某日から四日後 午後十一時五十九分 自宅玄関

 バタンとしまった扉の音に合わせて私の膝から力が抜ける。ドクドクと脈打つ心臓は今にも破裂してしまいそうだった。
 怖かった。悟が。あんなに怒った悟を見たのは初めてだった。
 連絡ひとつも寄越さずに居た悟がどうして戻ってきたのか。よりにもよって今日、どうして。
 頭の中はぐちゃぐちゃだった。悟の前に一人残してしまった後輩のことも心配だし、このあと悟が中に入ってきたとき、私はなにから話せばいいのだろう。
 電気も付けずに必死に考える。座り込んだ玄関は冷たくて堪らないけどそんなことは気にもならなかった。

 ガチャリ

「っ! ……さ、さとる……」

 ゆっくりと扉が開く音がして勢いよく振り返る。暗い部屋の中では外から差す照明の明かりもえらく眩しく感じた。
 扉の前に立っていたのはやっぱり悟で、悟の大きな背が邪魔してその向こうに彼が居るのかどうかはわからなかった。悟は開けた扉に身体を滑り込ませて部屋の中に入った。バタンと音を立てて扉は再び閉まった。

「あ、あの、さと……ッ!?」

 急に腕を掴まれて強い力に引っ張られる。その力に逆らえなかった私の身体が浮いて、状況に追いつかない頭でどうにか足を立てて身体を支えれば問答無用で部屋の中へと引きずり込まれた。
 足が縺れる。何も言わない悟に腕を引かれるまま転ばないようにどうにか足を動かすしか出来なかった。
 悟が扉を開けたのは寝室だった。部屋の奥にずんずんと足を進めた悟に、より一層強い力でベッドの上に投げられるように思い切り引っ張り込まれた。

「っきゃ……!」

 投げ込まれたベッドはいつも通り柔らかくて勢いよく放り投げられたものの痛みはなかった。ベッドに転がる私の上に悟は膝を立てて覆い被さるとスプリングが軋む音がした。恐る恐る見上げた悟の綺麗な眼が私を刺すように見つめていた。

「っ!? ん、ぅう……!」

 私の頭の両脇に肘をついた悟はろくな会話も合図もなく唇を合わせてきた。少し驚いたものの、ベッドに放り投げられて上に乗られてしまえばこうなることはそれとなく理解が出来てしまった。
 かさついた唇同士がお互いの唾液で濡れる。お構い無しに挿し込まれた悟の舌が私の舌を掬って深く絡められて、舌裏をくすぐるように這い回る。重力に逆らえないまま伝ってくる悟の唾液が私の口内を侵していく。呼吸まで奪われてしまいそうだった。

「っふ、んン……っは、ゃ……!」

 何度も角度を変えては口付け直す悟に少しづつ身体を巡る酸素が足りなくなってくる。蹂躙する悟の舌が私の上顎を舌先でなぞる度にふるりと身体が震える。身を捩って逃げようとしても、肩を押して離れたいと意思表示しても悟はビクともしなかった。それどころかどんどん抱き込まれて身動きが取れなくなるばかりだった。

「っ!? んぁ……っふ、ぅ……!」

 繰り返されるキスの嵐に抵抗出来ないままの私をよそに、悟の手が私のシャツにかけられる。この先どうなるかなんて子供じゃないからすぐに分かった。ここはベッドの上だし、悟は多分怒っているし、時刻は零時を回ったくらいだろうから。
 舌が絡まって唾液が空気を孕んでぴちゃぴちゃと音が響く。いよいよ口の端から零れた唾液がたらりと垂れる。シャツのボタンを触る悟の手に思い悩んだ。
 このまま抱かれたらどうなるんだろう。
 悲しいけれど、久しぶりに触れた悟の唇も、その温度も、息遣いも、たまに頬を掠める髪さえも、気持ちよくて堪らなかった。悟が今何を考えているのか分からないのに、恋しくて堪らなかった感触に溺れてしまいそうになった。どうして、なんでと聞きたいことはたくさんあって、聞きたいのに聞けなくてたくさん泣いたのに、突然帰ってきた悟は二人きりになった途端黙りで、挙句こんな風にがっつかれてしまっては話をする所じゃない。
 このまま流されてしまうべきなんだろう。悟がそうしたがっているのなら、そうさせてあげるべきなんだろう。でも、その後は? このまま抱かれてしまったら、元通りになれるんだろうか。
 元通りで、いいんだろうか。

