某日から二日後 午前五時三十一分 自宅寝室

 アラームより先に目が覚めた。
 カーテンの隙間からぼんやり明るくなってきている空が見えて、まだ起きるには少し早い時間だと察せる。もう一度寝てしまおうか悩んだものの、昨日何もせずに寝たことが頭を過ぎる。
 疲れた日の夜は眠りがより深くなるのか、寝起きの気だるさみたいなものは普段よりマシな気がする。あくまで気がするだけで、科学的なことは何も分からないけど。
 スマホを手に取って時間を確認すればまもなく午前五時半。世間がもうすぐ一日を始める時間。昨夜セットしたアラームを解除して、通知を確認する。使い慣れたメッセージアプリを開けば硝ちゃんから「なんかあったら言いな」と短いけれど心配してくれているのがよくわかる一言。やることを済ませたら昨日のことも含めてちゃんとお礼を言おう。

 上体を起こしてぐっと伸びると一体何が鳴っているのかわからない音が体中から聞こえる。どれだけマッサージしても、気を使ってもなかなか万全にはならない肩こりとか、私もいい歳になってきたのだと思う。
 素敵なホテルを思わせる大きなサイズのベッド。世間的に見ても大きい悟が選んだベッドは私一人が使うには余りに余る。私三人分くらいあるベッドで、どうしても左側に寄って寝てしまうのはもう癖ってやつなんだろう。まあ、彼が帰ってきたとき困らないように、なんていう馬鹿な女の考えがなかったと言えば嘘になるけど。

 ベッドを抜け出して、昨日脱いでソファーに投げたままになっていた服を拾ってから洗面所に向かう。私は朝に強い方では無かったけれど、朝の家事をこなすには滑り出しが肝心だとこの数年で培った。
 起きたあと顔を洗ってしまえば、ぼんやりしていた意識はちゃんと活動的に動き出す。身支度を済ませてしまえばやらねばならない事に身が入る。起き抜けの気だるささえ乗り越えたらあとはなるようになるのだ。忙しい朝を制するためには、一番最初に元気を振り絞ればいい。
 洗濯機に服を放り込んで、いつも通りのコースで洗濯機を回す。使い慣れた洗濯機、毎日同じ洗いコース、大した確認もせずにボタンを押しても間違えることはない。
 洗濯機が動いてる間に取り込んだままになっている服をどうにかしなくちゃならないし、洗い物もしなくちゃならない。朝ごはんどうしよう、そもそも冷蔵庫に今何が残ってたんだったか。
 やることはたくさんある、さっさと済ませてしまおうと洗面台の前に立てば鏡に映る自分の顔が相変わらず酷いままで思わずため息を吐いてしまった。
 昨日も結局一頻り泣いてそのまま寝たから瞼が腫れたままだ。まあしばらくすれば元通りになるとは思うものの、今日も仕事なのになあと既に憂鬱になった。




「…時間、余っちゃったな」

 いつもより早く起きたから当たり前かもしれないけど、何もかも思っていたより早く片付いてしまったのは間違いなく今この家には私一人しか居ないからだろう。
 量の少ない洗濯物、何も散らかっていない部屋、一人分の汚れた食器、一人分の朝食。なにもかもいつもの半分以下なのだから時間がかかるわけがなかった。拍子抜けしてしまった。やるぞ、と意気込んだのに。
 冷蔵庫の中にほとんど何も入っていないから今日は買い物をして帰らなきゃと思いつつ、適当にこしらえた朝食を口に運ぶ。私一人だけなら、別にトーストとゆで卵でいいやと時間がこんなにあるのに適当に済ませてしまった。
 洗濯と合わせて開けたカーテンからは燦々と太陽の光が差してきて、爽やかなものだ。サクサクに焼けたトーストを咀嚼する音だけが部屋に響いて、なんだかもの寂しくてテレビのリモコンに手を伸ばした。

『今日はまさに、絶好のデート日和ですね!』

 朝の情報番組がタイムリーにも今日の天気をお知らせする。いつも朝はテレビを付けないから、所謂お天気お姉さんというものに私は詳しくないし、アナウンサーさんにも詳しくない。それでもテレビに映るお天気お姉さんは今日の天気にぴったりな明るい笑顔でそう言った。
 デート日和、そうか。今日は土曜日だ。呪術師にカレンダー通りの休みはないから、土日の特別感のようなものが私にはなかった。いいな、お休み。こんなにお天気がいいなら、きっと何処に行ったって楽しいだろう。

