の中に最優先事項があった。休息を挟むと嫌でも思い出したから、最低限仕事に影響の出ない範囲の休息以外は捨てた。一息つけるとき、それはアイツと唯一繋がれる時間だったから。今の俺には必要最低限以上の休息は余計な時間だった。俺はまだ、アイツのことが好きだった。
 最後に声を聞いたあの日からもう一ヶ月が過ぎていた。もうそんなに、とカレンダーを見て自分で驚いたりした。時間に流されるように生きていたら、日付なんかどうでもよくなってくる。
 頼むから、時間が解決してくれよ。こんなに色濃く脳裏に残る彼女の残像を、俺独りじゃ消せやしねえ。思い出せなくなるまで時間が早く過ぎちまえとすら思っていた。
 これっぽっちも忘れられる気がしねえ。好きなやつのこと、どうやったら嫌いになれんのかもわかんねえ。好きなやつのこと、諦めるなんて出来たりすんのか。そんな疑問を抱えていながら、未だにスマホのホーム画面に設定してある彼女の写真を変えてすらいない俺は多分、忘れるつもりなんかひとつも無いんだろう。
 任務の引き継ぎを読みながらぼんやりとしているとバーニンがここら最近、ずっと口癖のように言ってくる言葉を今日も繰り出してきた。その言葉にいつも通りの返事を返せば、これも聞き飽きたため息が返ってくる。

「護衛任務もあと半月だっけ? 無理せず、周りに声掛けて休む時はちゃんと休みな」
「……はい、ありがとうございます」

 彼女と別れて数日後に入った長期任務に俺は出ずっぱりだった。著名人を護衛するシンプルな任務だった。今のところ命に関わりそうなトラブルも無ければ、個性を必要とする現場になることもなかった。あと二週間ほどで終えるこの任務は予定通り平和に終えることができると思う。

「しっかし、映画の撮影に護衛ねえ。ちょっと仰々しいね」
「まあ、確かに」

 護衛対象は最近流行りのアイドルらしく、初主演の映画を撮影する間、ほとんど付きっきりで安全を確保するのが俺の役目だった。名前も顔も初めて知ったその人は過激なファンに最近四苦八苦しているらしかった。俺に名指しでこの依頼がきたのは、昔俺が彼女を助けたことがあるかららしい。正直いつの事か全然思い出せなかったが、断る理由は俺には無くてこの一ヶ月間撮影を見守っていた。

「ま、とりあえず今日はもう上がりな。せっかくのオフだったっていうのにわざわざ事務所まで来て出動要請に応じるなんて」
「……とくに、予定無かったんで」
「明日も撮影同行しなきゃなんないなら、ホラ帰った帰った!」

 バーニンはそう言って俺の肩を叩いた。帰るには予定よりまだ早い。まだ残ると言い返そうとすると「たまには友達となんか食べて英気を養って来な!」と強く背中を叩かれた。事務所から押し出され、渋々とコスチュームを脱いで帰宅することを選んだ。
 いつの間にか吐く息が白くなった。一歩外に出れば室内との寒暖差に身震いがするくらいになっていた。街ゆく人がマフラーを巻いているのが目について、そろそろ出しておくかと頭の中でしまいこんだ場所を思い返せば、愛用しているマフラーがアイツからのプレゼントだったことを思い出す。
 使ってもいいのかわからない。捨てる気なんかさらさらねえけど、アイツは嫌がるだろうか。貰ったモンだ。もう俺のものだけど、未練がましく引きずっていることを知られたら、友達にすら戻れないような気がする。
 別れてしまった俺たちを、正しく形容する関係性がわからない。元恋人ってつまりなんなんだ。友達に戻っただけなのか? 元恋人は友達より上なのか? それとも下なのか? 俺は今、アイツにとってどんな間柄の人間に位置するんだ。元恋人は連絡していいのか、会っていいのか、話していいのか。わかっていることは、俺はもうアイツに触れられる特別じゃなくなったことだけだった。

「……帰るか」

 コスチュームを脱いだ途端これだ。何を思っても終着する場所にはアイツの影がチラついて、結局アイツで頭がいっぱいになる。
 事務所を背に、目立つ頭に帽子を被って帰り道を行く。何か腹にいれるにもまだ時間が早いか。なら帰って寝ちまうか。

