某日から一日後 午後六時五十四分 高専校内


「……ヒドイ顔してんじゃん。何、どうしたの。」

 硝ちゃんだって、いつもクマすごいよ。とは言わなかった。
 硝ちゃんのクマは魅力的な要素でもあるもんね。ミステリアスで、なんとなく儚いっていうか。それと私の腫れた目を一緒にするのはちょっと違うか、と一人ごちた。
「座んなよ」と硝ちゃんが椅子を引っ張りだしてくれる。私の来訪に驚く様子は無かったけれど、全部察してくれてるみたいだった。やっぱり十年の付き合いは伊達じゃないよね。私たち。

「で?クズに何されたって?」
「……何かされたわけじゃ、ないんだけど。その逆っていうか、……」

 私が何か言い出す前に硝ちゃんはまるで何か知ってるみたいに彼を話題の頭においた。まあ、自分で言うのもなんだけど、私がここまで傷心するのは彼のこと以外に無いから解って当然かもしれない。高専にきて呪術師になって、色んなものをみてきた私が、今さら任務どうこうで泣きじゃくったりしないし、そんなことがあれば硝ちゃんだって座って居られないだろうから。
 言葉を濁す私に硝ちゃんは「はあ?」と怪訝な顔をして側にあったカップを啜った。

「……出ていかれちゃった、わたし」
「…………、は?」
「距離、置きたいって。あは、は……」

 膝の上に置いた手をぎゅっと握って意を決して伝えた。出ていかれちゃった、なんて情けなくて誤魔化すように笑った。心はずきずき痛むのに朝あれだけ泣いたからか、涙が出ることはなかった。涙って本当に枯れるんだな。

「……一応確かめるけど、誰が」
「悟以外に居ると思うの?」
「信じられるわけないじゃん。あのクズの方が出ていくとか」

 硝ちゃんは長い足を組み換えて肘をついた。色気があるなあ。このくらい色気と雰囲気があれば良かったのかなあ。
 無いものをねだったって今さら何か変わるわけでもないし、無いものはないのだから、そう簡単には手に入らない。無様なことを考えるのはやめて、ぽつぽつと昨日の朝から今ここにきたまでのことを話す。硝ちゃんの反応を見るに、何にも知らないようだった。

「……ふうん。ま、いい機会じゃん。あんなクズ辞めとけ」
「しょ、しょーちゃあん……」
「私は十年前からそう言ってる」
「そ、……うだけど……」

 親友の言葉は思ったより淡白で藁にもすがりたい私の気持ちをめきょめきょに潰す。元より、慰めてくれるとは思っていなかったけれど、この状況を全肯定されると流石に困ってしまった。

「……わたし、何が駄目だったんだと思う……?」
「……そーいうとこ」
「え?」
「私に聞くんじゃなくてクズに直接聞きな」
「え、え、ちょっと、」

立ち上がって荷物をまとめだした硝ちゃんに慌てると「飲みに行くでしょ」としたり顔で言われた。やっぱり十年の付き合いは伊達じゃない。





 結局その日は悟には会えなかった。私も仕事をしていたし、彼は私とこなしてる仕事の数が違うから、高専で会えないなんて珍しいことじゃなかった。それでもやっぱり、顔が見たかったなあ。
 硝ちゃんと外に、二人で飲みに出かけるなんて随分久しぶりだった。私も悟と同じくお酒はあまり得意じゃないし、硝ちゃんはどれだけ飲んでも顔色すら変えない酒豪だから、酔って収集がつかない、なんてことにはならなかった。美味しいものを食べながら、私が弱音を吐くとその都度「クズ相手に悩む必要ない」だとか「クズから解放されてラッキーじゃん」なんて私が欲しい言葉と違う言葉を投げつけてきた。長い付き合いもあって、相談する相手を間違えたとは塵も思わないけれど全く私の悩みは晴れなかった。
 それでも最後、二人の帰り道が別れるとき。

「さっさと忘れて楽になりゃいーじゃん。新しい恋でもすればどーでも良くなるでしょ」

 と、言ったことだけが頭にしっかりこびりついた。「なんなら私が相手しようか」と薄く笑った硝ちゃんも一緒に。


 硝ちゃんのおかげもあって、行き道より足取りは軽かった。私のお給料だけでは到底住み続けられないタワーマンションのエントランスを慣れた手で解錠して進んでいく。時計を見ると午後十一時を回ったところで、明日も仕事があるのに、今朝は最低限のことしかしてないことをぼんやり考え、残された家事たちを数えながらエレベーターに乗った。洗濯が取り込んだまんまになってるし、洗濯機は回せてない。お風呂って掃除したんだっけ。冷蔵庫の中ってどうなってたっけ。エレベーターの壁に凭れかかって一つずつ思い出すように考えていくうちに、目的の階にたどり着いた音がした。

 誰も居ないマンションの廊下は無機質さで満ちていて世界に一人ぼっちになったような気持ちになる。鞄のなかから鍵を取り出して、自分の住む部屋の扉を開ける。簡単に開くその扉の奥は光一つ見えなくて、途端に「ああ、私そうだ、一人ぼっちだったっけ」と思い知らされて中に入るのを躊躇ってしまった。

 玄関の明かりをつけて、暗い足元を照すとそこには何もなくて、この部屋には今私一人しか居ないのだと改めて確認する羽目になってしまった。すごすご玄関を通り抜けて、通る場所の電気を一つずつつけていく。物音すらしないこの部屋に、少しずつ少しずつ気力を奪われていく。肩に掛けていた鞄をずるずると落としてリビングの扉を開ける。電気をつけたって、私の望んだ姿はないと解っているのに、何を期待しているのかと自分で自分を嘲笑した。