「………デートかあ」

 声に出すつもりはなかったのに、いつの間にか声に出ていた。
 最後にデートしたの、いつだったかな。ご飯を食べに行ったときだったっけ。というか、そもそもデートって何を持ってしてデートなんだっけ。
 私よりはるかに忙しい彼が、私より先に帰ってくることができた日は決まって何処かに連れ出してくれた。そんな日はあまり多くなかったけど。
 考えてみれば、オシャレをして何処かに二人で出かけた記憶がここ最近無かった。前もって約束して、その日を楽しみにして、朝早起きして支度するとか、そういうの随分やってない気がする。

 飽きられていたのかな。

 ふと過ぎったのはそんなことで、また気持ちは沈んだ。
 らしくもなくテレビなんかつけるからだ。大体、彼は忙しい人で私とお休みが被ることなんか滅多になくて予定を立てるにもにっちもさっちもいかなかったじゃない。たまのお休みくらい休んで欲しいって言ったのも私じゃない。私は何処かに行けなくたって、デートらしいデートなんか必要なくて、悟が居たらそれで良かったんだ。
 二人で一緒にこの家で同じ時間を共有できてれば何でも良かったんだ。

 慌てて自分で気持ちを立て直す。
 なんでもマイナスな方に考えが向くなんて、自分らしくないと思った。どれだけ呪術師としてバカにされても負けず嫌いを発揮してきたのに、悟のことになるとこんな風に弱くなるなんて、恋というものは本当に惚れた者の負けらしい。
 ちゃんと話そうと決めたのだから、弱気になっちゃいけない。

 私は悟が好きだって食らいつかなきゃ。
 気合いを入れ直すように両頬をぺちぺちと叩いて大きく息を吸って吐いた。







某日から二日後 午後二時二十分 高専校内



「……意外と元気そうだな」
「あれっ硝ちゃん」
「……はは、でも瞼は立派にこさえてんね」
「うっ…化粧じゃ隠しきれなかったか……」

 煙草を咥えながらコーヒーを買いに歩いていた廊下でよく知る背中を見つけた。てっきり今日も酷い様子なんじゃないかと思ってたんだが。杞憂、とは言えないかもしれないが正直少し安心した。
 昨日私のところにすごすごと現れた彼女は長い付き合いの中で見たことのない顔をしていたから。温厚で嘘もつけないような顔してるクセに、その実私らの中でも極めて負けず嫌いで滅多なことじゃ自分の考えは曲げない、真面目で誠実な奴だ。あそこまで傷心していたらしばらく引きずるだろうと思っていたし、切り替えて立ち直れるのかすら少し怪しいと思っていた。
 だから昨日はあのクズ、五条を出来る限りの言葉で落として彼女の気持ちが自責から何か違うものにシフトすればいいと思って「今からでも遅くないから五条なんかやめときな」と散々言った。彼女の想い人を落とすようなことを言うのは気が進まないが、相手が五条なら話は別だった。
 彼女が自分の行いのせいで五条が出ていったと思っているのは、見ていられなかった。

 私から見て、彼女は物凄く献身的な女だった。
 特に五条に対しては年々献身さを増す一方で、今どきここまでしてくれる女なかなか居ないと思っていた。
 自分だって暇じゃないだろうに、可能な限り三食必ず用意して同じ家に住んでいるのに家事はほとんど彼女持ち。何か真剣に考えていると思えば「この一週間の献立を思い出してる」などと言い、その日の夜と翌日の朝の献立を考えていたりした。内容が被ったりするのは嫌らしい。共働きが普通になったこの現代社会において、家事は折半が望ましいものだろう。手を抜いたって日頃の行いを見れば誰も文句なんて言いやしないのに、そこまでやらなくてもいいのではないかと思ったけれど、彼女は頑なに「私がやりたいの」と言っていた。
 その表情から五条に文句を言われてしているわけではないのだとよく解ったからそれ以上は何も言わなかった。一言純粋に「大した女だな」と言えば彼女は「立派すぎる恋人が居るからね」と嬉しそうに惚気けたのだから、何も言えなかった。

 彼女のことを見ていた私としては、彼女が自分自身の行いを責める必要がどこにあるのか解らない。最も二人の生活を見ているわけでもないから、私が見聞きしていることが二人の関係の百パーセントでないということは解っている。それでももう十年以上の付き合いなのだ。彼女が五条に対して世間一般的に見て恋人としてあるまじきことをしているとは考えられない。
 まあ、それも人それぞれ価値観や恋愛観があるだろうから一概に彼女がやっていることが最善であるとは言えないだろうし、相手はあの五条だから世間一般なんてものは通用しないが、少なくとも私は彼女の方が気に病む必要はないと思った。

「なんだ、五条を捨てる気にはなれたか?」
「まさか!」
「…正気か?」

 間髪入れずに返ってきた言葉に火がついたままの煙草を落としそうになった。まずいと思ってポケットを漁り吸殻入れを取り出した。煙草吸ってる場合じゃないな。
 たった一夜で彼女は彼女らしさを取り戻したように強気に笑って見せたから、詳しく話を聞く必要がある。これは話込むだろうから、煙草は後回しだ。