「ッた……!」
「は、ッはあ……!」

 ガリッ
 想像以上に鈍い音がして、力加減を間違えたなと一瞬だけ後悔した。だってキスの最中に舌を噛んだことなんか勿論ないから、加減のしようがなかった。
 悟の舌を思い切り噛んだことによって、一連の行為にストップがかかる。重なっていた唇が離れて一気に酸素が肺に送り込まれる。服にかかっていた悟の手が退けられて、余程痛かったのか表情を歪めて悟は口元を抑えた。

「、ごめ……っでも」
「……」
「でも、先に話すこと……たくさんある、でしょ……」

 呼吸を整えながら黙ったままの悟にそう言えば、ぴくりと眉を動かして何か考えているのかそこから身動き取らずに目を逸らした。そんな悟が何を考えているのか必死に汲み取ろうとじっと見つめたけれど、何もわからないまま悟はゆっくり身体を起こして私から離れた。
 悟が私の上から降りて、どさりと音をたてて脱力したようにベッドに座り込む。私も上体を起こして悟の隣に座っておずおずと悟の顔を覗き込んだ。

「さとる……」
「…………、手は?」
「え……?」
「手を繋ぐのは、無し……?」

 頭を垂れて沈んでいる悟が小さく呟いたのは、怖がる子供のような願い事だった。悟は私の指先に少しだけ自分の指を重ねて強請る。冷たい手は大きくて、指先に感じる重みが懐かしい。たった数日、離れ離れだっただけなのに。
 いいよ、と返すことはせずに悟の手を自ら握る。決して私は悟に触れられることを拒んだわけじゃなかった。ただ、このままで居ることも、元通りになることも、きっと良くないと踏み込んだだけだった。
 ぎゅっと悟の手を握ると悟は勢いよく私に振り向いた。アイマスクに隠されていない綺麗な瞳が、どこか不安そうに揺れていた。

「……どこで、何してたの」
「……」
「……どうして、距離を置こうなんて言ったの」

 ちゃんとご飯は食べてたの? ちゃんと休んでたの? どんな風に生活してたの? わたしのこと、嫌いになったの?
 矢継ぎ早にあれもこれもと聞きたくなるのを必死に堪える。とっても心配した。すごく寂しかった。沢山泣いた。会いたかった。やっぱり私は、悟が大好きだった。
 だからちゃんと向き合わなくちゃ。一緒に生きていきたいから、歩みを揃えなきゃ。

「……、ごめん。びっくり、させたよね」
「……うん」
「ほんと、僕……馬鹿でさあ」

 ぎゅっと悟の手が私の手を握り返す。悟の言葉に「平気」「気にしないで」とは返さなかった。
 悟は言いづらそうに私から視線を逸らして俯くと、がしがしと頭を掻いて大きなため息を吐いた。

「……君がね、おかしくなっちゃうと思ったんだ」
「……私が?」
「そう、君が……僕のせいで」

 悟の口から零れた言葉は他に好きな人が出来たでも、私に飽きたでも無かった。
 それはどこか懺悔のようだった。罪の意識を自白するような、重苦しい雰囲気の悟は頭を抱えて続けた。

「ね、覚えてる? 僕が先に帰っててさ、君が慌てて帰ってきて、ご飯用意できてなくてごめんって、謝った日のこと」
「え……?」
「僕、帰りが遅くなること多いし、無理に作らなくていいよって言ったらさ、君めちゃくちゃ悲しそうな、寂しそうな顔してさ。……絶望って感じの顔でさあ」

 そんなことあったっけ、記憶を探って考える。悟が具体的に覚えているのに、当の私は全然思い出せなかった。

「……なんだかそれが、君のその時の顔が、僕の思ってた君との生活とちょっと違うなって感じ始めたのがきっかけだった。そしたらさ、気づいちゃったんだ。一緒に暮らし始めた時はあんなに君を怒らせたのになって。最近の君は僕に気を使ってばっかりなんじゃないかって」

 悟の話を聞けば聞くほど、昨日傑が言っていたことがリフレインする。悟は私が気づかないうちに、何かに先に気づいていた。

「君が僕に怒らなくなって、僕が君を気遣えば気遣うほど君は寂しそうな顔をするようになって、きっと僕が無理をさせてるんだって思ったから、もっと頑張ろうって決めたのに全然うまくいかなくて、このままじゃずっと君は僕に振り回されてさ、そしたらいつかきっと僕の好きだった君じゃなくなると思ったんだ」
「……」
「こんな顔させたくないって必死だった。だから、とにかくちゃんと君に休んでもらわなきゃって。僕が君にかけてあげるべき言葉をわかるようにならなきゃって、時間稼ぎみたいなことしちゃった」