「………もう、いっか」

 パチリと電気をつけて、がらんと下部屋を見渡した瞬間さっきまで考えていたやり残したこと全部どうでも良くなった。今日はもう寝てしまおう。きっと彼は今日も帰ってこないだろうし。化粧を取って、さっさと寝てしまって、明日朝はやく起きればいいや。

 さっきまで気持ちが軽くなったような気がしていたのに、やっぱり全然駄目だった。
 苦し紛れに誰かと居たって、帰る場所に一人なんじゃ全然意味がなかった。
 彼の居ない日々に慣れていくなんて出来るのかと思うくらい寂しくて潰れてしまいそうだった。時間しか解決してくれないと解っていても、時間が経てば平気になってしまうなんて思えないし、平気になってしまうのも怖かった。まだ彼を好きだから、悟をずっと好きで居たいから。

「あたらしい、……恋かあ」

 硝ちゃんに言われた言葉をふと思い出して、復唱する。全身の力が抜けてソファーに倒れこんだ。
 新しい恋なんか、できる気がしない。それでも、この寂しさを紛らわすのにうってつけなんだろう。一人で居ることがこんなに寂しいのなら一緒に居てくれる誰かを探すしかないんだろう。悟なんか忘れられるくらいの人、居るのかな。

「…そんな簡単に、見つからないよね」

 そう思うのは惚れた弱みか、彼がどこに出してもハイスペックな恋人だったからか、あるいは私がバカなのか。多分全部だ。そもそも最初からバグってたんだ。
 生まれた場所、生まれもった才能、拗れきった性格さえそれら全てが彼に相応しいと思うほど、彼は控えめに言っても非日常をかき集めたような人だった。そんな人が、ごく普通を絵に描いたような一般人に、呪術なんていうちょっとだけスパイスを振ったような私を隣に置いていたことがおかしかったのだと思う。そりゃ彼を忘れられるほどの人なんか、良くも悪くもきっと居ない。
 この仕事は向いていないと解っていても、彼の隣に居たくて呪術師一本でやってきたけど、無駄な足掻きだったのかもしれない。悟という、非日常にあてられて普通になることを選べなかった私は随分滑稽だろう。あそこでああすれば良かったなんて考えたってキリがないし、どうしようもないけれど、普通に戻れば人並みに幸せになれたのかもしれないと思うと、身の丈にあった幸せというものは確かに存在するのかなと思った。
 彼と幸せになるのだと信じて疑わなかった自分が恥ずかしくて堪らなかった。

「………あ、」

 ぼんやり考えを巡らせていたら、枯れてしまったと思っていた涙がまた息を吹き返す。溢れる前に袖を目元にあてて視界を覆った。

 悟のばーか!
 どうすんの、私もう二十八歳になっちゃったじゃん。今からどうやって将来のこと考え直せっていうの。初めての恋人も、キスも、エッチだって全部悟にあげちゃったのにさ。三十手前で全部失うなんて思ってなかったよ。だってこんなに長い間一緒に居たのにさ、こんなことになるなんて思ってもみなかったよ。私は二人幸せだと思ってたのに、それがいけなかったの? 私なんか見逃してたの? もう人生設計全部おじゃんだよ。
 この人と、悟と結婚するんだって勝手に思ってたよ。
 確信さえしてたよ。解ってたから急かさなかったし、急いでなかったよ。だってそういうの嫌いでしょ? だから私、大人しく待ってたのにさ。
 何よ距離を置こうって。そう言うしかなくなる前に相談してくれたっていいじゃん。それを察せなかった私が悪いのかもしれないけどさ!

「………今さら他の人と幸せになるとか、想像できないってば」

 だって私、十年前から私の人生に悟を組み込んでたんだもん。
 今さらどうやったって軌道修正できないよ。あーあ。

「…寝よう、」

 一日経つと自分の感情の整理もついてくるもんだな、と他人事のように思った。身分不相応な恋をしたのだと自分を恥じるものの、彼の行動にまだ納得ができなくて諦められず、怒りにも似たような感情が沸き立つ。
 何を勝手に被害者面しているんだろう。私が全部悪くて、悟が私に愛想を尽かしてしまっただけかもしれないのに。まだ何も悟に聞いていないのに。勝手に泣いて落ち込んで、そもそもこの先一生一緒に生きていく約束なんかしてすらいないのに。悟は別に、何も悪いことをしていないのに。
 感情を噛み砕いて、その気持ちの根源を分析すれば己の身勝手さを思い知る。このままじゃダメだ。ぐずついていたって仕方ない。何を考えたって終着点は同じ、私は悟が好きでどうしようもないということ。結局根本的に変われないのだからそう簡単に解決するはずもないのだ。
 今朝までもう何もかもぐちゃぐちゃで何を手につけてもままならなかったけれど、己を知れば自ずと落ち着いてくる。さすがに私ももう二十八歳だから、高校生のころとは話が違う。大人になったものだと、こんなところで自分の成長を感じた。

 どうにかして彼とちゃんと話さなきゃ。
 私まだ、悟が好きってちゃんと言わなきゃ。
 彼はそういうの嫌いだろうけど、それ以外の方法なんか私には無いんだから。


某日より一日後 午後十一時三十八分 自宅リビングにて

わるいこだれだ






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