プロローグ・ストレイ・ラヴ




 嘘でしょ、なんて彼女は言葉にしなかった。まだ布団を欲する身体を叩き起した彼女が起き抜けにつけたテレビでは、見慣れた朝の情報番組で爽やかなアナウンサーが「おめでたい事ですけどね」だなんて笑っていた。彼女はそれをただ呆然と見つめていた。

『祓ったれ本舗五条悟、熱愛か』

 朝一番に飛び込んできたビッグニュースに彼女はなんの感情も抱かなかった。
 まあそりゃそうか、彼は人気者だし。なんて他人事のように思ってすら居た。悲しさも嬉しさも何にも無かった。
 長く付き合い身体をも重ね合った恋人と、今人気絶頂に居る女優の熱愛報道に、納得すらしていた。

 彼女があの五条悟と恋人関係にあることを知る人間は、相方である夏油傑を除いて一人と居ない。仮に居たとしてもそれは五条の仕事を管理する事務所の人間に留まるだろう。しかしそれも恋人が居る、という程度の認知であると彼女は知っていた。何故ならば彼女が彼の仕事に関わる人間を、夏油傑以外に知らないからだった。
 だから五条悟の熱愛報道において、彼女に連絡を寄越す人間は居なかった。きっと日本中には五条悟の熱愛報道に嘆くファンが沢山居て、祝う人間も沢山居る。彼女はその中の一人にはなれなかった。なりたいとも思えなかった。なれるわけもなかった。
 彼女はテレビを消して冷たいフローリングを素足で歩き、身支度を進める。この世界において、五条悟と彼女にはなんの関係もないのだ。だから昨日と変わらない日々を、彼女はこなしていくしかなかった。



「五条悟、遊び歩いてるって噂だったけど違ったんだね〜」
「絶対夏油傑の方が先に結婚すると思ってたのに〜」
「結婚秒読みってネットニュースに書いてた!」

 激務に追われながらもありついた昼食で、彼女の周りを取り囲んだのは朝のニュースだった。仲の良い同僚達は思ったよりミーハーで、朝のニュースを話題の頭に置いた。
 彼女は昨晩のうちに作っておいた弁当から箸を使っておかずを口に放り込む。ぼんやりと同僚の話を聞きながら、空腹を満たすためだけに咀嚼する。自分で用意した昼食を不味いとも美味しいとも思わずに。

「五条悟と夏油傑だったらどっち派?」
「え〜絶対夏油傑!」
「私も〜!」

 周りの人間全員が、全部が他人事だった。それもそのはず、彼女は他人なのだ。五条悟という人間に対して、彼女はこの世界では他人以外のなんでもない。だから同僚達の不躾な質問にも笑って相槌を打つしか無かった。
「アンタは? どっち?」会話の矛先が自分に向けられた彼女は、口の中にいれていた物をごくりと飲み込んで「ん〜」とわざとらしく悩む素振りをした。