 弱々しい悟の声だけが部屋の中に響いて私の耳に木霊する。ちゃんと脳まで届いていて、何を言われているか分かっているのに、どれも自分のための言葉だと思えなくてすぐに言葉が出てこなかった。

「僕さあ、多分全然分かんなかったんだ。なのに、わかって当然だと思って、僕はちゃんと分かってると思って、君に何も聞かなかった。間違ってることも気づけなかった。君に聞けばよかったのに、格好つけて馬鹿みたいだ」
「……悟」
「君のことが好きだから、全部知ってるフリしてた。ごめん、沢山泣かせて」

 悟は私の様子を伺うように少しだけこちらを見ると「目蓋、赤いね」と悲しそうに呟いた。もう数日腫れたままだった目蓋に慣れすら覚えてきていた私は少しだけ恥ずかしくなって悟から目を逸らした。

「……まあ、こんな言い訳並べてみたけど、これも全部傑に言われて自覚したことばっかりでさ。距離を置こうなんて言ったくせに、結局僕は一人じゃ何も解決できないままだったんだけど」

 悟は自嘲気味にそう言って私の手をさらに強く握った。
 こんなに弱った悟を見たのは初めてだった。いつも自信満々で、私には無理難題でも悟は簡単にこなしてみせて、その強さ故になんでも楽天的に語る悟が、私の少しの違いに気を揉んでいたなんて考えもしなかった。

「……おまけに君が男と一緒に居るから、カッとなってさ」

 どきり、と私の心臓が縮む。何もしていないけど、浮気現場を目撃されたみたいな気分だった。いつから悟はそこに居て、私たちを見てたんだろう。もはや可愛い後輩の精一杯の告白を、悟を前に後ろめたく感じている時点で私は悪いことをしていたのかもしれない。
 悟は繋いだ私の手を親指でゆっくり撫でる。

「泣かせたのは僕なのに、漬け込みに来たとか聞き捨てならなくって。僕が勝手に出てったのに君に会ってんのが許せなくって、僕のなのに勝手に触るなって、……ごめん、乱暴して」

 ぽつりぽつりと話す悟はゆっくり私に向き直る。繋がれたままの私の手が悟の口元へ優しく運ばれ口付けられた。柔く何度も繰り返される行為がまるで消毒されているみたいでドキドキした。こんな時まで都合よく受け取ってしまって馬鹿な女だと思う。仕方がない、私は悟が好きだから。

「……ねえ、あいつになんて言おうとしたの?」
「え……」
「……あのねって、なんて言おうとしたの」

 悟は私の手を肌荒れなんか知らないだろう滑らかな頬に擦り付けて顔を歪めた。じっとりと見つめてくるその眼には色んな感情が写って見えるのに、どういうわけかさっき感じた怒気はなく、決して優しく私を見つめているわけじゃないのにその視線が心地よく感じた。

「え、えと……その……」
「……やっぱいい、答えないで」
「さとる……?」
「言いあぐねるような事なら聞きたくない」

 言いあぐねたわけじゃなかった。なんて言おうとしたのか忘れてしまったんだ。他の誰でもない、目の前に居る悟のせいで全部吹き飛んでしまったんだ。
 私はあんなに真っ直ぐな後輩になんて言おうとしたんだろう。わかることは間違いなく、どんな風に返事をしていても最後は絶対ごめんねだったということ。
 悟は私の手を離すことなく、握るその手で、時折触れる唇で、まるで子猫が親猫に甘えるように擦り寄るばかりだった。

「……あいつ、ずっと君のこと好きだったもんね」
「えっ」
「知らなかったの?」
「……し、知ってたの……?」
「知ってたよ、ずっと、初めて会ったときから」
「う……嘘……」
「まあ知らなくても当然かもしれないけど」

「めちゃくちゃ牽制してきたから、手も足も出せやしなかっただろうし」そう続けた悟に思わず目を見開いた。
 どういうことか分からなくてぱちぱちと何度か瞬きを繰り返す。牽制? 何に対して? 一体誰が? 脳みそを必死に動かして言葉を咀嚼してもピンと来なかった。
 悟は私をじっと見つめたあと、大きなため息を吐いて触れていた私の手を両手で覆い、大きな背を丸めて縋るように額に当てた。悟の前髪が当たってくすぐったかった。