「ま、待って待って! 轟くん!?」
「お、っあぶねえ……、み、どりや、か?」
「やっぱり!」

 聞きなれた声と同時に後ろから俺の服が力強く勢いよく引っ張られて思わず体制を崩しかける。声だけで誰か察しながらも、力の方向に振り返って正体を問えば、デカいパーカーのフードを深めに被って眼鏡をかけた緑谷が居た。走ってきたのか、肩で息をする緑谷は立ち止まった俺のそばで呼吸を整えようと膝に手を着いた。

「……どうしたんだ、こんなとこで会うなんて珍しいな」
「そ、そうかな……? や、まあ確かにいつもはヒーロー活動中だしね……じゃ、なくて! 君に会いに事務所へお邪魔したんだけど、丁度君が帰った所だって聞いたから慌てて……」
「? 俺に会いに……? 用事があったなら連絡してくれれば……」

 緑谷は俺の言葉に眉を下げて笑いながら「実は今日何時までかかるか分からなかったから、終わったら一か八か行ってみようと思って……」と言った。どうやら仕事終わりらしい。俺が緑谷に「今日は連絡してくれれば俺が出向けたぞ」と言えば「昨日突然決めたから……」と緑谷はバツが悪そうに頭をいた。

「急ぎの用事か?」
「いや、うーん、まあ。早ければ早い方がいいかもしれないけど、そういうわけじゃないよ」
「……全然わかんねえ、何だ? 何かあったのか?」
「何かあったのは僕じゃないんだけど……えーっと、ご飯! そうご飯行かない!?」
「お、おお……?」

 緑谷は俺の両肩を掴んでどこか食い気味にそう言った。




 緑谷に誘われるまま、前に俺と緑谷と飯田の三人で食事をしたことがある店に移動した。道中、緑谷に「他のA組の人も呼んでいいかな?」と聞かれ、了承すれば声をかけたのは麗日と上鳴らしい。どういう組み合わせだと一瞬考えたものの、別にA組の誰が来ても変な話じゃないかと深くは考えなかった。

「麗日さん、今から向かうって。上鳴くんは今日夜勤みたいでダメだった」
「そうか」
「先に何か食べとこっか!」

 緑谷がメニューに手を伸ばす。前にここに来た時は和食を好む俺に合わせて飯田が探してくれたんだったか。創作料理が美味しかったのを思い出して二人でいくつか注文する。「轟くん前これ美味しいって言ってたよね!」とメニューを指さす緑谷に、「よく覚えてるな」と返す。プロになって成人して、足を運ぶ店が変わったものの、俺たちの関係は変わり無かった。変わったのは俺たちと世間の関係性で、俺たちを見て他の人に見られない個室に通されることが多くなったり、予め個室の店を選んだりするようになったのには漸く慣れてきた所だった。

「そう言えば轟くん、見たよ巨大広告!」
「お。そうか、早えな」
「雑誌の表紙に巨大広告に、本当にすごいよね!」
「そうか……?」

 席について最初に運ばれた茶に口をつける。熱めのそれは俺好みだった。明日は全員仕事があるからアルコールは控えておこうと決めて「かわりにたくさん食べよう!」と緑谷は意気込んでいた。
 緑谷の口からポンポンと飛び出す俺の最近のヒーロー活動の話はどれも「そういえば引き受けたな」と思い出させる内容で、俺が受けた仕事なのに緑谷の方が詳しかった。

「ごめんお待たせ!」
「お」
「麗日さん!」

 しばらく話し込んでいれば前触れもなく個室の戸が開いて、そこから顔を覗かせたのは急いで来たらしい麗日だった。麗日が「慌てすぎて間違えて二つ手前の席の扉開けちゃった」と恥ずかしそうに言いながら緑谷の隣に席ついた。
 緑谷は麗日にメニューを手渡しながら「来てくれてありがとう」と言った。麗日は「都合がついてホンマ良かった〜」と安心した顔をしていた。
 麗日の到着と同時に運ばれ出してきた皿に三人で箸をつけていく。麗日は「何コレ! めっちゃ美味しいんやけど!」と大騒ぎでこの店を気に入ったようだった。



