「もうそろそろ止めとけって」
玲王が心配そうに、それでいて呆れたように私を咎める。手に持ったグラスの中を空にしてからテーブルに戻せばぐわんと一瞬世界が揺らぐ。このままだと飲みすぎそうだと頭の中では理解していた。それを止められそうになかったのは何もかもどうでもよくなりたかったからだ。アルコールに限界まで頼って全部忘れたかったのだ。
「酒に溺れたって、お前記憶きっちり残るタイプだろ?」
玲王の言葉は私の心を透かしているようだった。成人するより前から付き合いがあるこの御曹司は賢いし察せるしサッカー出来るし、たまたま同級生だった私には勿体なさすぎる人脈だった。
私一人じゃ入ろうとも思わない立派なこのお店を貸し切ったのも玲王だった。プロで活躍する玲王に「ヤケ酒がしたいです」なんて不躾なメッセージを送って一時間も経たないうちに返ってきたメッセージはお店のリンクと「八時な」の一言だった。御曹司で、プロサッカー選手をこんな風に呼びつけるなど図々しいなんてものじゃない。それでもこうして付き合ってくれるのは同級生のよしみ、と表現するには少し無理があるか。全部御影玲王という男の器の大きさに所以するんだろう。
「……全部忘れるくらい飲む」
「お前な〜明日後悔する未来しか見えないから俺の言うこと聞いとけって」
「だって」
「だってじゃねーの」
正論をぶつけられてもアルコールが回った頭じゃ言い返す言葉も生まれなかった。私の手からグラスをさらりと奪った玲王がそばに居たウェイターさんに目配せをすると程なくしてお水の入ったグラスが運ばれてくる。スマートすぎて嫌。ヤケ酒したいって言ったのに、こんな風になだめられると傷心を怒りに変えることもできない。ぎゃあぎゃあ騒いで、ムカつくって感情のままに吐き出したかっただけなのに人選をミスったかもしれない。でも残念ながら私の傷心を理解できるのも、吐露していいのも玲王しか居ないのだ。
「凪はどうせめんどくさかっただけだって」
「……別にわかってるもん」
「わかってる奴の顔じゃねーよ」
「それもわかってるもん!」
核心をつかれてむしゃくしゃする。言われなくても察せるし、ぐずった所で何も始まらないし終わらない。凪が誰と熱愛を報道されようがどれも事実には値しないなんてわかっている。だってずっとゲームのログイン履歴が真新しいし、アイドルや女優を構う気概はないし、人の名前もなかなか覚えないし。そんなことは分かっていても、ムカつくしモヤモヤするし、嫌なものは嫌なのだ。それを嫌だと騒げる立場に私が居ないくせに、ヤケ酒なんかに玲王を付き合わせる私も最悪なのだ。
「悔しい、最悪、もうやだ〜……」
「毎回メディアに踊らされてちゃキリがないって」
「分かってても! そう上手くはできないの! 乙女ってそんなものなの!」
「それは分かるけど、毎回こうやって落ち込むくせに告白の一つもしないんじゃ何にもはじまらないだろ」
「女優アイドルアナウンサーって続いてる中で私が同じ舞台に立とうと思うわけないじゃん……」
あんなに面倒くさがりで、クラスでも浮いてたのにな。玲王に誘われてサッカーをはじめて、ブルーロックなんてとこに行っちゃって、そこからどんどん有名人になっちゃって、あっという間にプロサッカー選手まで上り詰めちゃった。私が世話を焼いて面倒を見ていた凪誠士郎は私が追いつけないスピードで世間の憧れになってしまった。
たまたま席が近くて、いつもぼーっとしてるかゲームしてるか寝てるかの凪をなんとなく放っておけなくて、声をかけたところから始まった友人関係は案外居心地良くて、私の高校生活で一番仲の良かった同級生は凪になった。凪と一緒にいたお陰で私は玲王と知り合って、仲良くなって、三人一緒に居るのが当たり前になった。こんな立派なお店でむちゃくちゃな飲み方が出来るのも、プロサッカー選手の凪に関してぐずりまくれるのも凪を通じて仲良くなった玲王のおかげだ。凪に女の影が噂される度に呼び出される御曹司には申し訳がないけれど、そもそも玲王が凪にサッカーをさせてしまったのだからたまに付き合うくらいはして欲しい。なんて言わなくても毎度きっちり付き合ってくれているけど。
凪はどんな報道も基本相手にしない。それは熱愛報道でもそうだった。誰と噂になろうがそれについて一切触れない。そういう鎮火方法もあると思うけど、凪の場合は単純に面倒くさがりなだけだと思う。どうでもいいし、面倒だからほったらかし。それが悪いとは言わないけれど、凪のことを好きな私には毎度ダメージが大きくてこの有様だ。事実無根ならそう言えば終わりなのに、と思ってしまう。何も知らない私は愚か者なので、一言否定してくれればと考えてしまう。その浅はかさが幼稚で自己嫌悪。有名人には有名人なりの苦労とやり方があるんだろうと想像力を働かせても利己的な考えが付きまとう。無言は肯定なんて言葉が存在する以上、私はずっと振り回されるんだと思う。凪の立場に相応しいなと思わされる著名人の噂が回れば回るほど、劣等感と嫉妬でめちゃくちゃになるのだ。そんな人に勝てるわけないじゃん、なんてヤケクソになってしまうのだ。プロサッカー選手の友人が二人も居る、それだけのフツーの成人女性。それが私だ。プロサッカー選手の友人だって、いつまで続くかわからない関係でしかないのだから。
