時々、不安になる。本当に、時々。
『――大人な女性、ですかね』
膝を抱えてソファーの上、大きすぎるテレビと広すぎるリビング。ぼんやりと眺める液晶に映るのはこの家の主。彼の帰りを待つこと数時間、彼が事前に私に知らせていた帰宅予定時刻まで間もなく。
明日は彼の休養日だ。練習も仕事もない休日を一緒に過ごそうと彼に誘われ、渡されていた合鍵を使ってこの家に先に帰ってきたのは私。セキュリティ万全で一人暮らしをするには広すぎるこの家は、かの有名な御影コーポレーションが持つタワーマンションの一室だった。此処に来ることにももう慣れて、合鍵を使うことにも何の抵抗もなくなった。なんなら一人暮らしの自宅より、ここに居ることの方が圧倒的に多くなった気がする。合鍵を渡されるほどの関係、テレビに映る御影コーポレーションの御曹司にしてプロサッカー選手である御影玲王は私の恋人だった。
『というと、自立した女性ってことですか?』
『まあ、そうですね。落ち着いていて自分を持っている、というか』
『流石御影コーポレーション御曹司ってかんじですね』
『いやいや、それは関係ないですよ』
サッカー選手でありながら、御曹司として会社のこともこなす彼の愛想は一級品だ。ファンサービスも欠かさない彼にはたくさんのファンが居て、学生の頃は学校の女の子たちが勝手に作っていたファンクラブも今じゃ公式の物が存在する。
どこを取っても彼には有り余る物があって、世間の誰もが彼に注目している。かっこよくて、お金持ちで、サッカー選手で、なんでも出来る、絵に書いたってそう上手くはいかない程の人物。それが私の恋人だった。
「……大人……」
大人な女性ってなんだろ。年齢だけで言えば私も大人に当てはまるけど、そういうことが言いたいんじゃないんだと思う。だからこのインタビュアーの人も聞き返したんだと思うけど。
好きなタイプを聞かれた玲王の答えに頭を抱える。玲王と付き合っているのは私であるからして、玲王の好きなタイプは私なのでは、なんて烏滸がましいにも程があることを考える。玲王は外面を使えるタイプの人間だから、ビジネストークの一つでしかないかもしれないけれど、仮に私が好きなタイプを聞かれた時、真っ先に浮かぶのは玲王の顔だ。私はきっと玲王のどんなところが好きかを考えて言葉にすると思う。と、なれば玲王はそうじゃないのだろうか。
大人な女性がタイプだと言って、自立だとか落ち着いているだとか、自分を持っているだとか、少しづつその像が噛み砕かれていくにつれて果たしてそれは私に当てはまるのだろうかと考える。
合鍵を渡されてからの自分はどんどん自立とは離れて言っている気がする。掃除も洗濯も食事すらも、この家では私が手を出すところではない。ばあやさんを始めとした色んな人が、それをお仕事としてこなしてくれてしまうからだ。食事だって、スポーツ選手の玲王に合わせたものを私が作れるはずもなく、自己管理の一環として全て玲王が手配してしまっている。つまり私はここ、玲王の家に転がりこめば何一つ不自由しない生活を甘受できてしまうのだ。玲王の恋人というだけで、私はなんにもしないことを許されてしまうのだ。
「たーだーいーま!」
「! びっくりした、おかえり玲王」
「返事ねえから寝てんのかと思った〜」
ぼんやり思い耽っていたところに家主の帰宅。背後から回ってきた腕に驚いて心臓が飛び跳ねた。少し首を捻れば疲れを感じさせない弾けるような笑顔が視界に飛び込んでくる。優しい眼差しから伝わるのはとてつもない好意だった。
私はちゃんとわかっている。私は多分、世界で一番玲王に愛された人間だと思う。玲王の言葉や行動、あらゆる判断全てが私を愛しているのだと頻りに伝えてくるから、玲王が「大人な女性」がタイプだと言ったって愛されているのは私に変わりないのだと。
「風呂入ったのか〜? 俺一緒に入りたかったのに……」
「雨に濡れちゃったんだもん」
