某日から三日後 午後六時八分 高専校内

「や、久しぶり」

 廊下の突き当たりを曲がろうとした瞬間、いきなり目の前に現れた人間に目が飛び出そうになった。

「! す、傑だ……!」
「おっと危ない」

 手に持っていたあらゆる報告書や資料が床に向かって滑り落ちていきそうになったのを軽い動作で受け止めてみせた彼は、いつも通りにこにこと笑っていた。
 夏油傑、私たちの同級生は長らく出張に出ていた。詳しくは知らない。特級の任務なんか二級の私には縁遠い話で、いつの間にか長期の出張が決まっていて「急なんだけど明日からしばらく出張なんだ」なんて言われた。そんなものだ。悟の出張だっていつもいきなりだったから、驚きはしたものの、動揺はしなかった。行くのが突然なら帰ってくるのも突然なのかな。帰ってくるのはずっと先だと思っていた。

「お、おかえり……!」
「ただいま」
「え、えっと……げ、元気にしてた……?」
「うん、まあ見ての通りだよ」

 どうにか都合をつけて出張を見送った日から傑の見た目に変化は見受けられない。たまに連絡を取っていたものの、私よりきっと傑の方が忙しいだろうから私から連絡することはなかった。かわりに悟は物凄く頻繁に連絡を取っていたみたいで、傑の近況は大体悟から聞いていたくらいだ。
 硝ちゃんから帰ってくると聞かされてはいたものの、なんの心構えもして居なかった私は本物を目の前になんて声をかけるか悩んだ。

「そ、そか……! 元気なら何よりだね!」
「ありがとう。……君は少し疲れてるみたいだけどね」
「……あー、……そうかな」

 傑が何も言わずに私の腕の中から全てを奪い取る。優しいのは昔から変わらない。頼まなくても必要以上に気にかけてくれる。必要ないと言ったってにこやかに制される。お言葉に甘えて傑の手を借りれば「どこまで?」と聞いてくれたから「伊地知くん」と素直に答えた。

「……嫌だったら申し訳ないのだけれど、実はもう知っていてね」
「……そっか、まあそうだよねえ」

 ゆっくりと一緒に廊下を進んで階段を上る。
 もう知ってるんだ。そりゃそうだ、悟の親友なんだから。傑が知っているということに何の嫌悪もない。納得しているし、知られて困るとも思っていない。いずれ知ることになるのは分かりきっていたから。

「……悟が?」
「そう。あと硝子も」
「……硝ちゃん?」
「そう」

「悟のやつ、すごく雑でね」なんて言いながらため息をついた傑は歩くスピードを私に合わせてくれているに違いない。話を聞けば悟は傑にメッセージアプリでただ一言「ちょっと距離置くことにした」とだけ連絡して、それについてどれだけ追求しても返事は寄越さなかったらしい。

「心配して帰ってきちゃったんだ」
「……え!?」
「ああ、気にしなくていいよ。出張って言ったってちゃんと休みはあるんだから」

 階段を上りきってまた廊下を進む。優しい同級生は出張の合間にわざわざこっちに戻ってきてくれたらしい。なんてことだと信じられなくて大きな声が出た。

「やだ、ごめんね……! せっかくの休みに……」
「私が気になって眠れなかっただけだよ」
「いやでも申し訳ないよ」
「そう言うと思ったよ」

 少しずつ目的地が見えてくる。これを渡してしまえば今日の私の仕事はほとんど終わりだ。伊地知くんに少し引き継ぎをすればいいだけ。

「この後、予定は?」
「……何にも」
「夕飯をご一緒しても?」
「……ありがとう、喜んで」

 傑の誘いにありがたく乗る。きっと最初からそのつもりで私を探してくれていたんだろうな。
 そんな傑の優しさに心の内側で感謝していたら「何が食べたい?」と傑が聞いてきた。らしくもないかもしれないけど「傑のごはん、久しぶりに食べたい」と素直に言えば「喜んで」とクスクス笑ってくれた。ちょっとだけ、ほっとした。




