七分四十八秒のグッバイ
「身体には気をつけて、ね」
震える手から伝わるスマートフォンの機械的な熱はじんわりと指先を解すようだった。もうすぐこの通話も終わりを迎える。それと同時に私たちにも終わりが訪れる。通話の向こうに居る彼が私の言葉に遅れて反応して「ああ」とただ一言返した。その声はどことなく傷ついて聞こえた。
「……じゃあ、」
またね、と言いかけてぐっと飲み込んだ。一体どの口が次を願うんだ。彼の言葉を待たずに、耳元からスマートフォンを離して親指でワンタップすれば簡単に液晶には通話終了と表示される。七分四十八秒。長く思えた通話時間は数字にすればたったのそれだけで、この八分弱で私たちはさよならを手繰り寄せた。
少しずつ寒さが際立ちだした、眩いばかりだった高校時代から季節はこの冬を乗り越えれば丸三周目を迎える。
この日私たちは破局した。未練なんてものに後ろ髪を引かれながら、別れを切り出したのは私だった。
「お疲れ様でーす!」
「お疲れ様〜 気をつけて帰ってね〜!」
「はーい!」
安定と充実、どちらもそれなりに手に入れていたと思う。思い描いていた未来とは逸れてしまったけれど、自分に出来ることは精一杯こなして周りの人達からの信頼を感じられるくらいになった。同級生たちがプロヒーローとして活躍するのを目にしながら、私はヒーロー事務所の事務員として働いていた。
都心から少し離れたこの街はこのあたりだと住みやすくて有名だった。犯罪やトラブルも都心に比べるとグンと少なく、事務員の私の仕事はそこまで多くない。ここに所属するヒーローは多くは無いけど皆とっても穏やかで優しくて、ヒーローという職業に信念をもって素敵な人たちばかりだった。敵と戦うことがヒーローの全てじゃない。困った人が居れば勝手に体が動いてしまう、そんな人達をサポートするのはやり甲斐のある仕事だった。
残業なんてほとんど無い私は毎日足取り軽く事務所の近くに借りた住まいへ徒歩で帰る。一人で暮らすことにも随分と慣れたものだった。帰宅してからやるべきことを頭の中で整理して順序を組み立てる。といっても結局いつも最初にすることは今朝干した洗濯物を取り込むことなんだけど。
帰宅して、洗濯物を取り込んで簡単に夕飯の支度を済ませたら先にお風呂を済ませてしまう。夕飯を食べたあとは身体が言うことをきかなくなってどんどんお風呂を先延ばしにしてしまうから。お風呂をすませたあとにお腹いっぱい食べてしまえば後は寝るだけでいいから、このルーティンが私に一番適している。
季節が変わって寒くなり、暖かいものが美味しくなったから雑誌で見て気になっていたココアを片手に、テレビをつければ楽しそうな笑い声が溢れかえるバラエティ番組。ゲストは今流行りのアイドルの女の子のようで画面はとても華やかだ。
『ヒーローショートのファンなんだよね?』
『そうなんです! デビュー前に、一度助けて貰ったことがあって』
聞き馴染んだ名前にピクリと身体が反応する。知らなかった、そっか、この子もショートのファンなんだ。
雄英を卒業してもうすぐ三年、プロヒーローとして華やかなデビューを果たしたショートは日々その人気を高めていって、ルーキーながらテレビで彼の活躍を見ない日は無かった。本人にその自覚は無さそうだったけど、あらゆるメディアで取り上げられる彼のカッコ良さや真っ直ぐで素直な姿勢は誰の胸にも留まった。SNSを覗けばパトロール中の彼に遭遇したことを呟く人が居て、彼が初めて女性誌の表紙を飾った日には書店に行列が出来た。たまたま流れた報道に目を向ければ彼に命を救われたと泣きながら感謝する人が映っていて、彼を賞賛する声に驕ることなく、彼はただ「助けられて良かった」と返す。今やプロヒーロー・ショートのことを知らない人なんかそうそう居ない。彼がナンバーワンヒーローの息子であるなんてことはもう彼の人気の理由にはならない。
そんな彼に、雄英時代から恋人が居たなんてことを知る人は余り居なかった。それが私だったことも、きっと世間は知りもしない。私がちゃんとヒーローになることが出来ていれば、世界は違ったかもしれないけれど。
私は雄英高校ヒーロー科を卒業した、ヒーローにはなれなかった卒業生だった。
理由は至極簡単、プロヒーローになることを諦めるしかないほど大怪我を負ってしまったからだった。卒業目前に、サイドキックとして所属する予定だった事務所でインターンを続けていた先で起こった事故の救助活動中、一緒に巻き込まれてしまった。負った怪我は個性因子にまで影響を及ぼし、目が覚めた時にはもう既に、ヒーローとして生きていくことを諦めるしかない状況だった。
