「高専って広いねえ〜」
「そうでもねえだろ」
授業のない日の校舎は静かだった。元より、日常的に騒がしいわけでもないのだが、今日は人気すらない校舎の中を二人でのんびり歩く。
約束の通り、悟は名前に朝しっかり起こされ今日は一日校内を案内していた。と、言っても名前が行きたいように進み、悟は質問されれば答え危ない場所には立ち寄らせない、迷子にならないように悟が見守っているだけだった。
ただでさえ、世間一般より大きい悟に対して名前は世間的に見ると少し背の低い方であったから悟はいつもよりずっと歩幅を狭く、ゆっくり名前の横を歩いていた。古い校舎をじっくり見回す名前を悟は飽きもせずに見つめていた。
「やっぱりお休みだと誰にも会わないね」
「当たり前だろ休みの日にガッコーなんて物好きでも行かねえ」
「そうかなあ」
ただ高専をうろうろと歩き回っているだけなのに、名前は随分とご機嫌な様子で終始ニコニコと笑っている。無理もなかった、やっとここの生徒として迎えて貰えたのだからどんな気持ちより期待が高まってしまう。見慣れない校舎、勝手の解らない教室、どこに繋がっているのか解らない階段、全てに好奇心が踊る。
「悟くんはいつもこの廊下を通るの?」
「あ?…んなこと考えたことねーよ…まあ、そうなんじゃねーの」
「ふふ、そっか!」
名前は名前が知らない日々を生きていた悟を勝手に想像して楽しんでいた。電話越しに聞いていた生活を思い出して、初めて歩く廊下に悟を当てはめてみたりして。
「ねえねえ、どこから電話かけてくれてたの?」
「どこって言われても別に決まった場所なんかねえけど」
「じゃあここは?ここで電話してくれたことある?」
「あー?覚えてねーよ」
名前の質問に悟は怪訝な顔をして頭をガシガシと掻いた。悟は悟で、タイミングを見つけては名前に電話やメールをしていたものだから、場所はさして大切なものでもなかった。名前が電話に出れるか、メールを見ることができるか、それが大切だったのだ。
「…まあ、あんだけ電話してたんだから1回くらいはあったんじゃね」
「…ふふ。そっか!」
悟の言葉に名前はとびきり喜んでみせた。悟は何をそんなに喜んでいるのか解らなかったし、名前は名前でどうしてこんなに嬉しいのか解らなかったが、理由は別に必要としなかった。
宛もなくただ校舎を気のままに並んで歩くだけで、十分だった。昨夜からずっと一緒に居るのに、まだ一緒に居たいと思うのだ。一緒に居るだけでもう十分だったのだ。
「悟くん悟くん」
「なに」
「手つなご!」
「おー、ん。」
名前が素直に甘えて見せれば悟はうんと機嫌を良くした。くい、と悟の袖を引っ張った名前に悟はその手を差し出して、名前の手を寄越せとばかりにその指で催促する。差し出された手に名前が手のひらを重ねれば悟はぎゅっと包んだ。
「ちっせえ〜〜〜」
「悟くんが大きいんだって」
手を繋ぐその度に悟はわざわざ小さいと声に出し、大きさを確かめるように力をいれたり抜いたりするのだ。
いつもその手の小ささに、脆いおもちゃのように感じたり簡単に崩れる角砂糖のように感じたりするのだ。その柔らかさは綿飴のようであり、その温みは真冬の自販機に売っているホットココアのようでもある。するするとすべる皮膚の心地良さは目覚めたばかりに足先で感じる布団のようだし、握り返される強さは解けぬように結ばれたリボンのようだ。
悟はずっとこの手が好きだった。
「あ」
「なに?」
「あれ、教室な。」
「!、教室…!!入れるの?」
「入れるだろ、多分。」
名前の足が進む方へ歩き回っていた二人は、学校生活に置いて一番世話になるであろう教室に今更辿り着いた。初めから教室を目指して歩いていたわけではなかったものの、やはり教室には名前も大きく興味を示した。
悟は慣れた手つきで教室の扉に手をかけると、扉は無抵抗に開いた。中は勿論無人で、中央に机が並んでいるだけだった。
「もう机あんじゃん」
「え?」
「お前の机。机4つ並んでるだろ。」
名前は悟の後ろから顔を出して中を覗くと、たしかにそこには横一列に机が並んでいた。なんの変哲もない机だったが、明らかに自分のものがそこに混ざっているのだと思うと特別嬉しく感じた。
「わあ〜…!!」
「大袈裟すぎねえ?」
「だって嬉しい…!」
名前は誰がどの席に座って授業を受けているのか悟にこと細かく聞き、その机一つ一つを眺めた。悟はそれを自分の席に座ってじっと見つめていた。
随分長い時間高専の中を歩き回っていたらしい。電気を付けずとも明るかった校舎も少しずつ赤みを帯びた陽の光が差し込むようになってきて教室も染まる。
「もうこんな時間か」と窓の外を見て呟いた悟に、名前は手近な椅子を悟の座る席に寄せて同じように座った。
「この景色は知ってるよ」
「は?」
「悟くん、何度かメールで写真送ってくれたもんね」
名前は思い出して嬉しそうに言う。