「……なあ、緑谷」
「ん?」
「結局、何の用だったんだ?」

 何度か追加注文しつつも平らげられていく皿を重ねながら緑谷に問う。緑谷はわかりやすく動揺して口に入れていたものを音を立てて飲み込んだ。

「……えーと」
「何かあったんじゃねえのか」

 緑谷に聞いたのに、どういうわけか隣に座る麗日も動揺が顔に出ていた。様子を見るに、緑谷が麗日を呼んだのは緑谷の用事は麗日も関係しているんだろう。
 俺は冷めた茶を一口飲んで二人の言葉を待った。

「……正直、いつ聞こうか迷ってたんやけど……」
「……タイミング、悩んじゃってた。ごめん轟くん、急に連れ出して」
「別に構わねえけど……なんだ二人揃って」

 二人が箸を置いて居直す。何を改まって話すつもりなんだと不思議に思って首を傾げた。

「……轟くんと別れたって、聞いたんだ」

 一瞬時が止まったみてえだった。他の音が耳に入らなくなって、緑谷の声だけが響いた。目を見開いて見つめた緑谷の表情は真剣そのもので、真っ直ぐな眼差しに見透かされているようだった。

「……聞いた、のか」
「……うん。一昨日、僕らが参加してたイベントに来てくれてて、それで……」
「そ、うか……全部、知ってんのか」
「……彼女に、好きな人が出来たってことだけ。それ以外は何にも」

 緑谷に会って一時的に考えることを止められたのに、思いがけない本題に頭が痛くなってきた。
 いずれ、このまま黙っていたって誰かには知られていく。俺たちが付き合ってることを知ってた奴らに、別れたことを隠していくことは無理があるし、嘘をつくわけにもいかない。俺が言わなくてもアイツが言えば、人伝に知られていくのはわかってた。わかっていたのに、他の誰かから聞く俺たちの話は想像以上に堪えるものがあった。

「……轟くん、最近ずっと疲れてるように見えてたし、なんか切羽詰まった感じだったから、何かあったのかなとは思ってたんだけど……どうして、教えてくれなかったの」

 周りの人に心配されることが増えた。たまに顔を合わせる緑谷にも何度かちゃんと休めているのかと聞かれたことを思い出す。我ながらまあ確かに、分かりやすかったかもなと思う。他に方法なんか無かったから後悔は無いものの、どんな風に振舞ったって結果がこうなるのは分かりきったことだった。

「……言いたく、無かった」
「どうして?」
「……言ったら、本当に俺のもんじゃなくなってく、から」

 緑谷の視線に耐えられなくなって目を逸らした。遠慮なく踏み込んでくる緑谷の言葉に声を絞り出す。

「……俺と別れたって皆が知ったら、皆、アイツに手出すかもしれねえ」
「……彼女、可愛いもんね」
「……俺と別れたって、皆が知ったら……皆、アイツのこと応援するだろ。俺じゃない誰かと付き合うのを、祝うだろ……!」

 自然と声に力がこもっていった。無意識に握りしめた手は赤くなっていってそこに血が通っていることを表していた。
 初めて声に出した気持ちはまるでダムが決壊するみたいに溢れ出した。全部不確定の未来を想像しただけに過ぎないのに、その想像に殺されそうな程俺の胸のあたりが締め付けられる。

「……轟くん……」
「……悪い、まだ整理できてねえんだ。迷惑かけたり、しねえから」

 緑谷の心配そうな声はちゃんと俺の耳に届いた。
 アイツがもう、他の誰かに俺たちのことを話している事実が全部本当に終わってしまったんだと俺に分からせようとする。もう皆知ってるかもしれねえ。俺が頑なに言わなかったことをもう皆知っていて、次に向かうアイツの背中を押そうとしてるかもしれない。俺だけ、俺だけが何処にも行けず、どこにも進めず、ただひたらすらに出来ることなら全部が夢であってくれと縋り付き続けていた。アイツはもう、俺との終わりを誰かに報せているというのに。

