「綺麗だね」

 絞り出した声はなんとか届いていたらしい。冴ちゃんが短く「ん」と肯定の返事を返してくれたことに少しだけほっとする。でもその安心と相反して心臓がぎゅっと締め付けられて体温が上がった気がする。
 疲れを感じるくらいには身体が強ばっていることに気づいてる。もうずっと緊張しっぱなしだ。今日までずっと、何かしていないと考えすぎちゃって落ち着かなくて、結局一番望んだ通りには出来なかったのに今もこうして上手に振る舞えない。
 片思いって厄介だ。こんな距離も埋められない。

「私のマンションね、駅からは遠いんだけどすごく穴場らしいんだ」

 そんな言葉でしか誘えなかった。本当は頑張ってお祭りに誘って、浴衣着て、花火見て、最後にちゃんと言おうと思っていた。何でそう思うのかはわからないけど、この夏が最後な気がしていた。根拠なんかないのに、この夏を逃したら終わりだと思っていた。長年の片思いに、決着をつけなきゃいけないと焦っていた。
 随分大人になってしまったから。のんびり生きていたらあっという間に社会人になって、今年の春から始めた一人暮らし。何か困ったことがあってもスマホ一つで全部解決できるくらいの、何の変哲もない新社会人生活を送っている。そんな私の幼なじみは今じゃプロサッカー選手として活躍して、テレビで目にする機会も増えた。スマホを通して行われるやり取りの中からも生活の違いを感じるようになったりした。きっとこのまま違う世界を生きていく事になるんだと、覚悟せざるを得なかった。
 今年の夏は少しだけ帰国すると連絡を貰ったのは丁度冴ちゃんの活躍が大きく報じられていたタイミングだった。オフシーズンに入るからと久しぶりに日本に戻ってきた冴ちゃんに、頼まれてもいないのに私の夏季休暇の全部をあてた。学生の頃は長い休みを持て余すほどだったのに、大人になってしまったが故に冴ちゃんの居る夏を過ごせるのはたったの一週間ほど。これ以上なく短く感じる数日に、私は結局まだ何にも出来ないままだった。
 臆病者で嫌になる。特別な機会がないと踏ん切りつかないなけなしの行動力。この夏を逃しちゃいけないと思っているのに、たかがお祭りにも誘えやしなかった。暑いし人混み嫌だろうな、とか。冴ちゃんのファンの人とかに見つかったら駄目かも、とか。お祭りとか好きじゃなさそうだな、とか。断られたらどうしよう、とか。そんなモヤモヤばっかり膨らんで自分で決めたプランのスタートラインにも立てなかった。ちゃんと誘うつもりだった。だから必死で浴衣を選んだし、お母さんに着付けまで教わったのに。結局クローゼットで新品のまま、買った時のままだった。沢山見比べて、あんなに悩んで選んだのにな。「あんた、冴ちゃん誘ったの?」なんてお母さんに呆れられて、話にもならなかった。
 それでも私なりに必死に努力したのだ。実家に戻った冴ちゃんに合わせて私も実家に戻ったりなんかして、冴ちゃんに久しぶりとなんてことない風に声かけて、お互いの近況報告を重ねに重ねて、冴ちゃんが「お前何処に住んでるんだ」と私に投げかけてくれた疑問に乗っかって、どうにか今日までこぎつけた。不幸中の幸いか、住むには便利と言えないけれど新生活に見合った新居唯一の利点。部屋のベランダから毎年花火大会がよく見えると教えてくれたのはお隣さん。結局お祭りに誘うことは出来なかったけど、ごく普通な流れで一緒に花火を見る機会まではたどり着けた。こんな風にしかできないのは情けがないけれど、何も出来ないまま終わらなくてよかったと今なら心底思う。
 冴ちゃんが来ることなんか考えて選ばなかったソファー。それでもきっと友達を呼ぶ機会はあるだろうからと選んだ二人がけ。一人暮らし向けの住まいに収まるサイズ感は隣に並ぶとあんまりにも近く感じて身体を小さくしてしまう。カーテンを開いて、花火がよく見えるように少しだけ落とした照明。時間が経つにつれて汗をかき出した昆布茶の入ったグラス。精一杯もてなそうと思って一昨日から買って冷やしておいたスイカ。隣に座る冴ちゃんはベランダの外に視線を向けていた。
 冴ちゃんが好きだった。でも時差七時間の距離を生きるこの人を、幼なじみだと周りに自慢する勇気は無かった。誰が信じるんだそんなこと、偉そうに語れるほど何か特別なものを持ち合わせてもいない。たまたま隣に住んでいただけ。そんな生まれに、自分が持ちえたかもしれない才能やあったかわからない運全てを使い切ったかもしれない。それ程までに私自身は普通の人間で、糸師冴という特別な幼なじみが居るだけ。
 このままだったら、きっとその変化にすら気づかないほど緩やかに徐々に疎遠になっていって、冴ちゃんの近況も何もかもをニュースやインターネット越しに知るようになっていくんじゃないかと思う。一番仲の良い友達だと思っていた子の近況を、流し見していたSNSで目にするだけになっていったように。そうやって関係は希薄になっていって、いつか他人になるんだろう。生まれながらに皆他人だ。そうやって移り変わるのは仕方ない。
 小さい頃はずっと一緒に居たのにな。一番近くで冴ちゃんのサッカーを見ていたのにな。スペインで頑張る彼の結婚を、知らされることも無くニュースで見る、なんてそんな未来もあるかもしれない。なんて。
 大きな花火の音が轟く。地響きのようにも雷のようにも聞こえるそれは花火が開くタイミングとは少しだけズレている。今日は雲ひとつない晴天で、夜の空に弾ける火花が冴ちゃんの輪郭を色付けていた。
 時間が止まればいいのに。どうしたって大好きだ。でも数日すればまた冴ちゃんはここを離れて違う世界を生きていく。来年の夏は一緒に過ごすことなんか無いかもしれない。他の誰かと過ごしているかもしれない。もう私に、連絡なんか寄越してくれないかもしれない。
 そろりと盗み見た冴ちゃんの顔は相変わらず涼しげだ。ぼんやりと遠くを見つめているけれど、頬に、まつ毛に、その瞳に色が落ちる度に、無理ある理由でこぎつけたものの夏の風物詩に少しは興味を持ってくれているのかもと安心する。隣に座る私は花火どころじゃなかった。轟く花火の音のおかげで心臓の音はきっと聞こえていない、と思う。
 綺麗だなあ。見蕩れるほどに呼吸が詰まって泣き出しそう。口は悪いのに根はびっくりするくらい優しくて、たまに見せるお兄ちゃんの顔が好き。こんなにサッカーが上手なのに、驕らずにサッカーばっかりしてることを卑下たりするところも好き。まだ変わらず私と幼なじみで居てくれるところが好き。声も顔もその体温も生きるスピードも、何もかもを肯定するしかできないくらい大好きだった。

