「潔くん、凄くかっこよかったね!」

 教室に響いていた色めく声が頭の中でリフレインする。急に世界が変わってしまったような気持ちになった。何も悪いことは起こっていないのに、ずんと沈む気持ちと焦燥感。胸のあたりともお腹のあたりとも区別のつかない所がぎゅっと締まって苦しくなる、あの感覚まで蘇ってくる。
 私を取り巻く世界が変わっても、私は何一つ変わらない。私を取り巻く世界を変えてしまった、彼は変わってしまっただろうか。

「久しぶり……!」
「よいちゃん、久しぶり」

 待ち合わせ場所で空を眺めて待つこと二十分、名前を呼ばれて振り返れば見慣れたはずなのにどこか懐かしい笑顔で駆けてくるよいちゃんが居た。ブルーロックと呼ばれる日本サッカーを強くするための施設に行ってしまったよいちゃんが、若き日本代表達と戦って大活躍をしてきた。
 それからだ、私の周りでよいちゃんが人気者になってしまったのは。それまで誰もよいちゃんの話なんかしなかったのに、みんな揃ってよいちゃんのことばかりを口々に語るようになってしまった。私だけが知っていた、よいちゃんのかっこいいところを皆が知ってしまった。皆がよいちゃんの話をして、よいちゃんの帰りを待って、よいちゃんとの繋がりを求めていた。
 急に変わった世界に私一人だけが焦って不安になっていた。皆のものになってしまったよいちゃんに、私は一人で怯えていた。私の中に多分、よいちゃんは私のものだと深層心理にあったのだと思う。

「元気にしてた?」
「うん、よいちゃんは?」
「この通り!」

 歯を見せて笑う彼はとびきり明るく笑ってくれた。ああ好きだなと思う。彼のはにかむ笑顔も、暖かい声も、私が恋をした彼のままだったことに安堵する。
 よいちゃんと付き合いはじめたのは一年生の秋くらい、告白したのは私で、照れながら「俺も好き」と言ってくれたのがよいちゃんだった。穏やかな関係だと思う。私も彼も初めての恋人で、何もかも一緒に初めてをこなした。私も彼も照れが勝って、ぎこちなく進んできた。私たちらしくてそれら全部がくすぐったくて、何もかもにドキドキしながら順調にここまできた。サッカー部のマネージャーをしている私と彼はほとんど毎日顔を合わせていたから、こんなに長い間会えないなんて初めてだった。彼がブルーロックに行ってしまったから。会うのは久しぶりだ。少しの間だけ帰って来れることになったと連絡をくれた彼は、一人のサッカー選手として日本中に認知されて戻ってきた。

「……試合、見たよ」
「わ、まじ……?」
「うん、すごくすごく、かっこよかった」
「うわ……すげー嬉しいかも、ありがと」

 サッカーをしている彼はかっこいい。ずっと応援していた。よいちゃんなら大丈夫だって思ってた。やっぱり大丈夫だった。それなのに、なあ。
 よいちゃんが眉を下げて照れ笑いするのを見て、きゅっと少し胸が苦しくなる。彼の活躍を喜ぶ私は確かに居るのに、こんなに切なくなるなんて自分の心の狭さを表してるみたいで自己嫌悪する。

「ちょっと歩こっか」
「わ、……う、ん」

 優しく微笑まれて、徐に取られた手にドキリとした。ぎゅっと握られた手に少し混乱する。ぎこちなさのないその所作に、あれ、と乱される。こんな風だったっけ。手を引かれて歩き出した道は何ら変わりない、よいちゃんが行ってしまう前とこれっぽっちの変化もない道。隣を歩く彼だけが少し違って見えた。

「そっちは? 最近どうだった?」
「なんにも変わらないよ。あ、でも皆よいちゃんのことばっかり話してるかも」
「ええ!? なんかちょっと恥ずかしいかも……」

 当たり障りのない近況報告。ほんの少し離れていただけなのに気になることは沢山あった。彼が一緒にプレーをしたチームメイトのこと、ブルーロックと部活の練習の違い、試合をみたクラスメイトたちのこと、最近の部活の皆のこと、話し出すと何事も無かったみたいに会話が弾んでいく。口から出ていくのはよいちゃんの活躍に目が離せなくなってしまった同級生のことばかりだった。