某日から三日後 午後七時五十七分 自宅リビング


「そっか、じゃあ君もまだ何も知らないんだね」
「うん、そう。話さなきゃ分からないとは思ってるんだけど……」

 何ならあの日を最後に姿を見てもいない。
 傑に素直に全部話せば「全く悟は」と呆れたように言った。
 手際よく作られた夕飯はオムライスだった。と言うのも、出張から帰ってその足で高専に私に会いに来た傑の家より私の家の方がいいだろうという話から「家に残ってるものは?」と聞かれ「なんにもないよ、卵とご飯と……使うつもりで放ったらかしになってるミックスベジタブルくらい……」と答えたら「じゃあオムライスだね」と流れるように決まったのだ。買い物に行っても良かったけれど、傑は「聞きたいことがたくさんあるからね」とその時間さえ惜しんだ。
 ほとんど空っぽの冷蔵庫の中から使えそうな食材をいくつか出して作られた夕飯は立派なものだった。たまたま残っていたものたちで作られたオムライス、コンソメスープ、有り合わせの野菜でできたザク切りのサラダ。どれも美味しそうで久しぶりにお腹がすいたなと本気で感じた。
 私と悟がここに住み出してから何度も何度も遊びに来たことのある傑は何をするにも許可を取るけれど、どこに何があってどうやって使うかほとんど全部知っているから私の出る幕は無かった。
 いつもならダイニングテーブルで食べる夕飯を今日は傑と二人だからリビングで好きなところに腰掛けてつつく。ソファーに座るよりラグの上に座る方が落ち着く私は床に、傑はソファーに。悟がいつも定位置で座っていた所のすぐ隣に座った傑は、この部屋の中に確かに悟の気配が残っていることを知らしめるみたいだった。

「悟とは私が一回話をするよ」
「……巻き込んじゃうよ」
「巻き込まれるために帰ってきたんだって」
「そうだった」

 傑は困った素振りも見せずに軽い調子で笑う。全然楽しい話なんかしてないのに、こっちの方が調子が狂いそうだった。

「で、差し当って君の気持ちも聞いておかなきゃならないなと思ってさ」
「……わたしの」
「そう、君の気持ち」

 綺麗に巻かれたオムライスが少しずつ減っていく。少しだけ残っていたバターがライスに程よく効いていて、なんとなく甘やかすような優しさを感じた。

「……えと、何から言えばいいか」
「そうだね、じゃあ私から質問してもいいかな。言いたくないことは言いたくないと言ってくれて構わないよ」
「……わかった」

 オムライスを食べていたスプーンを一度置いて傑からの質問を待つ。何を聞かれたって素直に答えるだけなのに、少しだけ緊張した。

「悟のこと、まだ好き?」
「好き」
「はは、即答」

 一番最初の質問は、一番シンプルなもので、悩む必要もないものだった。
 傑は声に出して笑ってから手に持っていたお皿とスプーンをテーブルに置いて私を覗き込むように身体を倒して自分の膝に肘をついた。

「悟に帰ってきて欲しい?」
「帰ってきて欲しい」
「なんで?」
「……なんでって、好きだからだよ」

 傑はいつも通り優しく笑いながらも捲し立てるように続ける。なんでと問う傑はどこか私を試しているような気がして、新卒採用の面接かと思ってしまった。そんなの受けたことないけど、傑の笑顔に含みを感じて「正解」を答えなきゃいけないような気がする緊張感がそれを思わせた。

「悟が帰ってきたらやらなきゃならない家事が二倍になるのに?」
「それは私がやりたくてやってるんだって」
「なんでやりたいの?」
「なんでって、そりゃ悟が好きだからだよ」
「悟が好きだから、そこまでしてあげるの?」
「……そうだよ」

 傑が何を聞きたいのかわからなくなってくる。繰り出される質問は私が想像していたものとは違う。
 まるで私の気持ちを確かめるみたいだった。偽りを暴くような、嘘を裁くような。何も悪いことしてないのに心臓がぎゅっとして息をするたびに苦しく絞まる。心音がいつもと違う音を立てて頭から順番に冷めていく。背筋に悪寒が過ぎっていく。思わず両手でスカートを握る。傑は一体、私から何を聞き出したいの。

「悟はそれを、君に頼んだの?」
「……頼まれてないよ。私がやりたくて、やってるから」
「そう。……悟はそれを喜んでくれた?」
「……喜んで、くれてたと……思うけど……」
「そっか」

 傑が飲みかけの麦茶に口をつけて飲み干す。私もどうしてか喉がカラカラだったけど、同じように喉を潤す気分にはならなかった。

「じゃあ、なんで悟は出てったんだろうね」
「……わかんない」
「喧嘩した?」
「してない」
「どうして?」
「……え?」
「あんなにたくさん喧嘩してたのに」

 傑が私をじっと見つめる。悟が学生時代変だと笑い飛ばしていた前髪がさらりと落ちて揺れる。切れ長の目は全部知ってるみたいだった。
 喧嘩してない。そう、私と悟は喧嘩なんかしてない。だから悟が出ていった理由がわからない。