「すき」

 花火なんか見ちゃいなかった。それでも他の音なんか何も聞こえないくらいの轟音に大きな花火が打ち上がったことだけわかる。確かにこぼれ落ちていったはずの最後の言葉はかき消されてしまったのか、声にはならなかったのか。自分ですら拾えなかったその声に、何もかも終わったような気になった。

「何か言ったか」
「……、ううん」

 私を見て首を傾げた冴ちゃんに、精一杯笑って首を振った。やっぱりなあ、なんて内心残念がってから、これでよかったかもしれないと自分を納得させ始めていた。二度目は振り絞れない。きっと泣き出してしまうから。今だって必死に堪えてる。全く届いていやしない。私にだって聞こえなかったのだから。これも全部、そういう運命だったんだ。なんて大袈裟にもロマンチストぶってしまう。
 この夏がきっと最後だ。彼も私も大人になってしまったから。最後と決めてなんとか絞り出した勇気も無に帰した。何を望んだって駄目な気がした。いつか遠のいて終わる関係だったのならば、できる限り緩やかであって欲しい。ここでぴしゃりと跳ね除けられてしまったら、何もかも今日が最後になるかもしれないのだから。ならば一日でも一時間でも長く、穏やかであってほしい。

「……スイカ、後で食べる? 一旦冷やしておこっか」

 このまま隣に居座れなくて理由をつけて離れようとした。涙腺が緩んで視界が滲む前に、呼吸を、心拍を整えたかった。手のつけられていないスイカに救われて、この想いに諦めを乞う。結局何もかも駄目だった。せめて今日一日を楽しく終えられるように、切り替えたくてソファーから立ち上がった。

「っ、わ」

 スイカを盛ったお皿に手が届くより先に身体がバランスを崩してソファーに引き戻される。何が起こったかわからなくて心臓がバクバク脈打った。腕に感じた圧力に恐る恐る隣に座っていた彼を見上げる。私を見下ろす冴ちゃんは私の腕を握っていた。

「さえちゃ」
「逃げんな」
「……え」
「勝手に諦めたツラしてんなよ」

 ぐっと力強く引かれた腕に上体が傾いていよいよ支えきれなくなった。落っこちるように冴ちゃんの胸に顔がぶつかって、今自分がどうなっているのかもわからない。

「遠回りさせやがって、待ってやったのに何様だお前」
「あ、あの、え、待って」
「くだらねえな、さっさと吐け。お前俺の事好きだろうが」

 無意識に肩が揺れて呼吸を止めた。急に饒舌になった冴ちゃんに脳みそをフル回転させてもなんの話しか分からなくて混乱するばかり。急にぶち抜かれた図星にさっと血の気が引いていく。ああ、嘘だ。そんなはずないと思ったのに。

