「……そろそろかな」

迅悠一は時計を一瞥してベッドから腰を上げた。時刻は間もなく午前10時、場所は玉狛支部に設けられた迅の部屋。ぼんち揚の箱だけが積み上げられた物の少ない部屋で迅は眠りにつき朝を迎える。休息を取る以外にこの部屋に居座ることは少ない迅だが、今日は随分前から視えていた―――いや、毎年のことなので視るまでもない事だが―――未来が現実になる日だった。
迅は自室の扉の方へと足を進める。その表情は穏やかなものだった。
ドアノブに手をかけて一息つき、ゆっくりと扉を開ければ電気を付けていなかった部屋にぐわりと光が射し込んだ。

「おはよお、悠一」

「……おはよう」

扉の向こうにはにこにこ笑う迅の幼なじみの名前が立っていた。自信満々なその表情に迅はいつも絆されて笑うのだ。毎朝交わす挨拶も今日ばかりは少しくすぐったく感じた。
扉の前から動かない幼なじみに、迅はなんの不思議もなく扉の枠に持たれて彼女の声掛けに応じる。迅には全部見えていたのだ。焦る要素などどこにも無いのだから当然だった。

「悠一」

「ん?」

「今日はなんの日でしょーか!」

名前は楽しそうににこにこと笑って問いかけた。彼女の背中に何かが隠されているのは誰がみてもよく解る。彼女の出した問いかけに関係あるものなのは明白だった。

「さあて、なんの日だったかな」

迅には全部視えていた。それこそずっと前から今日ここに名前が現れて、こうやって迅に問いかけるのも、これから起こることも。他の可能性は何も視えなかった。何故なら迅はこの幼なじみの行動を避けるつもりは微塵も無かったからだ。
それでも迅はすっとぼけて見せた。
今日がなんの日か、なんて迅の特別なサイドエフェクトを使わなくたって誰だって解る。数週間前から街は色めき、興味がなくても誰もが今日という日を意識するだろう。なのにわざわざ今日がなんの日か、と楽しそうに問うてくる幼なじみに対してさらりと答えてしまうのは情緒に欠けると思ったのだ。
毎年、そう思うから知らないフリを決め込んですっとぼけるのだ。

「んふふふ、忙しい迅悠一くんにはわかんないかな?」

「なに、答え教えてくれないの?」

少しずつ赤くなっていく名前の頬が迅を誘惑する。じれったいような、くすぐったさが心地良いような不思議な感覚に迅は溺れてしまいそうだった。
名前は背中に隠したものをそっと迅に差し出す。光を浴びてキラキラと瞬くリボンがかけられた箱を迅は目を細めて見つめた。

「今日はね、バレンタインだよ!」

「俺にくれるの?」

「もっちろん!私の大本命だよ!」

今日がバレンタインであることも、差し出された箱が自分のものであることも、なんならこの箱にかけられたリボンが青色であることや、大本命だと言って貰えることまで迅は視えていた。
それでも迅はあくまでこの確定されていた未来を味わうように確かめた。
名前の言葉に胸が一杯になるのを感じる。迅は名前の手からそっと箱を受けとりまた名前へ視線を戻すと一層頬を緩めて笑う彼女が見えた。

「ありがとう、嬉しいよ。」

「今年も私が一番最初?」

「当たり前だろ」

「ふふ、そっか」

毎年毎年、一番最初にバレンタインを贈ってくるのは名前だった。それもそのはずだ、迅は毎年ここで待っているのだから。そして名前もそれを知っているのだから。忙しい迅を考慮して、早すぎないくらいの時間に毎年こうして渡しに来る名前は、迅が全て視えていることを解っていて扉の前で迅が出てきてくれるのを待つのだ。なんの日か、なんて聞かなくても誰だってわかるのに、知らないフリをしてくれる迅をよく知っているのだ。もう何年も、何年も同じやり取りを繰り返してきたのだ。