「……理由もなく喧嘩したりしないよ」
「うん、そうだろうね。君はすごく真面目な人間だからね。でも悟は今でも君を怒らせるようなこと沢山するだろ?」
「……例えば?」
「使ったものを仕舞わない。遅くなるのに連絡しない。遅刻癖だって直ってないだろう? 君よりたくさん優先するものが悟にはあって、君をこの家に一人にする事だって多かったんじゃないかな。まあ、悟は見てくれがいいからモテるし、何もしなくたって悟が困ることは今後もないだろうね」
「……何が言いたいの?」
「我慢してるのは君の方なんじゃないかって話だよ」

 真正面から鈍器で殴られたみたいな衝撃だった。傑は少し困ったように眉を下げる。何もわからない私に教えるように続けた。

「君が、悟と喧嘩しないように必死になってるんじゃないかなってさ」
「……そんなことないよ」
「じゃあ言葉を変えるよ。君が悟に嫌われないために必死になってるように見えるよ」

 ずしりと胸のあたりが重くなって、気分が下がる。優しい声色で紡がれる言葉全部が突き刺さって抜けない重りみたいだ。

「ごめんね、言葉が少し強かったね。君を責めてるわけじゃないんだ」
「……うん」

 一体私はどんな顔をしていたのだろう。傑が苦笑いして私の頭を撫でる。大きな手は少しだけ悟を思わせた。誰かに頭を撫でられるなんていつぶりだったかな。最後に私の頭を撫でたのは多分、悟だったと思うけど。

「……君は私たちの中で一番負けず嫌いで、自分に自信がない子で、そのかわりに死ぬほど努力する子だから」
「!」
「自分に自信がないから、死ぬほど努力してるんじゃないかと思って。悟の隣に居るために、必死になってるんじゃないかって、そう思ってね」

 何かがストンと落ちていく。私の頭を柔らかく撫で続ける手が私の涙腺を刺激する。三日三晩泣いてると言っても過言じゃないのに人は感情を揺すぶられると、最後は涙となって落ちていく。悲しみも喜びも最後には涙になって体の外に放り出されてしまう。今私の目から零れている涙の正体はなんなんだろう。

「あんなに悟と喧嘩してたじゃないか。小さなことでも、悟が悪いことをしたら悟が非を認めるまで許さなかったじゃないか。そうやって悟と結ばれたんじゃなかったかな」

 傑が私の表情を伺うように前髪を退ける。私の視界を広げたその手がゆっくりとまた私の頭を撫でていく。

「いつの間に悟を最優先して生きるようになったんだい。一体いつから君はそうなっちゃったのかな。いつから一人で頑張ってたのかな。気づけなくてごめんね」
「す、すぐる」
「悟は君を嫌ってなんかないと思うよ」

 ポロポロと零れていく涙を傑がそっと掬ってくれる。「ごめんね、泣かすつもりは無かったんだけど」と一言付け足した傑は傍にあったティッシュを箱ごと私に渡した。

「……そう、かな」
「うん、多分ね。ちゃんと話を聞かなきゃならないとは思うけど、悟は君に休んで欲しかったんじゃないかな」
「……全然休めてないのに」
「そうだね、悟は馬鹿だからね。やり方を間違えたんだよ」

 悟が親友だと語る傑の言葉はどんな言葉よりも説得力があった。少しだけ悔しかった。私よりも悟のことを知ってるみたいだった。加えて傑は私より私のこともよく知ってるみたいだった。

「……硝ちゃんにも、似たようなことを言われた」
「なにを?」
「……悟が私を、物分りのいい女にしたんだって」
「ああ、ふふ。硝子らしい言い回しだね」

 昨日硝ちゃんに言われた言葉を思い出す。二人がそう言うんだから、そうなのかもれない。
 私は悟に対して背伸びをしていたのかもしれない。そんなつもりはひとつもなかったけれど、傑の言葉が身体に染み込んで実感のようなものを与える。仕事も、私生活も、悟に置いていかれないように、いつの間にか必要以上のことをしていたのかもしれない。

「私、悟は本当にすごいって思ってるんだ」
「うん」
「強いし、かっこいいし、優しいなって思うし」
「へえ、悟が?」
「うん、帰りが遅くなったりとか、任務の合間にお菓子買って帰ってきてくれたり、私が遅くなっちゃったらご飯の支度はいいから食べに出ようって美味しいお店調べてくれたり」

 傑に渡された箱ティッシュから一枚抜いて目元を拭う。些細なことで泣けてしまうくらい壊れてしまった涙腺のせいで目元はカサカサだからごしごし拭かずにそっと涙を吸い取るようにティッシュを当てた。