「……五条かな」
「えー! 意外、絶対夏油だと思った!」

 彼女は同僚の楽しげな声に「あはは」と空っぽのまま笑って見せた。
 今日ほど彼女の周りに五条の話が溢れたことは無かった。


◇ ◇ ◇ ◇


「……つかれたな」

 鍋を混ぜながら呟いた声は少し掠れていた。
 いつも通り仕事を終え、いつもと同じ帰路につき、いつもやっている通りに家事をこなす。彼女の生きる日々の中で、なんら変わりない一日だった。鍋の中には数日前に買い込んだ食材がぐつぐつと煮え立つ。元々今日はカレーにしようと彼女はずっと決めていたのだ。明日は待ちに待った休日で、明日の自分を甘やかすために疲れた自分をさらに酷使した。彼女は少しの苦労を幾つかに分けるより、この日に頑張ると心に決めて鞭を打ち、この日に休むと心に誓った日にまとまって飴を貪るタイプの人間だった。一人暮らしの彼女には些か大きな鍋もそのためだった。今晩、そして明日飴を貪る彼女のための食事だ。出来たてのカレーが一番美味しいと思っている彼女は、時間が経つほどカレーは美味しくなるなんて正直思っちゃいないが、日を跨いで食べることを良しとされたこの料理こそ休みを謳歌するのにぴったりだった。
 彼女は生きることが上手い方だと自覚していた。周りの空気を読むことも、器用に仕事をこなすことも、自分が賛同できない事柄に対して相手の機嫌を損ねぬようにうまく躱すことも、難なくこなしてきた。今日という、世間にとって何の変哲もない一日を上手く生き延びたのもそのお陰だ。誰にも悟られぬように自分の城まで帰ってきた。
 彼女は打ちのめされることに強かった。強くなってしまった。だからこうして、彼女がずっと立てていた予定通りの献立を遂行している。
 彼女が鍋を混ぜ始めてどのくらいの時間が経っただろうか。彼女はただぼんやりと、その鍋を見つめているだけだった。疲れていたのだ。無理もない、一人暮らしで仕事をこなし家事をこなし、誰だって疲れるに決まっている。その上恋人の熱愛報道、彼女の疲れを理解出来る人間はこの世に居ない。たった一人、この地球の上に立っていた。
 それでもなお、彼女は今日一度も泣かなかった。何のミスも起こさなかった。至って平穏無事な一日だった。彼女が弱音を吐いたのは先程零した一言だけ。よくやったと褒められて然るべきだろう。
 彼女はそんな自分を、少しばかり悲しく思っていた。これが大人になったということであれば、なんと人は寂しい生き物なのか。
 ニュースを見ていの一番に恋人に連絡を取る事だってできた。どういうことだと捲し立てて思いつく限りの汚い言葉で罵ることだってできた。泣き喚いて縋り付くことだってできた。唯一の共通の知り合いである夏油に真偽を問うこともできたはずだった。でも彼女はどれも行動には移さなかった。そんなことを、あの瞬間悩みもしなければ考えることもしなかった。
 彼女は自分が「選ぶ側の人間」ではないと本能的に自覚していた。恋人である五条悟が「選ぶ」方に従うしかないと、頭が勝手にそう理解していたのだ。
 生きる世界が違うのだと、いつの間にか弁えてしまっていた。むしろ今日という日を迎えるまで、あの五条悟に選ばれていたことが奇跡だったのだ。あの五条悟の人生に、名前のない登場人物として淘汰されて当然だったのに、名前を呼び合い手を繋ぎ、唇を合わせて身体を重ねた事実こそ非現実的なまでに身分不相応な出来事だったのだ。彼女の脳は考えることをしなくとも、殆ど本能でそう納得していた。だから自ら真偽を確かめる事をしなかった。彼はきっと、そういう事を疎ましく思うだろうから。
 彼女が悩みもしなかったのは、長い付き合いの中で完全に染み付いてしまった「五条悟」という人間性に順応した「答え」だった。彼女はそんな「自分」をちゃんと「自覚」しているわけではなかったが。

「……こんなものかな」

 彼女はコンロの火を消してもう一回りカレーを混ぜて手を止める。立ち込める匂いに食欲そそられるものの、あまり気分は上昇しなかった。
 まるでそれが義務であるかのように食事の支度をテキパキと進める。深めの皿を取り出して炊飯器の蓋をあければ、ぶわりと舞い上がる湯気に一瞬目が眩んだものの、彼女はしゃもじを手に取り白くつやのある米をほぐして皿に盛る。仕事に疲れた日はいつもご飯を楽しみにしていた彼女も、今日ばかりはどうでも良さそうだった。相変わらずキッチンに充満するカレーの匂いに心惹かれることはなく、ただただ「それがいつも通り」だから進められていく。業務的なその作業に彼女は面倒くささまで感じていたほどだった。
 キッチンの電気を消してカレーの盛られた皿とスプーンを持って部屋の中央に置かれたテーブルに着く。一人暮らしの彼女の部屋に大きなテーブルはない。それでも恋人と夕飯を共にできるくらいのものを選んでいた。
 彼女は座った途端、飲み物をまとめて持ってくるべきだったかと思い忘れ物をしてしまった朝のような気分になった。面倒くささが勝利してまあいいかと彼女は思い直し、そのままスプーンを手に持った。
 無音の部屋に響くのはスプーンと皿がぶつかる音だけだった。デジタル時計しか置かれていない彼女の部屋には時計の針の音もない。天気の良かった今日は風の音も雨の音もない。こういう日に限って彼女の住むマンションの部屋を中心に上下左右の部屋からは生活の音もしない。本当に疲れているのであれば心休まる状況かもしれないが、彼女は気を紛らわせたくて堪らなかったのだ。自分のことばかりを考えてしまうから。
 ままならなくて思わずテレビのリモコンに手を伸ばして電源をいれる。ついた番組はバラエティだった。ゴールデンタイムにあたるこの時間はバラエティ番組が視聴率を取り合っているものだ。芸能人が二つのチームに分かれて様々なゲームに取り組みその点数を競う、気に入っている番組というわけではないけれど、どんなものかはよく知っているテレビ番組にまあこれでいいかとチャンネルを放置した。バラエティ番組は今の彼女にちょうど良かった。赤の他人の楽しそうな笑い声は、ほどよく静寂を殺してくれるからだった。
 バラエティ番組を流し見しながらまたスプーンでカレーを掬って口に運ぶ。作り慣れた味に感動こそしなかったものの、身体はそれを受け入れるように穏やかに咀嚼した。