私が生きて帰ってきたことを皆泣いて喜んでくれた。それと同時に、同じ夢を追えなくなったことを心から悔いてくれた。私は自分の夢がここで潰えたことに悔しさはあったものの、あの日の自分の行いを間違いだとは思わなかった。だから想像以上に現実を受け入れることが出来た。私はプロヒーローになることを、卒業を手前に諦めた。
所属する予定だった事務所のはからいで私は今の事務所にお世話になることが出来ている。元々サイドキックとして働くつもりだった事務所は検挙率も高く、忙しい場所だったからリハビリや体調を考慮して都心から離れていて比較的穏やかな場所を紹介先に選んでくれたらしかった。ありがたいことに生きているし、卒業して一年程で怪我は完治しリハビリも終えた。残念ながら、化学や個性の発達したこの現代でも私がヒーローとして生きていくための個性は還ってこなかったけど、一人で生きていくことが当たり前にできるくらい、私は回復を遂げた。今じゃ大怪我を負ったことがあるなんて誰も想像つかないほどに。
二年生になる少し前、彼の告白からスタートした交際は私がヒーローを諦めた後も続いた。彼は私が死にかけたことも、生き延びたことも、ヒーローを諦めたことも、泣きそうな顔で応えてくれた。だから私は笑って、私の分も誰かを助けてねと彼に私の夢を託した。
彼は元々私なんかよりもずっと強くて逞しくて、きっと将来すごいヒーローになるんだろうと確信していた。彼は私の想像通り、たくさんの人を救って、今日も誰かに夢と希望を与えている。
誇らしかった。かっこよくて大好きだった。彼が叶えた夢を一生懸命応援していた。頑張る彼を、一番理解して傍で支えていこうと思っていた。
でもそんなに上手くはいかなかった。
ヒーローとは本当に忙しい仕事だ。それは彼に限らず、同級生の皆がそうだった。同じ場所で生活していた仲間たちは誰かの命を護るべく、日夜任務や出動要請に明け暮れていた。いつ誰から話を聞いても私とは比べ物にならない生活をしていた。一番身近なヒーローになった彼もそれは例外ではなく、元々ナンバーワンヒーローの息子、優秀な雄英生の中でもトップを争った一人として注目を集めていたこともあってその忙しさは比にならなかった。
あれだけ一緒に居たのに、寮から暮らす場所が変わって、生活する環境が変わって、お互いの仕事が違えば当たり前にすれ違った。わざわざ連絡をとる必要もないほど距離の近い場所に居たものだから、彼が今日、明日、明後日、一体どこで何をしている予定かなんて聞かなくても知れたのに、卒業した後は彼が今日何をしていたのかを知るのがやっとだった。
朝送ったメッセージが夜になっても返ってこない、既読もつかないなんてことは珍しくなくて、テレビをつけたら彼が大きな事件を解決していたことを知り、そういうことかと寝て起きたら「悪い、任務だった」と彼から送られてきたメッセージを見る。そんなことが当たり前になっていった。
世のため人のため、走り回る彼は何も悪くないのに、彼から送られてくるメッセージはいつも謝罪からはじまっていた。私に謝る必要なんかないのに、とても素直で優しい彼は返事が遅れてしまったと丁寧に謝る。気にしないでと何度も言った。テレビ見たよと彼の活躍を何度も讃えた。ありがとうと送られてきたメッセージに、身体には気をつけてねと心配して返せば、また連絡すると彼は一言残してメッセージは途絶える。
忙しい彼に、メッセージ一つ送ることも憚られていった。どんなメッセージを送っても彼はきっとまた返事が遅くなったことに謝るんだろうと思った。声が聞きたいなと思っても、任務中だったら、お休み中だったら、なんて気になってしまって発信ボタンは押せなかった。忙しい彼に私が休みを合わせれば会えたりしないかなと思っても、その日の彼の活躍を知ると少しでも休んで貰うべきだと思った。
「会いたい」も「寂しい」も、言えなかった。同じヒーローを志した私が、彼の苦労や努力を一番に分かってあげられると思っていたから。彼が命を賭しているのだから、それを讃えて支えてあげるのが私の出来ることだと思っていた。だから「会いたい」も「寂しい」も言わなかった。「声が聞きたい」も「恋しい」も、頑張っている彼に謝らせてしまう言葉だと思った。私の感情は素直に吐き出せば全部、私が不満だと思っていなくても彼への不満に成りかねず、どれだけ彼の忙しさに理解を示していても、彼に伝えてしまえば最後それは不理解に成りかねなかった。