「は? お前またここまで歩いてきたのか? も〜車呼べって言ってるだろ〜?」
「私がここに来るのに玲王の家の車を呼ぶのは意味わかんないじゃん」
「わかんなくないの! わかるの! 何かあったらどーすんだよ」
「何にもないよ」
「なくないだろ? 実際雨に濡れたんだから!」
「それは何かあったに入らないでしょ!」
私を抱きしめたまま玲王はこめかみに、耳に、首筋に頬に、小さなリップ音を立ててキスをする。くすぐったい愛情表現に身じろいで玲王の方へと振り返れば今度はおでこにキスをされた。
「明日は絶対一緒に入ろうな?」
「え〜」
「いや?」
「んふふ、いいよ」
「ぜったいだぞ? 約束な?」
じゃれついてくる玲王に腕を伸ばしてぎゅっと抱きしめ返せばいよいよ唇にキスをされた。世間は知っているのだろうか、こんなに甘やかな御影玲王という男の人を。きっと想像に容易いだろうな、だってこんなにカッコイイし愛想がいいし、王子様みたいだし。知らなくたってイメージしてしまうだろうな。玲王のファンの女の子はきっと皆こんな玲王を簡単に思い描いて、こんな玲王を知ったら想像通りだったって喜ぶんだろうな。きっとその想像の中に私みたいな一般人は居なくって、妄想の範疇として自分を当てはめてみたり、思い思いの「相応しい人」が居るんだろう。玲王の言った「大人な女性」がそこに居るのかもしれない。
「……れお〜」
「ん〜?」
「玲王の好きな人ってわたし?」
「……はあ?」
抱きしめ合ってゆらゆらゆっくり左右に揺れながら問いかけた、私の言葉に玲王はぴたりと動きをとめた。わかりやすい疑問の声をあげたあと、玲王は優しく私の肩を掴んで目が合うように身体を離す。さっきまでふにゃふにゃと柔らかく微笑んでくれていた玲王が今度はぎゅっと眉間に皺を寄せて私に疑うような強い眼差しを向ける。
「何だよ、何かあった? 誰に何言われた?」
「何も……ただ気になって」
「何もねえワケなくねぇ? お前が不安になるようなこと言った奴誰? 俺に教えて」
玲王の真剣な声色が脳まで響く。別に、誰にも何も言われていない。玲王が気にするようなことは起こっていないけど、玲王は完全に誰かのせいだと決めつけていた。
「……強いて言うなら、玲王?」
「……お、おれぇ!? エッなんで何で!? 俺何言った何した!?」
ただ一言、玲王の好きな人が私であるという言葉が聞ければそれで良かったのに、玲王の様子からして結局事の一部始終を話すしかなくなりそうだと察した私は責任の所在を思考した。結果、まあ強いて言えば玲王本人の発言に所以するかと素直に言葉にすれば、玲王は真っ青になって慌てだした。
「何がお前を不安にさせた? ごめんな、俺気づいてやれなくて、俺が愛してるのはお前だけだしお前しか居ないしお前以外必要ねえから」
「わあ熱烈」
「ほんとにごめん、全然思い当たる節がねえんだけど不安にさせたってことだよな? マジで俺何したんだよ……」
一人で早口になって喋りだした玲王に圧倒される。うん、やっぱり私は彼に一番愛されていると思う。ちゃんと分かっている。分かっているし、伝わっているけれど。
『――本日のゲストは御影玲王選手でした!』
放ったらかしにしていたテレビから聞きなれた名前が放たれて二人揃って意識が少しそちらへと揺れる。どうやら番組は終わってしまったらしい。録画してあるから別に構わないけれど、改めて見直すかと言われると今の心境としてはノーだった。
「……大人な女性」
「……え?」
「玲王の好きなタイプ、私とはちょっと違う気がして」
慌てて私に愛を伝えてくれる玲王に少しだけ安堵しつつ、隠すことでもないかと見聞きした通り、感じたとおりに言葉を並べる。
決して疑っているわけじゃない。疑う余地も無いほどに、彼は私をここに呼び時間の許す限り傍に居る。サッカーをしているか、私と居るか、そのどちらかしか無いのではと思うくらい彼の時間の中に私は存在しているのだから。