「ねえ頼むよ、ほんと、君のそういうとこがホントにやだ」
「え、ご、ごめ……」
「なんでわかんないの? 僕がこんなに惚れてるのに、他所の男が放っておくわけないじゃん。可愛い後輩でいてくれるわけないじゃん。なんで二人で出掛けたりするわけ? ほんと、さあ……もっと自覚しなよ……」

 悟はどこか呆れたような、それでいて心配が滲み出た声色で私に話す。やだ、と言われて一瞬びくりと身体が反応するほど恐怖を感じたのに、段々としりすぼみになっていく悟の言葉を聞いていれば顔にかっと熱が昇ってくる。それって、つまり、なんて自惚れて喜んでしまう自分を落ち着けと律するもそんなことは到底無理な話だった。
 こんなに惚れてると、悟がそう言ったのだから。

「……ごめん、八つ当たりした。一人にしたのは誰だよって話だよね」

 悟はため息ともとれるような、大きな深呼吸をして丸めていた背を伸ばした。かち合った視線に思わず息を飲んだ。

「勝手なことばっかり言ってる自覚はある。あるんだけど、お願い、僕馬鹿だからわかんなくて。……僕が声をかける程、君が寂しそうな顔をしてた理由、教えて。僕が悲しませるようなことを言ってたなら、謝らせて。君が嫌だって思うとこ、全部全部直すから、お願いだから変わらず、ずっと僕のものでいて」

「一生のお願い」悟ははそう付け加えてじっと私を見つめた。私の手を握る悟の大きな手は少しずつ少しずつ握る力を強くして、私を引き止めようとしてるみたいだった。

「……悟」
「……ん、」
「私はね、悟が大好き」
「……ほんとうに?」
「ほんとうの、ほんとうに。自分でもワケわかんないくらい、好きだったみたいでね」

 私の手を離さない悟の手の甲に空いていた手をそっと重ねた。何から話せばいいのか全然わからないのに、一番最初に出ていった言葉は揺るぎないたった一つだった。

「私全然知らなかったの、悟が言う寂しそうな顔をしてる自分のことなんか、ほんとに知らなくて」
「……そう、だったんだ」
「うん、自覚なんかなかった。でも昨日、私も傑に言われて初めて気づいた。私ね、自信無かったんだ。悟の恋人って、胸張って言えなかったんだ。弱いし、普通だし、でも悟はすごくて。誰から見ても悟の恋人に相応しいって思われたくて堪らなかったんだ。だから勝手に、必死になってたみたい」

 一言発すればどういうわけかするすると弱音が飛び出していく。情けなくて恥ずかしいくらいなのに、言葉にすると馬鹿みたいに滑稽で自分で笑えた。

「……悟にありがとうって言われる度に、喜んで貰える度に、私悟に必要とされてるって思えたんだと思う。それに安心してたんだと思う。だから、要らないよって言われてきっと不安だったんだ。だから悟のせいじゃない。私が、私のために必死になってただけなんだよ」
「……それって、結局僕が君を不安にさせてたってことじゃないの」
「ううん、違う。私が勝手に悟の隣に立つべき自分を想像して頑張ってただけ。悟がそれを願ったわけじゃないのに、悟はこんな人と居るべきだって、勝手に決めつけてた。悟のことが好きだから、悟に幸せになって欲しいと思うから、悟を幸せにできる自分を勝手に描いてた」

 悟は優しかった。やりたがる私にたくさん無理しないでと声をかけてくれた。その度に私は悟を無自覚に傷つけてしまってた。酷いことをしたなと思う。私の自己満足に対して謝ろうとしてくれる悟に罪悪感が増す。それと同時に、こんなに愛されていたのだと湧き上がる喜びがくすぐったい。

「そんな自分に全然気づいてなかった。ごめんね、不安にさせて。でもね、気づけなかったのは多分、私が全然辛くなかったからだと思う」
「……辛くなかったらあんな顔、しないでしょ」
「だからそれは、悟に要らないって言われたみたいに感じてたからで……! 何回も言ったじゃない、やりたくてやってるって。私ね、悟のことを思って頑張るの、辛くないの。悟に置いてかれないように昇級したくて頑張って任務こなすのも、悟にご飯作るのも、悟の散らかしたもの片付けるのも、悟が帰ってくるのをずっと待ってるのも、全然辛くなかったよ」
「……なんか僕本当にダメな男だね」
「もう、だからそういう話してるんじゃなくって……! なんでかわからない?」
「……ごめん、なんで?」
「悟が好きだからだよ、恋してるからだよ」