ヒーローになりたくて一緒にあれだけ頑張ってきた。ヒーローの近くで生きて働いて、ヒーローがどれだけ大変なことかよく知った。私が一番、彼のことをわかってあげられる。それは間違いないはずなのに、あらゆるメディアで目にするヒーローのショートが、私の知る最近の焦凍で、彼が最近行ったお蕎麦屋さんも、彼が今日着ていた服も、彼が今日何処に居るのかも、全部全部私じゃない、彼でもない、会ったことも無い誰かから知ることばかりでどんどん彼が遠くなっていく。それら全てが少しずつ少しずつ私の中に膿んでいった。会いたい、寂しい、声が聞きたい、恋しい。願えば願うほど、彼は私にそうは思わないのだろうかと。
わかっているのにこんな感情を抱くのは、結局私が理解しきれていないからだと思う。きっと、私が一番彼のことを分かっていたわけじゃなかった。私が一番、彼のことをわかりたいと思っていただけだった。そんな傲慢さがあけすけになってきて、今更私もヒーローになれていたら違ったのかなんて無い物ねだりな考えが頭を過ぎるようになった。同じ場所に立っていたなら、寂しさも恋しさも違ったかもしれない。そんな風に意味もなければ訳も分からない、責任転嫁な発想で漸く気づいた。
私には多分、彼との関係が身の丈に合っていないのだと。
それもそのはず、彼は今話題のプロヒーローで、かっこよくて、すごく強くて、とっても素直で優しくて、人のために命を賭けられる、立派な人だ。そんな彼を心から応援して、彼の活躍を喜んで、彼の無事を祈ってじっと待つことが出来る、プロヒーローの彼の隣に並ぶに相応しい人は多分、私じゃなくなってしまった。簡単に納得出来た。テレビに映る彼を見て、まるで映画の主人公のようだと思った瞬間、私と彼は住む世界を違えてしまったのだと悟った。傍に居ることが当たり前じゃなくなったことも、何をどう伝えても何も悪くない彼が私に謝ることになってしまうのも、会いたい寂しいと思うのが私だけかもしれないことも、彼のことを一番に考えて揺らがず居られないことも、全部私には身分不相応の表れだったんだと思う。
彼が謝らなくて済むようにあれだけ時間をかけて考えていたメッセージも、今回ばかりはそれ以外の言葉が浮かばなくて、たった一言「別れよう」とだけ送った。送信する指が躊躇して震えてしまい、自分で決めたことなのに心臓が破裂しそうな程に痛んで涙が出た。やっと送ったメッセージに、返事はないまま夜中になった。けたたましく突然鳴った着信に、出る勇気がなくて三度も知らないフリをした。やっと勇気が出たのは四回目の着信だった。
『っなあ、なんで、本気で言ってるのか?』
慌てた様子の彼の声は今になっても簡単に思い出せる。久しぶりに聞いた、彼から私に向けられた言葉は困惑に満ちていた。単刀直入に問いただされた言葉に緊張感が走って、上手に受け答えできたか記憶は曖昧だった。それでも「本気だよ」「嘘じゃない」と繰り返して、「別れよう」と言ったことは確かだ。
『何でだ、そんな急に』
納得が出来ないと私に理由を求める彼に、私は機能しているか怪しい脳みそをフル回転で動かして「他に好きな人ができちゃった」とそれらしい言葉を吐き出した。嘘ばっかり。背伸びをしてももうこの手に届きそうにない恋を手放す決心をしただけのくせに。
焦凍は私の言葉に黙りこくったあと、小さく、本当に小さな声で「わかった」と言った。
こうして私たちの関係は二週間前、五年目を迎える前に終わりを迎えた。他の誰でもない、私の手で。
出会いは雄英だった。同じクラスになった、ただそれだけの始まりがこんな風に続いて終わっていったのは私がヒーロー志望だったからか、それとも私たちだったからか。私が彼に惹かれ続ける理由はいくつもあったけど、彼が私を選び続ける理由はどこにあったんだろう。
まだ彼と別れたことは誰にも言っていなかった。彼は誰かに伝えただろうか。今日は何処で何をしているんだろう。怪我や病気をしていないといいけど。なんて心配するのは同級生のよしみで許されるのかな。
ふと時間を確認すれば間もなく就寝時間としている午前零時前だった。飲みかけのココアをさっと飲み干してテレビを消す。歯を磨いて布団に入って明日も働く。それだけなのに、悲しくて堪らないのはきっと、彼に相応しいかもしれない、可愛いアイドルなんて見ちゃったからだ。
あーあ、ヒーローになれなかったなら、彼に手が届くくらいの何か努力をしてみれば良かったかもしれないのに。アイドルになれちゃうくらい、可愛くなる努力とか。なんて、それも無い物ねだりでしかないのだからたった二週間じゃそう簡単に人は変われやしないのだ。