「昨日の今日で、よくそこまで立ち直ったもんだな。正直驚いた」
「あはは、硝ちゃんのおかげだよ。いっぱい話聞いてくれたから、すっきりしたよ」
「私は何にもしてないよ。……で? 何かあったのか?」
「や、何も。悟は昨日も帰ってこなかったよ」

 昨日と比べ物にならない彼女の様子にてっきり五条が帰ってきたのかと思ったが、それを聞くのは少し不躾かと思って言葉を選べばすんなり欲しかった答えが返ってきた。

「……じゃあ何だ、久しぶりにクズの分まで家事してやんなくていいのは清々しいって?」
「もー! だから、それは私がやりたくてやってるって言ってるでしょ!」
「ごめんごめん、怒ることないじゃん」

 八割本音、二割冗談。
 ちょっとくらい休めたから昨日より幾分元気になったんじゃないかなんて、ぺらっぺらな推測を述べてみたけど彼女はいつも通りの返事をして私を軽く叩いた。痛くもない衝撃に笑ってしまった。

「夜返事無かったから、ちゃんと帰れたのか心配だったんだけど?」
「あ、ごめんね……! 家についたらすぐ寝ちゃって……」
「ふうん、ならいいけど。珍しいじゃん」
「へへ、何にもせず寝ちゃった。昨日何にもしてないのに、泣くとやっぱり疲れるもんだね」

 情けなさそうに、恥ずかしそうに笑う彼女の瞼を見れば勿論わかる事だけど、きっと昨日別れたあとも一人泣いたんだろう。泣き疲れて寝てしまったとしても、眠ることが出来たならそれが一番いいことだと思う。
 眠れない夜を一人で明かすなんて、今の彼女には酷だと思うから。

「なんていうか、誰もいない家に帰ったら改めて色々考えちゃって」
「……まあ、そうだろうな。」
「これからどうしようかなあ、とか。だってあの家も悟のだし、私が一人で住んでるのもおかしいしね。硝ちゃんに言われた通り、他にいい人見つかるかなあとか。そもそも私悟を諦められるかなあ、とか」

 真剣な声色に合わせてゆっくり彼女の目が伏せられていく。
 ああまた彼女の気持ちを沈めてしまっただろうかと罪悪感に駆られた。

「……新しい恋とか、したくないなあー……なんて、考えちゃって」
「……なんで?」
「悟が、好きだから……」
「……物好きも行き過ぎるとおかしくなるもんだな」

 わかっていた。わかっていたさ。十年も一緒に居るんだ。私が何を言ったところでそう簡単にこの子は考えを変えてしまったりしない。ましてや十年、あのクズだけに捕われてきたんだ。どれだけ私が五条を下げて語ったとしても、この子の方が五条のことをよく知っている。悔しいけど、きっと五条だってこの子のことを私よりも知っている。
 きっともっとお前に相応しい人間がいるよ、そう何度言い聞かせたって、私の言葉だけじゃこの子は生まれ変わっちゃくれない。この子が見て、聞いて、体感して、そこで初めて生まれる感情でしかこの子を動かすことは出来ない。
 五条が、彼女が好きだと一心に尽くした五条である限り、彼女は五条を想うのを辞めてはくれない。

「……こんなに泣かされておいて、よく言えたもんだ。そんなこと」

 腫れ上がった瞼の様子を診るように彼女の顎に手を伸ばして少し強引にこちらを向かせれば、驚いたように目を開いて私を見つめる彼女の瞳に私が映り込む。ぱちぱちと数回瞬きをしてから気まずそうに視線をさ迷わせた彼女の瞼は重たそうだった。

「……まだ、何にも聞いてないから」
「へえ?」
「……私が勝手に、一人で傷ついてるだけだから。私まだ、傷つけられるようなこと、されてもないし言われてもないから」

「だからこれは悟のせいじゃない」付け加えるようにそう言った彼女はやんわりと私の手を解く。
 何が五条のせいじゃない、だ。大した人間だと思うよ。状況を整理して、善悪の区別をつけて、そこに自分の感情は持ち込まない。ご立派なことだ。恋愛なんて感情が全てだと言うのに、これだけ泣いてもまだ五条を庇うって言うんだから、いっそ呆れてしまうよ。
 確かに、五条が出ていった理由を私たちは知らない。距離を置いた理由も何も知らない。五条は普通とはかけ離れた人間だから、彼女や私が想像した「距離を置こう」という言葉に含まれた意味や理由はかすりもしないかもしれない。全部五条本人しか知りえない。
 何も知らないのに勝手に別れを前提に置いて傷心している、勝手に五条を悪者扱いしてしまっている、と彼女は言いたいのだろう。賢い女だ。それでいて真面目で誠実なやつだ。学生の頃からちっとも変わらない。自分が正しいと思うことに素直で、正義感の塊のような人間だ。
 言いたいことはよくわかる。五条に比べればいつだって彼女の言い分は理性的に思慮分別されている。