「き、こえてたの……」
「聞こえ無かったから聞き返したんだタコが。お前の言いてえことなんか目で分かんだよ」

 怒ったようにも呆れているようにも聞こえる声に焦りか不安か、冷や汗が吹き出してくる。そんな私を構いもせずに冴ちゃんは捲し立ててくるから言い訳すらも上手くできない。目でわかるなんて、そんなの知らない。冴ちゃんの目にはどんな風に私が見えていたんだろうか。ひけらかすことも出来なかった純情が、隠すことすらままならなかったということか。随分滑稽なことに思えて途端に恥ずかしくなるばかりだった。

「めんどくせえな、やめだやめ」
「っ、ん……!?」

 冴ちゃんの手が伸びてきていきなり顎を掴まれる。降ってきたのは唇で、想像すらしていなかった冴ちゃんの言動に身体を強ばらせることしか出来ないでいた。
 生ぬるい体温に初めての柔らかな感触。ぎゅっと身体を縮こませながらされるがままに唇を短く合わせられて死にそうだった。わかんない。何が起こってて、何がしたいのか。ぜんぶ。
 出来事に集中しすぎて花火の音も気にならない。私はようやく開放された唇を信じられない思いで撫でた。

「情緒だのムードだの順番だの、付き合ってられるか」
「……な、に……それ……」
「健気なところは見てて飽きねえが、意気地無しに付き合ってらんねえんだよ」
「っ……!」
「大体バカなのか? 家に男を呼ぶなんて、どうかしてるだろ。それが出来てなんで何足踏みしてんのか分かんねえんだよ」
「そんなつもりじゃ」
「お前他の男も上げてたら殺すぞ」
「ち、ちが……!」

 かっと顔に熱が集中して言われていることの真意を察する。バレバレだった上で、付き合わせていたらしい。そんなつもりは勿論なかった。自然を装ったはずだった。でもこんな言われ方、まるで冴ちゃんが上手く私にチャンスをくれたみたいな。
 冴ちゃんの舌打ちにああもう駄目だと何度目かの諦め。言い訳するのはもう無理だ。うじうじしていたら勝手に腹を括られた。冴ちゃんの手が私の頬をさらりと撫でるのと合わせてけたたましく何度も花火の音が轟く。

「もういいだろ、俺のモンで。お前が頷けば全部済む」

 疲れたような声にどきりと心臓が揺れたあときゅっと締め付けられる。
 もういいだなんてそんな諦めた口ぶりに相反して、取り留めないほどに願い続けた関係性。

「……さえちゃん、私の事、好きなの」
「まだ言わせんのかお前」
「だって、だって」
「……待ってやったんだ。肯定以外寄越すなよ」

 信じられなくてめんどくさい事を言ってしまったのは、あれだけ願ったくせにそうなる未来を思い描いたりしなかったからだった。果てしない片想いの終わりをこんな形で迎えるはずなかったからだ。わかりやすい言葉を欲した私に向かって冴ちゃんは大きなため息をついた。

「好きだ」

 もう駄目だ、今度こそ泣いてしまう。
 じわりと滲んだ視界でも冴ちゃんが私を見つめているのはちゃんとわかって、空に弾ける花火の色が何色なのかをその輪郭の色で知る。

「ほんとうに?」
「わざわざ俺が花火見に、お前の家まで来ると思うか? こんなクソ便利の悪いとこ」
「……た、しかに……」

 震える声で確かめて、あまり甘くない言葉に絆される。悪態ぶった言葉を裏返すのは得意だった。昔から、冴ちゃんのくれる優しさの全部がそうだったせい。
 ぽろぽろ零れる涙を冴ちゃんの指先が掬ってくれる。その指先に甘えて私はただ泣きたいだけ泣くことにしてしまった。

「ほんとは、お祭りに誘うつもりだったの。ゆかた、着て。冴ちゃんに好きって言って、手を繋いで帰りたかったのに、何にも出来なかった」
「……別に今日が最後の夏じゃねえだろ」

 懺悔にも似た後悔を語れば冴ちゃんは優しい声で私を宥める。最後だと思っていたから後悔していたのに、最後じゃないと教えられて目を見開けば「間抜けな顔」と鼻で笑われた。
 結局何もできなかった私に降りかかったのは、魔法みたいな季節だった。

「色は?」
「え?」
「浴衣」

 冴ちゃんの手が私の手のひらをぎゅっと握って、泣き続ける私を受け入れるように、まるで世間話をするみたいに問いかけてくる。
 素直に返事をするのはどこか気恥ずかしかった。散々悩んだくせに、結局決決め手になったのは色だったからだ。ごにょごにょ言い淀む私に「クローゼットひっくり返してやろうか」と脅すように笑った冴ちゃんに観念して「……あ、ずき色……」と呟けば、長いまつ毛を少し伏せた冴ちゃんが「悪くねえ」と満足そうに言った。

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