 自分で悟に話しながら、自分でも納得していた。本当の意味でようやく自覚し始めた。
 あんなに曇っていたのに、急に晴れ渡るような爽快感。悟のことを思えば思うほど泣いていたのに、声が震えることすらなかった。ああ、全部わかった。私はただひたすら、悟に恋をし続けていただけだった。

「私、頑張ることが辛かったなんて思ってない。悟を思えば全部頑張れた。頑張りたいと思った。だから知らないうちに、こんなふうになってた。夢中になってて気づけなかった」
「……はは、何それ」
「恋って不思議だね。好きってすごいパワーだよね。私、悟のことを考えながら頑張るの楽しかったんだ。そんな自分のことも多分、結構好きだったんだ。理想にちょっと近づく度に、本当に嬉しかったんだ」
「……」
「悟の隣に居る理想の自分には、到底及ばないのが情けないけど」

 面目なくて苦笑いして誤魔化したけど、不思議と昨日感じた惨めさはどこにもなかった。悟に不釣り合いな自分にあれだけ泣いたのに、誤魔化せるくらいの余裕があった。

「確かにちょっと無理をしてたこともあるかもしれない。でも、悟の考えてるようなことは何にもないんだよ。私は私のためにそうしてたの。そうしたかっただけなの。いっぱい心配かけてごめん。大好き。だからもう少し頑張らせて」

 ずっと抱えていた重たいものを吐き出したみたいに身体が軽かった。次会ったらなんて言おう、なんて考えて一人怖がっていたのに、今の私は何でもできそうなくらい満ちていた。無敵な気がした。何にも怖いものなんかない気がした。悟が居たらきっと全部大丈夫だってそう思えた。

「……はあ〜〜〜……」
「……あれ? ごめんなんか……こういう話じゃなかった……?」

 私の言葉を一頻り聞き終えた悟はまた背中を丸めて大きなため息をついた。
 勝手に色んな言葉が口から飛び出していったせいで、見当違いな話になっていたかもしれないと、言い切っておいて今更頭を使って考え直した。

「も〜〜〜〜〜ほんとわかってない。わかってなさすぎ」
「えっ」
「いや違う、すっごい嬉しい。惚れ直した。マジで。好き。ほんと良かったと思ってる。思ってるけどこれだけ言わせて」

 悟は勢いよく顔をあげてぐっと私に顔を近づけた。至近距離で見つめ合えば視界いっぱいに悟が映ってどきりとした。

「学生の頃からずっと君にぞっこんなわけ、これ以上僕のこと惚れさせてどうすんの? もうそのままで居てよ、気が気じゃなくなるから」
「……えっと……」
「君がそうやって頑張ってるのかもしれないって、傑が教えてくれた。そんなのちっとも考えてなかった。だってずっと、君は僕には勿体ないと思ってたから。だからそんな可能性僕の中になかった。僕の隣に居るべき理想の君なんか、そんなの君が君であること以外なんにもない」

 悟は徐に握りしめていた手を解いて私の両頬をそっと包んだ。強い眼差しに穿たれて思わず黙り込む。息をするのも忘れるくらい、悟の言葉は頭に響いた。

「ありがとう、沢山頑張ってくれて」
「……私が私のためにしてただけだよ」
「君が君のためにしてたことは僕のためのことだよ。だって君は僕のものなんだから。実際全部、僕に幸せになって欲しくてそうなったんでしょ? 僕を幸せにできるようになりたかったんでしょ?」
「う……、そう、だけど」
「でも他の誰かに認められたくて頑張るのはやめて。僕のためだけにして。他の誰かを気にするくらいなら一生僕のことだけ考えてて」
「……恐ろしきジャイアニズム……さっきのしおらしさはどこに……」
「はぐらかさないでちゃんと聞いて」

 もうそこに弱々しい悟は居なかった。いつもの強い悟が、吐く息すら触れ合ってしまう程近いところに居た。
 悟の指が私のかさつく目尻に触れる。少しだけぴりりと痛んだけれど、それもなんだか気持ちがよかった。