「……だからって、感情を押し殺す理由にはならないだろう」

 彼女に解かれた手で彼女の腕を掴む。
 私たち同級生の中で、一番苦労しただろうその手は冷たかった。

「理解することと納得することは違う。ロジックの上に成り立つ理解と、関わる要因全てを飲み込める納得じゃ、当然後者の方がキャパシティを必要とするさ」

 いつか彼女とふざけて手を繋いだまま歩いた廊下で、あの頃と同じように手を握る。

「理解出来たお前は賢い女だ。五条なんかには勿体ない」
「……そんなこと、ないよ」
「あるよ。お前を物分りのいい女なんかにしてしまった、五条のせいにしていい」
「そんなこと」
「あるんだよ」

 彼女の声が少しずつ少しずつ小さくなっていく。いよいよ俯いてしまった彼女の表情は私からは見えない。私より少しだけ背の低い彼女は私よりも逞しく生きてきた、強い女だった。強くなきゃならなかったんだろう。それはきっと五条のためじゃない、五条を好きな自分のために。

「……私の前まで物分りの良い女である必要、あるか?」
「……私、そんな風になってる?」
「なってる。気づいていないようだからはっきり言ってやるよ」

 彼女の手がぎゅっと私の手を握り返す。
 気づいて無かったのか。重症だな、と心の中で一人ごちた。

「私はどんなお前も好きだよ。たった一人の親友だからな。だから私の前ではわがままでどうしようもない女でいい。感情のままに泣いて怒っていいんだよ」
「……私、さあ……ちゃんと、悟と話そうと思ってて」
「うん」

 震える声を誘うように手を引いて廊下の窓際に凭れれば、小さくなった親友は私の肩に頭を預けた。

「わかんないの、私が悟に何かしちゃったのか、それとも悟の心境に何か変化があったのか、何にも」
「うん」
「だから、ちゃんと聞いて、話し合おうと思って」
「うん」
「……わたし、ちゃんと……っ話せるかなあ」

 肩口からぐす、と小さく鼻をすする音がする。強く握られた手を握り返して、ただただ彼女の言葉に耳を傾ける。やっぱり彼女は、全然平気じゃなかった。

「っこわくて、……なにを聞くのも、怖くて」
「ああ」
「聞いたらさいご、もう二度と一緒に居られないかも、しれないって思ったら……っこわ、くて……!」
「……そうだな」
「っでも、このままでもダメで、だからわたし、わたし……!」
「いーよそれで、それでいいんだ」

 お前はそれでいい。気丈に振る舞う必要ないんだ。

「……大人であり続けなくていいさ。怖くていいよ、傷まみれなんだから。こんなに弱ってるのに、どうにかしなきゃなんてまだお前が考える必要ない」

 私の肩に寄せられた彼女の頭に自分の頭を寄せる。手は冷たいけど真横にくっついた親友はちゃんと生きている温度を感じる。
 昔みたいに五条のやらかしたことに折れることなく怒っていい。お前は自分が悪いことをしたときはちゃんと謝ったし、五条が悪い時は絶対に五条が謝るまで謝らなかっただろう。それでいいのに。
 私たち皆、等しく大人になってしまった。理論で物を語り、効率と優先順位で分別をつけ、義務や責務で行動し、我慢することも上手くなった。それが必要だったからだ。
 自分に自信がないかわりに死ぬほど努力をする親友は、その根気強さをあらぬ方向に伸ばしてしまったらしい。本人にその自覚は無さそうなのが厄介なところだ。きっと彼女は五条という存在がコンプレックスのようになっていて、五条の隣に居るべき人間像を勝手に追いかけている。バカなやつだ。まあ、一番バカなのは五条だが。

「……さ、この話は一旦やめだ。コーヒーでも買いに行こう。な?」
「……ん」

 泣き出した親友にあれこれ話すのはきっと今じゃないだろう。私は親友を泣かせた男なんかに取り持ってやれる程心の広い女でもない。捲し立てるなら五条相手の方がいい。彼女の気持ちを立て直すにはもっと適役が居るだろう。

「……そう言えば、夏油のやつ明日帰ってくるらしい」
「……え、傑が?」
「ああ、さっき学長から聞いた」

 彼女の手を引いて廊下を進む。花の女子高生だったあの頃と同じように。親友はきっとあの頃と変わらず暖かいミルクティーを選ぶんだろう。甘党なのはこいつら二人揃って同じだったから。



某日より二日後 午後二時五十二分 高専校内にて

少年少女じゃいられない






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