ただ、時々不安になるのだ。本当に、時々。いつまでも彼に一番に愛されるのは私なのだろうかと。数多の可能性の中から、いつまで私は選んで貰えるのだろうと。
「……ああ……あー……そんな話したな確かに……」
「ごめんねビックリさせて」
「……俺の事疑ってるか?」
「まさか、全然。ただちょっと、私は玲王の好みとは違うのかなって思っただけ」
「そんなわけないだろ〜!? 世界一お前が可愛いし俺好みだっての!」
「わあ大きな声」
私の不安の根源を理解したらしい玲王はヤケクソとばかりに弁解しだしてその勢いにつられて思わず笑ってしまった。玲王は大きなため息をついて深呼吸をした後また私をじっと見つめた。
「……なんで自分じゃないって思ったんだよ」
「え?」
「俺のタイプ聞いて、なんで自分だって考えなかったわけ?」
「ええ……だって私大人だけど、大人を語れるほど立派じゃないっていうか……なんなら最近は玲王のお陰で自立してるかすら怪しいし……」
自分で話していて情けなくなっていく。もう立派に大人と数えられる年齢になって少し経つというのに。
玲王は黙って私の言葉を聞いたあと、何度か目を瞬かせて大きくて長いため息を一つつき、がっくりと肩を落としてしまった。
「お前なあ〜〜〜……わかんねえの?」
「え?」
「俺がお前をそうさせたくてしてるって、わかんねえの?」
玲王は少しだけバツが悪そうに私に問いかける。なんの事かさっぱりわからない私は首を傾げることしかできなくて玲王はまたため息を吐いた。
「……俺が居なくても生きてけそうなお前を、俺が居なきゃ駄目にしたいの、俺は!」
「へ」
「何をするにも俺の助けが必要で俺に甘えて生きて欲しいんだよ」
玲王はどこか言いづらそうに視線を少しうろうろさせたあと「わかったか?」と念押してきた。
「……つ、つまり?」
「つまり、俺はずっとお前の話してたってこと!」
「……うそだあ!」
「嘘じゃねーの! あーもう! わかったって言え! そんでもって俺に死ぬ気で甘やかされてろ!」
てっきりテレビでの発言はビジネスとしてのアンサーだと言われるのかと思えば、私のことを思って語っていたと言う。なかなか信じられない玲王の言葉に疑いの声をあげれば、ヤケクソの玲王が私を勢いよく抱き締めて私にお説教するみたいに言う。ツッコミどころの多いお説教にやっぱりどういう事かわからず「うーん」と唸ると「わかったって言え!」ともう一度言われて頭をぐりぐりと擦り付けられて懐かれた。
「うーん、わかった……?」
「わかってねえ声〜」
玲王の言葉に首を傾げながら「だってよくわかんないんだもん」と言えば玲王はまた大きなため息をついて至近距離で私をみつめる。
「俺無しじゃ生きらんねえようになって」
拗ねたような声でとんでもないことを呟かれた後、玲王はちゅ、と音をたてて啄むようなキスを何度かくれた。
時々、不安になる。本当に、時々。でもその不安が杞憂に終わるのは、やっぱりこの人に愛されていることをよくわかっているからだと思う。いや、分からされるからだと思う。
玲王は私を駄目にしたいらしい。玲王が居ないと生きていけないようになって欲しいらしい。それは玲王の言う大人な女性とは少し違う気がするけれど、玲王は私と同じように、私を思って言葉にしていたらしい。それら全部が取り繕われたものでないことなんか明白だ。スマートでかっこいい、愛想抜群な御影玲王は今ここに居ない。慌てて弁解して、ヤケクソになってわけわかんないこと言っちゃう玲王しか今ここには居ないのだ。
やっぱり私は、この御影玲王に世界で一番愛された人間だと思う。
「そんなお願いされなくても、玲王が居なくちゃ寂しくて死んじゃうよ、私」
玲王は私の言葉を聞いたあと「お前どこでそんな殺し文句覚えてくんの? 俺の決め台詞を超えていくなよなあ……!」と困ったように眉を下げながらも、嬉しそうに吹き出して笑った。
晴れ、時々雨にも燦々