「ねえ悠一」

「ん?」

「ふふ、大好き!」

迅は飛び付いてきた名前をしっかり受け止めて、あやすように背中を撫でる。何年経っても変わらない幼なじみに安堵するのと同時に、変われないままの自分に情けなく感じた。

「俺も、大好きだよ」

ずっと変わらない、昔からこうやって惜しみ無く浴びせられる好意を享受してきた迅はずっとその一歩先に進めないままだった。大好きと言われれば俺もと返し、ずっと一緒に居ようと言われれば当たり前だと返してきたのに。彼女との確定された未来が視えないから、迅は今も変われないまま、「幼なじみ」の枠の中に二人で収まっていた。
迅悠一は、臆病者だった。
喉から手が出るほど欲しいものが手を伸ばせば手に入るかもしれないのに、生まれ持った人々から羨まれる程の力が未来を歩むのを阻むのだ。
未確定な未来を転がすくらいなら、このままで居た方が幸せなのかもしれないと。

「ねえ悠一」

「……なあに」

少しだけトーンの違う名前の声に、迅は少し身構えて返事をした。名前の腕に一層力が籠る。まるで迅と一つになりたいと言っているかのようだった。迅はそれに応えるように名前の腰に腕を巻き付けて引き寄せた。

「私、悠一とならどんな未来でも怖くないよ」

「……、」

「ふふ、お返し楽しみにしてるね!」

それはまるで、どんな未来でも側に居ると約束されているように聞こえた。
名前が腕をそっとほどき迅を見上げて笑う。去年はお返しにケーキが食べたいと連れ回されたのを迅は思い出した。今年は何をねだられるんだろうかと思わず頬が緩んだ。

「……来年も、くれる?」

「え?」

「バレンタイン。俺に、くれる?」

迅は受け取った箱を大事そうに見つめて言った。きっと今年も手作りだ。だって毎年そうだから。名前はいつもハート型のお菓子を作るのだ。シンプルで解りやすい、悪く言えば露骨な程バレンタインのお手本のようなお菓子を迅に用意する名前に、迅はずるいことを聞いてしまった。こんなこと聞かれたって、優しい名前は絶対イエスと答えるに決まってるのに。そう答えるしかないって解っているのに。そして律儀にそれを守るのだろうと、迅は知っているのに。

「なんの心配してるの?」

「……いや、ごめん。こんなこと聞かれたら、あげるって言うしかなくなるよな」

迅は情けなさそうに頭をかいた。子供みたいだと一人胸の中でごちた。小さくため息を吐いて、頭を抱えてしまいたくなって俯いた。

「悠一」

床に投げた視線を遮るように名前が迅を覗き込む。その表情は随分真面目なものだった。迅はどきりと心臓を鳴らして、息を飲んだ。珍しく驚いてしまった。

「……ふふ、」

「……な、なに」

「来年なんて言わずに、ずっと先まで受け取って欲しいなあ。私の本命チョコ。」

驚く迅に笑ったのか、悪戯に微笑む名前に迅はたじたじになってしまったのに、そのあと彼女が続けた言葉に迅は面食らってしまった。
ずるいことを先に言ったのは迅だったのに、迅は名前に思わず「……ずるいな」と溢してしまった。
なんて殺し文句なんだと、片想いから動けない迅には効果覿面だった。

「……あ、」

「ん?どうかしたの?」

「や、……うん、はは、」

「?なんか視えたの?」

「……うん」

「良い未来だったんだ?」

「……そうだね、うん。はは、」

「教えてくれないの?」

迅は緩んだ頬が抑えられなくて手で口許を覆った。
気になると迅を見つめて首を傾げる名前の頭をくしゃりと撫で付けた迅にはそれはもう、鮮明に視えたのだ。

「お前がずっと先の今日も、俺に会いにきてくれる未来だよ」

ほぼ確定された未来に迅は喜びを隠せなかったし、隠すつもりもなかった。柔らかな髪の感触を楽しむように撫で続けていると「なあんだ〜」と呑気な声が聞こえてきて迅の手に名前が手を重ねた。

「そんなの、サイドエフェクトがない私にも解ってた未来だよ。つまんないなあ。」

迅はまた名前の言葉に面食らって「お前ねえ、」と何か言いたげに口を開いたものの頬に熱が集まるのを感じて押し黙ってしまった。

約束された未来をあげるよ
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