「……この家だって、私が住まわせて貰ってるようなもので、私一銭も出してないの。家賃も水道代も電気代も知らない。悟帰ってきてないのに、私は安全に暮らせてるの。出てった日もね、お金のことは気にしないでって言われた」
「悟はいい格好したがりだからね」
「ふふ、そうかもね。最初は申し訳ないし、情けない気もしたけど、そうやって悟に生かされてることがちょっと嬉しかったりもしたんだ。あの悟が、なんのメリットもなく私をこの家に置いてることが、ああ私悟のものなんだなって思えてさ」
「はは、君もやっぱり重症だね」
「そうなんだよねえ」

 傑の笑顔に唆されて勝手に口から色んな言葉が飛び出していく。誰にもこんな話したことなかった。私自身何も気づけていなかったから。

「……悟はモテるし、傑の言うように、私じゃない誰かと一緒になる未来だってきっとたくさんあるんだと思う」
「……うん」
「だからさあ、だから」

 大粒の涙が私のスカートに染みを作っていく。ぼたぼたと頬を伝って顎から落ちていくそれは少しだけ冷たい。

「わたし、悟に相応しい人になりたいってさあ……っ」
「うん」
「誰がみても、っ文句言われない、恋人になりたいって……!」

 そうか、そうだったんだ。

「私、頑張ってた……!」

 私、頑張ってたんだ。これっぽっちも気づかなかった。
 ぼろぼろ零れる涙を拭うのを辞めて、既にびちょびちょに濡れてくしゃくしゃになったティッシュをぎゅっと握りつぶした。悲しくて泣いてるんじゃない。辛くて泣いてるんじゃない。一生懸命精一杯背伸びし続けないと、悟に相応しいと思えない自分が恥ずかしくって惨めで泣いていた。
 自分で言葉にして初めて自覚する。ああやっぱり、身分不相応な恋をしたと。その差を埋めるために必死になっていた癖に、こうして出ていかれてしまうなんて、空回りもいいとこだ。結局私は、私のために生きていたに過ぎなかった。

「……うん、お疲れ様。ほんと、よく頑張ってたと思うよ」
「う、っぐす、……っ頼まれたわけでもないのに、勝手に頑張って、から回っちゃった……っ」
「そんなことないよ」
「悟、それがやだったのかな……っ」
「どうだろうね。解らないけどきっと、悟は何か気づいてたんだと思うよ。君のことが好きだから」

 傑がソファーを降りて私のすぐ側に座る。嗚咽が苦しい。子供みたいに泣く私に傑はただただ優しく声をかけた。

「やっぱり、私が悟と一度話すよ」
「……でも、」
「君は悟の思惑通り、一度ちゃんと休みな」

「ね?」と傑が私に言い聞かせる。
 本当に、悟は私を休ませるために出ていったのだろうか。それならそう言ってくれても良かったんじゃないかな。どうして上手くいかなかったんだろう。

「……悟、帰ってきてくれるかな」
「大丈夫だよ。私を信じて」

 頼りになる言葉が私に向かって降り注がれる。なんの根拠もないはずなのに、今の私は傑の言う大丈夫にすがりつきたい気持ちでいっぱいだった。
 私と話すより、傑と話す方が悟も話しやすいかもしれない。唯一、悟が自分で報告した相手なのだから。

「……ごめんね、頼ってもいい?」
「任せて。なんて言ったって、私は悟の親友だからね」
「……頼もしいね」
「ふふ、さて、冷めちゃっただろうから少し温め直そうか」

 傑が私のお皿を手に取って立ち上がる。座り込む私に「顔を洗っておいで」と言った傑がキッチンへと向かって歩いていく。

「勘違いしちゃだめだよ」
「……うん……?」
「誰も悪くないんだから。自分が間違えたなんて、そんな風に泣いちゃいけないよ」
「……傑……」
「君は言葉の通り、死ぬほど努力しちゃうからね。私は心配だよ」

 傑が冗談ぽく笑いながら言う。

「……ありがとう、傑」
「いいさ、私だって好きでやってるんだから。似た者同士ってことで」

 何にも解決しちゃいないけど、今日は少しだけよく眠れるような気がした。
 傑が温め直してくれたオムライスを食べ終わる頃には終電はとっくに過ぎていて、仕方ないから傑と寝落ちるまで夜通し映画を見た。
 学生の頃皆で見たB級ホラー。私はこれが大嫌いだった。傑と二人揃って「やっぱつまんないね」「こんな呪霊は飲みたくないね」と大笑いした。
 


某日より三日後 午前一時十一分 自宅リビングにて

背伸びでどこまで走れるか






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