「……みんな、よいちゃんに会いたがってたよ」
「ええ、マジか……なんか照れるな……」

 繋がれた手の大きさにこんな感じだっただろうかと、記憶の中に残る感触との不一致を疑う。照れ笑いする彼に重なっていくのは不安ばかりで緊張みたいな嫌なドキドキ。
 いつか離れていってしまう気がする。皆のものになってしまって、もっと綺麗な特別を見つけて、彼は私の傍から居なくなってしまう気がする。

「……よいちゃん」
「ん? 何?」
「……ううん、ごめん。なんでもない」

 首を横に振って口から出そうになった言葉を引っ込めた。情けなくって言い出せなかった。私の事好き? なんて聞いたって優しい彼はきっと肯定してくれる。繋がれた手がその証明だろうと理解出来ている。それでもきっと私はよいちゃんに、好きだよと肯定されてもこの胸の内側のもやもやを解消できたりしないだろうと独りごちる。

「……なんでもないって顔じゃないけど」

 少しトーンの落ちた声と一緒によいちゃんの足が止まる。必然的に私の足も動きを止めて二人で立ち止まる。よいちゃんは真面目な顔で私を見ていた。私はどんな顔をしているんだろう。

「ごめん、本当に、なんでもない」
「何かあったんだろ? ……ずっと、ちょっと上の空って感じだし」
「……ごめん、そんなつもりは無くて」
「何言いかけた? ちゃんと言って」
「ほんとに何でも」
「無いことないだろ」

 言葉を遮られて驚いてしまう。いつも私の言葉を待ってうんうんと頷いてくれていたのに、こんなに勢いよく喋るよいちゃんのこと、私は知らない。捲し立てられて言葉を失う。強い眼差しにたじろいで何も言えずに居るとよいちゃんが「ごめん、怖がらせた」と声のトーンを落として握っていた手の甲を指で撫でた。
 優しくて、思いやりがあって、笑顔の可愛いよいちゃん。照れたり恥ずかしがったり、ちょっと頼りないのにちゃんとリードしようとしてくれるよいちゃん。

「……よいちゃん、なんだかちょっと、変わったね」

 気がついたら言葉がこぼれ落ちていた。久しぶりにやっと会えて、こんなことを言いたかったわけじゃないのに、飛び出した言葉は戻ってきたりしない。はっと気づいた時には何もかも遅くて、私を見つめるよいちゃんの目が大きく開かれていた。
 やっぱり彼も変わってしまったんだと思う。だって私の世界を変えたのは紛れもなく、この人なのだから。この人の活躍が周りの人たちの心を動かして私の世界に大きな波を生んだのだから。彼の変化が世界を変えたに違いないのだから。
 漠然とした不安が輪郭を明瞭にして私の胸の内側にずんと重く垂れ下がる。置いていかれる気がした。世界の変化に喜べない、彼の変化についていけない、何も変わらない私に彼の気持ちまでも変わっていく気がして、彼がいつか本当にもっと大きな舞台に立ってしまったら、私はどうなってしまうんだろう。
 彼の変化に嫌悪しているんじゃない、彼の変化を怖がっているだけだ。同じスピードで生きていたはずだったのに、先を行く彼に置いていかれることが怖い。好きだから、怖かった。
 よいちゃんの手を握っていた手のひらから力が抜けていく。私の言葉に幻滅してしまっただろうか。久しぶりの再会に目一杯喜んで、彼の活躍を褒めちぎって激励して、次も頑張ってとはりきって送り出せたらよかったのに、どうしてそんなことも出来ないのか、甚だ自分に嫌気がさした。こんなことじゃ置いていかれて当然だ。自分で自分の首を絞めるほど、私は愚かな人間だったのだろうか。

「……なんだよ、それ」
「ご、ごめん……悪い意味じゃ、なくて……人気者になっちゃったし、遠い人になったみたいっていうか……」
「……人の気も知らないで」
「え……?」