『さて、今夜のゲストは若い世代から絶大な人気を誇るお二人です!』

 司会者の言葉にそっとテレビを確認すれば少しばかり大袈裟な演出を経て見知った顔が登場した。なんとタイミングの悪いことだ。彼女はぼんやりとそれを見つめながら「あーあ、最悪だ」と心の中で独りごちた。

『祓ったれ本舗のお二人でーす!』
『こんばんは』

 彼らの登場に黄色い歓声が湧く。気晴らしにつけたテレビにむしろ気分を落とされるとは思っていなかった彼女は食事の手を止めてしまった。

『俺たちよりアイドルっぽいよね』
『いやまさか、そんなことないですよ』
『間違いなく芸人のハードルを爆上げしてる』
『俺たちがアイドルなんかやったらあっさりテッペン取れちゃうじゃん』
『五条さんに言われるともう何にも言えないんだけど!』

 夏油が愛想良く返し五条が自信満々に裏表のない言葉を吐くのはいつもの流れだった。どの番組に出演しても夏油は愛想良く、五条は素直なまま受け答えする。相手が誰であっても二人はいつもそうだった。
 彼女は出演者たちの会話をぼんやり聞きながら、その全ての会話に共感した。お笑い芸人にしておくなんて勿体ないと、ミーハーな同僚が騒いでいたことを思い出す。ルックスの良い二人はお笑いの仕事以上に女性向けの仕事が多かった。それが嫌だと彼女は思ったことは無い。そりゃそうだと納得もしていた。目立ちたがり屋な彼にはぴったりだとも思っていた。
 彼らが喋る度に笑いが起こるスタジオは楽しそうに見えた。彼女は大きなため息をひとつ零す。テレビなんて消せばよかった。それが出来ないならチャンネルを変えれば良かったのだ。
 それをしなかったのは結局、惚れたものの弱みなのだ。

 彼女は結局ただぼんやりとその番組を見続けた。かわりに食べかけのカレーは完全に冷えきって膜を作ってしまっていた。この番組の後は長く続いてる夜の報道番組だ。どうせ流れる内容は今朝と同じだろうと思い彼女は漸くテレビのリモコンに再び手を伸ばした。
 液晶がリモコンから送られる信号を元にぷつりと消えれば部屋に静寂が帰ってくる。もう食べ進める気のないカレーを彼女は見つめてまたため息を吐いた。

「……もういっか」

 彼女はゆっくり立ち上がり皿を手に取りキッチンへと運んだ。目指す場所はシンクだ。食べ残してしまったカレーを処理するために、彼女はまた日常生活へと戻った。
 明日は念願の休みで飴を貪ると決めている。今日何を放ったらかしにしたって明日に回しても困らないが、彼女は明日の自分を甘やかすためにテキパキと手を動かした。
 残飯を綺麗に処分して流れ作業で食器を洗う。あとは入浴を済ませてしまえば布団に潜って一日を終えることが出来る。いっそそれすら明日でも良いかもしれないと彼女は思考を巡らせた。疲れに素直になってズボラに夜を越えるかどうか、食器を洗う手を止めずに考えた。

 この日、彼女のスマホに恋人から連絡が来ることは無かった。彼女はそれを悲しむでもなく、ただただ事実として受け止めていた。疲れた身体に鞭を打ち、あくまでも彼女の生活は傾くことなく進んでいた。
 五条悟という人間と恋人関係にあることが、もしかしたら長い夢だったのかもしれないと、彼女自身も驚いてしまうほど冷静に整理し始めていた。今日ほどテレビの向こうに映る恋人が、遠くに感じたことは無かったからだった。
 それでも彼女は怒りも悲しみもしなかった。確かにそこに、愛があったからだった。まだ彼を、信じていたからだった。


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