「……私の方が、ずっと先に好きだったのに」
ポロっと口から零れたのは自己中心的で、だからどうしたと問いただされれば何も言い返せない取り留めのない本心だった。
「知ってる」
「玲王が見つける前から凪は私の宝物だったのに」
「お前そうやっていっつもマウント取ってくるよな〜」
好きでいた時間の長さが真の愛の証明とは言えないなんて理解している。一つに費やした時間の長さが一番を決めるのであれば玲王や凪がプロサッカー選手として華々しく活躍できていることは理論に反するのだから。
玲王の静止を聞かずにウェイターさんにワインをオーダーする。こんな良いところのお酒玲王と一緒でないと飲むことはできない。玲王が私にお金を出させないことをわかりきった上で流し込むようにお酒を飲む自分の厚かましさはアルコールのお陰でぼやけていた。最低。
「だからもうやめとけって」
「いやだ! 潰れるまで飲む!」
「潰れたらどうするんだよ」
「玲王が居るから大丈夫だし!」
「あのなあ……俺も男なんだけど?」
お酒を貰おうとウェイターさんに声をかけても玲王が「悪い」と一言謝って他所にやる。こんな酔っ払いの私の言葉なんかより顔の広い御曹司の言うことを聞くに決まっているから、私のオーダーは勿論通りやしなかった。
玲王が私の手に水の入ったグラスを握らせる。触れた手は冷たかった。
「お前だって凪のことばっかり言えないだろ」
「……なにが?」
「俺なら相手が誰でも男と二人で酒なんて飲んで欲しくない」
「……なんの話し?」
「お前の話」
玲王が大きなため息を吐いて呆れた目でこちらを見る。負けた気がして悔しくなって、でも何も言えなくて握らされたグラスのお水を一気に飲む。眉間にキンと響くような痛みがあって脳がクリアになる気がした。
「有名人だからとか、そういうの、考えるなってのは無理があるのはわかるけど、プロサッカー選手の前に一人の男だから」
「……なに急に……」
「お前にはお前なりの苦労があるけど、凪にだって苦労があるんだよ」
「そんなのちゃんとわかってるし……」
「ホントに?」
「……え?」
空になったグラスに添えたままの手に大きな手が伸びてきて私の手の甲を覆う。よく知る感触と一緒に聞こえてきた声に思考が止まる。
「ホントに、ちゃんとわかってる?」
「……な、ぎ……? なんで……」
座る私を見下ろすように背後に立っていた大きな影はこの場所に不釣り合いすぎるほどラフな格好をしていた。話題の渦中の人物をこの場に呼んだ覚えは無い。なんなら隠していたくらいなのに、どうして。
なんて犯人は一人しか居ない。凪から玲王に視線を戻せば玲王は相変わらず呆れた目で私を見ていた。
「多分何にもわかってないよね」
「……へ……」
「ある事ないこと報道されるのも面倒だけどさ、俺や玲王が知らないとこで同僚とか言って俺たちじゃない男とつるんでることを知る方がよっぽど心臓に悪いし」
「……なに?」
「会えても目立つとか、撮られたらとか、そんなんばっかり気にされて全然うまくいかないし」
「なぎ……?」
「なのに玲王と二人で飲むのは流石にナシでしょ」
「え、え?」
「玲王にこんな話するなら、俺と撮られちゃえばよかったじゃん」
私の手の甲を覆う手に力が篭ってその大きさの違いを知らしめるように握り込まれ、身体が浮くほど腕を引かれる。有無を言わさぬ力強さに従って席から立ち上がっても凪の背は高くて見上げることしか出来なかった。いつも通り無気力な表情に、どうしてか射抜かれて逸らせなかった。
「行こ」
「ど、こに」
「撮られに」
「と、とられ……え?」
「明日の一面俺達で決まり」
「いちめん……?」
「俺、他の誰とどんな報道されてもキョーミないし、面倒だけどさ」
「相手が君なら話は別」そう言って凪は私の手を引いて歩き出す。歩幅の差とアルコールが私の足を絡ませて、覚束無い足取りで必死について行けば凪はぐっと私の腕を更に引いて肩を抱いた。
「ちょ、ちょっと凪!?」
「ね、一緒に炎上しよ」
「はい!?」
「事実ですって俺呟くからさ」
凪に連れられて外に向かっていく。凪の言ってることも何もわからないまま、凪の力に逆らうことなんかできなくてされるがまま。扉をくぐって外に出れば貸切だったホールとは打って変わって外の喧騒。ぶわりと吹いた風が冷たく私の前髪を拐う。
「行こ」
凪は私の返事を待たずに人混みを進んだ。行くって何処に、そう問い返す暇はなかった。
明くる日、私はSNSで、朝刊で、ワイドショーで、凪が言っていたことの全貌を知る羽目になった。『凪選手、熱愛に「事実」と初めての肯定』そう大きく取り上げられた記事に私の世界が変わったのは言うまでもない。
予定調和とランデヴー