 離しかけていた手をぐっと引っ張られてさらに強く握られる。少しだけ痛くて思わず顔を顰めた。よいちゃんは眉間に皺を寄せて、私の言葉に納得がいかない声をあげた。

「部活の奴らと、仲良くしすぎだし」
「よ、よいちゃ」
「お前のことなのにお前じゃなくて部活の奴らから聞くのめちゃくちゃモヤるし」
「あの」
「なんで告られたの俺に言ってくんなかったの」
「!」

 心臓が一際大きく跳ねて嫌な汗が噴き出す。別に悪いことをしているつもりは一切ないのに、彼の口ぶりが私を窘めてくるからか、突然自分の行いが後ろめたいものへと変わっていく。
 何一つ変わりなく生きている。よいちゃんがブルーロックに行ってしまう前と何も変わってないはずなのに、よいちゃんは納得できないと顔に貼り付けていた。

「俺、すげー不安だったんだけど」
「ご、ごめん隠してたわけじゃなくて、ちゃんと断ったから言う必要もないかと思……って……」

 少し冷たい視線が私に突き刺さってドキドキ脈打つ心臓が危機的状況であると警告を鳴らすようだった。よいちゃんは「ふうん」と興味無さそうな返事を私の手を握っていた力を少し緩めたあと、するすると滑るように指を絡めて繋ぎ直された。

「俺が居なくなった途端、男寄せ付けすぎなんだよ」
「そんなことしてない!」
「うん分かってる。別にそんなつもりないって」
「じゃあ、」
「でも嫌なもんは嫌」

 ぐっと力強く腕を引かれて身体がよいちゃんの方へと傾く。ぶつかった身体にそのまま腕が回されてぎゅっと抱きしめられた。

「確かに、お前の言う通り俺ちょっと変わったかも」
「え……」
「ブルーロックに行く前は、気にしすぎないようにしてたし、お前にそんなつもりないんだしって、どうにか自分に言い聞かせてたけど」
「ひ、……!」
「俺のモンなんだから、俺が我慢するのは違うよなって今は思う」

 彼の手が私の頬を優しく撫でて、くすぐったくて情けない声がでる。
 彼の行動に驚いている私なんか気にもせず、話続ける彼の言葉を必死に脳まで届けて理解しようとするけれど、私を見下ろす彼の大人びた表情に思考まで捕らわれてしまって上手く状況を理解できないままで居た。

「なあ」
「……?」
「お前がこんな俺は嫌だって言ったって、俺は離す気ないし、引きずってでも連れてく」
「っ」

 聞き慣れた声が紡ぐのは彼の言葉とは思えないくらい強引な言葉だった。頬を撫でる手がゆっくりと滑って顎を掬われる。彼の視線が至近距離で絡みついて目をそらすなと訴えてくる。
 ああ、やっぱりこんな彼を私は知らない。見たことない。

「なあ、ちゃんとついてきて」

 たじろぐ私に残酷な一言。もう既にキャパオーバーを迎えているのに、意地でも同じ場所まで連いてこいと言う。置き去りにされる事を怖がって、置いていかないでも言えなかった私を、彼は引きずってでも連れていくと言う。

「なあ」
「な、に……?」
「俺の事、すき?」

 私のことをじっと見つめて、不安そうに聞いてくる彼はまるで子犬のようだった。考えることもせず、気がつけば首を縦に振っていた私を見て、彼は目を細めて「よかった」と言いとびきりはにかんで見せた。
 ああ、彼は変わってしまったけれど、私がこの人のことを好きなのはどうやっても変わらないんだなと思い知った。

「……置いていかれると、思ったのに」
「え?」
「……もっと広い世界に行ってしまったら、よいちゃんは私を置いてくんだろうなって思ったのに」

 情けなく呟いた弱音を彼は聞き逃しはしなかった。

「置いてくわけないだろ。……こんなに好きなのに」

 小さな声で付け加えられた言葉に何もかもを救われて、思わず涙が視界に滲んだ。世界が変わって振り落とされかけた私も、彼に縋り付いていいらしい。

世界の終わりに閃光と稲妻
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