「……轟くんは、このままでいいん?」
「良いも悪いも、……他に好きな奴が出来たって言われたら、もう仕方ないだろ」

 電話で何度も引き止めた。考え直して欲しいって、俺が悪かったなら全部なおすって。でもアイツが別れを切り出した理由は俺じゃなかった。だからもう、どうすることも出来なかった。俺はただ、どうにか「わかった」と返すことしかできなかった。俺にはもう取り付く島がなかった。

「……ほんまに、轟くん以外に好きな人なんかできたんやろか」
「……は?」
「他に好きな人なんか、ほんまにおるんかな」

 麗日の言葉に顔をあげる。麗日も真っ直ぐに俺を見ていた。その表情はどこか寂しそうに見えた。

「轟くんに恋をしてた頃よりもずっと、ずっと辛そうに見えた」
「……どういう意味だ」
「好きな人の、轟くんの話をするときはいつも、付き合う前も、付き合った後も、めちゃくちゃ幸せそうに話してたのに、この間は全然違うかった……!」

 麗日は俺に向かって必死に語りかける。浴びせられるように俺に向けられた言葉を理解するのに呼吸が止まる。俺の知らない話が飛び出してきて、真相を確かめる術は無いのに、目の前に居る同級生が俺に嘘をつくわけがないとこれまでの付き合いが証明していて、事実として叩きつけられていく。

「あんなに沢山轟くんの好きなところを教えてくれたのに、どんな人なんって聞いたら、無理やり笑ってただ素敵な人としか教えてくれんかった」
「……」
「ほんまに、それが理由なんかな。轟くんより好きな人なんか、ほんまにおんのかな」

 麗日の言葉全部が俺に都合よく聞こえてくる。目頭が熱くなるのがわかって、眉間に力が入る。

「……ごめん。僕たちが首を突っ込むのはお門違いかもしれないけど、彼女の様子を見て放って置けなかったんだ。もしかしたら、本当に彼女には別に好きな人が出来たのかもしれないけど……」
「……」
「もう一度、ちゃんと話した方がいいんじゃないかな……」

 静まり返る個室の中で、俺の心臓だけは確かに音を立てていた。頭の中がぐちゃぐちゃで言葉が出てこない。都合よく聞こえてしまう二人の言葉に期待をする自分と、真に受けて痛い目を見ることになるのが怖い自分が居た。

「まだ好きだって、伝えることは悪いことじゃないと思う」
「……麗日」
「まだ納得せんくてもいいと思う。好きだって思うことをまだ我慢しなくてもいいと思う」
「……そう、なのか」
「もし! 本当に他に好きな人がおるんやったら、どこが轟くんよりも好きなのか、いっぱい聞いてもいいと思う。そしたらちゃんと飲み込めるかもしれへんし……もう一回、振り向いて貰えるように頑張るのも、ダメなことじゃないと思う」
「……そう、か」
「……私には、二人とも何にも終わってないように見えた、から」

 俺を見ていた麗日は言葉をしりすぼみにして悲しそうに眉をひそめたあと「ってこんな分かったようなこと言ってるけど何事も限度はある、と思うけど……!」と誤魔化すように大きく手と頭を振った。
 どんな顔をしてたのか、俺は知らなかった。通話越しに聞いた声ははっきり思い出せるけど通話越しじゃ見ることが出来なかった、あの瞬間のアイツの表情を俺は知らない。緑谷や麗日の言うアイツの様子はなかなか想像できなかった。
 いつもニコニコ笑ってて、前向きなアイツが辛そうな顔をしていたなんて。それが罪悪感からくるものなのか、それとも別の理由なのか、俺が考えたってわからないけど、こんな大事な話を電話で済ませるべきじゃなかったんだ。俺が彼女のことを諦めなきゃならないとしても、諦められるだけの理由が欲しい。あわよくば、諦めないことを許されたかった。

「……悪い、二人とも。……ありがとう」

 あと一度くらい、チャンスを強請ってもいいなら、それに縋りてえ。まだこんなに好きなのに、いきなり俺の心ごと手放すなんて無理だ。

「会って、話してみる」

 二人の言葉に背中を押されて飛び出した言葉は決意だった。







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