「僕はもう君しか要らないよ。忘れないで、僕が好きになった君のこと。僕だって君に恋してるって、ちゃんと覚えてて。だから僕も君に無理させたくないし、優しくしたい。それを僕が君を要らないって言ってるみたいに受けとるのはやめて」

 言い聞かせるみたいに悟は言って「約束して」と額を合わせた。

「きっと僕達二人とも言葉足らずだった。これからちゃんと全部格好つけずに言うから、他人の物差しに合わせようとしないで」
「……うん、ごめん。約束」
「約束、ね」

 指切りの代わりにゆっくりと唇を合わせた。触れて、ちゅ、と吸い付いて、離れたあとに二人でくすくす笑いあった。初めてキスした時みたいに。

「あとちゃんと自覚持って。わかったでしょ、君に気がある男は沢山居るんだから警戒して。わかった?」
「別に大丈夫だよ……」
「返事」
「……はい……」

 もう完全にいつもの悟のペースだった。でもこれまでとはちょっと違う、安心感がそこにあって居心地が良かった。ようやく家に帰ってきた心地がした。私はやっぱり、悟の隣で生きていたいと思った。これまでずっと、私は悟の隣で生きてきたんだと実感した。

「傑に感謝だね、なんかお礼しなきゃ」
「正直ちょっとキショいくらい的を射てて引いてるよ。傑に仕向けられたのかなと思うくらい。……いや、実際最後は仕向けられてたけど」
「え?」
「いい、こっちの話」

 悟は私の話を適当に流して「はい、ぎゅーしよ」なんて言って両腕を広げた。目の前の温もりに目がくらんでうずくから、この話は後ででもいいかな、なんて簡単に乗せられてしまった。
 広げられた両腕に遠慮なく飛びつく。久しぶりの悟の匂いを肺いっぱいに吸い込めば幸せすぎてじんときた。泣いちゃいそうだった。

「……これからは全部、相談して生きていこうね。もう勝手に出てくなんて決めないでね」
「うん、ごめんね」
「ほんと、馬鹿。すごいいっぱい泣いた」
「……こんなこと言うのもおかしいかもしれないけど、僕のために泣いてくれてありがと」
「……もう十年前から、私の人生設計に悟は組み込まれてるんだから、あんまり勝手なことすると怒るからね」
「…………いやあのさ〜〜〜〜〜〜〜何その殺し文句、勘弁して……」
「……ついでに悟が急かされるの嫌がると思ってたから言わずに居たけど、私そろそろ待ちくたびれてるからね」
「え、待ってウッソでしょ、マジ? ……え、それって返事期待していい?」
「臆病者〜! 安全牌取らずに真っ向勝負してきなさい!」
「手厳しいな〜〜〜〜」

 二人揃ってベッドの上で抱き合いながらじゃれつく。悟が選んだこの大きなベッドで今日からまたわざわざくっついて寝る。朝起きたら悟が食べたいものを予想しながら朝ごはんを作る。これからは洗濯をするときに、裏返しのままいれないでってちゃんと怒ろう。でも夕飯はやっぱり一緒に食べたいからこれまで通り出来るだけ待とう。
 きっと全部簡単なことだった。好きだから難しかった。でも好きだから諦められなかった。好きだから諦めずにいられた。私も、多分悟も。

 ねえ、やっぱりさ。昨日だって今日だって、明日だってきっと、私のできる全てで悟のことが大好きだと思うよ。この先ずっとずっと、変わらず大好きだと思うよ。
 悟と出会うために、こんな風に生まれてきたんだってそう思うくらい。ごく普通を絵に描いたような一般人に、呪術なんていうスパイスをちょっとだけ振った私だったから、悟はきっと私を選んでくれたんじゃないかなって今なら少し思えるよ。
 悟のせいで弱くなる。でも悟のおかげで強くもなれる。不思議な話だよね。私の弱点であり、パワーでもあるわけだ。
 
「……悟」
「ん?」
「おかえり」
「……ただいま」

 このまま一つになっちゃうんじゃないかってくらい強く抱きしめ合う。
 あーあ、冷蔵庫はあの日から空っぽのまんまだし、明日の朝どうしようかな。
 まあいっか。とりあえず、気が済むまでキスをしてそれから二人で話し合おう。また一緒に生きていく、これからのことを。迫りつつある明日の朝の話から。


某日より四日と少し 午前二時二分 自宅寝室にて

ふたりよがりな恋をしよう






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