名前も悟も、別になんてことない事柄でメールを送りあっていた。今日食べたもの、明日の予定なんてありきたりなことから、今日近所でみた猫、変な形の雲、机の落書きなんていう目に付いたものを写真に撮っては送ってみたり、とにかく内容はなんでも良かったのだ。相手に知って欲しくて、相手を知りたくて、物理的距離を少しでも埋めようとしていた。
名前の言葉にそう言えば、何度かここの写真を撮って送ったような気がすると悟も思い出す。別にここの景色なんかどうでも良かった。けれど少しでも良いなと思えば名前に見せたかったし、一つでも名前に送れるものが多ければその分だけやり取りが増えるのだ。悟は何でも名前に送った。それは名前とて同じだった。
「嬉しいなあ」
「何が」
「写真じゃなくて、本物を一緒に見れて、嬉しいなあって」
誰も居ない、暮れる陽で赤く染まった教室には名前のソプラノが良く響く。がらんとしたこの空間で悟には名前が一際特別な存在に感じた。丸一日一緒に居たのに、今更実感のような物が込み上げてきて苦しいほどに胸が満ちて膨らむ。
どうやら、悟は悟が思っていた以上に名前のことを待ちわびて居たらしい。それはたった一人で高専に来た時からずっと行動に表れていたのに、いざ隣に名前が居るとどうしようもなく嬉しくてこれからの毎日に期待せずには居られない。
悟は、きっと名前も自分という同じ気持ちなんだろうと感じ取って更に喜びを噛み締める。想いが報われることがどんなに幸せなことか、想われることがこんなにも幸せにしてくれるのか、知っているつもりだった。ずっと名前と一緒に居たから、誰かに教わる必要なんかなかった。それでも、安っぽい言い方をすれば離れてわかる大切さ、なんてものが悟にまた教えたのだ。
本当に名前のことが堪らなく愛しいのだと。
自分を見て本当に嬉しそうに笑う名前に、悟はじっとして居られず掛けていたサングラスを外してゆっくり顔を近づけ何も言わずに唇を合わせた。
「………いけないんだ、こんなとこで。」
「何でだよ。いーじゃん、好きだろ。こういうの。」
「うん、好き。…ふふ、ドラマみたいで、ちょっとドキドキしちゃった…!」
キスの余韻に浸るように額を合わせてじゃれ合う。
たった十数年、されど十数年。歳を数えるのに片手で足りた頃に出会った二人は、まだこの世を生きて十数年で一生一緒に居ようと思える相手を見つけたと言うのだから、周りの人々は二人を嗜める。
子供の恋愛など、将来性に欠けると言うのだ。若いうちは何でもかんでも奇跡だと、運命だと思って熱を上げるものだとまるで経験したことのように語るのだ。
悟はそれを悉く否定してずっと名前を隣に置いたし、名前もまたそんな大人の言葉をひっくり返せる未来を願っているのだ。
二人は、決して周りに望まれて一緒に居るわけではなかった。
「…なあ、なんで?なんで俺に何にも教えてくれなかったわけ」
「ええ、言ったよ。吃驚させたかったって。大成功だったでしょ?」
「…はぐらかしてんじゃねーよ。」
誤魔化すように笑い話にする名前を悟は咎めた。
至近距離で行われるやり取りを傍で聞いているものは誰もいない。悟だってずっと名前に気を使ってやっていた。気になることは山のようにあるのに、屈託なく笑い自分にわがままを言ってみせる名前に折れてやっていたのだ。自分の知らないことがあるのが気に入らない、気になって仕方がないのに、名前を想って我慢したのだ。
もう我慢ならないと強い眼差しで訴える。名前の瞳の中には間違いなく自分が映っている。名前はちゃんと悟の言葉を聞いていた。
「…正直私も、本当にここに来れるとは思ってなかったんだ。…悟くんだって、そうでしょ。」
「……………、そんなことねえよ」
「嘘つくの下手だなあ」
その眼差しに観念したように口を開いた名前はなんとなく夢見心地な雰囲気だった。
名前が悟の手に触れたのを合図に、悟も名前の手を取ってきゅっとその小さな指先を握った。存在を確かめるように指の関節から爪先まで撫でて、バツが悪そうに名前から目を逸らした。
「…俺は、ちゃんと待ってた」
「うん、知ってるよ。ありがとう。」
「…あ〜〜〜………聞きてえこといっぱいあるけど、何から聞いていいのかわかんねえ」
「そうだね、私も何から話せばいいかわかんないや」
名前の手を握りこんで頭を抱えた悟に名前はまたくすくす笑った。
ここに来るまで、色んなことがあったのだ。悟だって、それは何となく察していて聞いていいことかどうか必死に考えているのだ。名前が話をわざわざ誤魔化したのだ。名前が聞かれて嫌な想いをしないかどうか、デリカシーのない発言が目立つ悟だって、名前を相手にすると解らないなりに考えようとはするのだ。名前がいつだって、悟に対してそうしてくれるから。
名前もまた、自分がここに来ることができた理由をどのように伝えればいいか悩んだ。悟がそれを気にしてしまう気がしたからだ。悟は格好つけたがりで、名前にはいつだって男らしく見られたがるから、悟にいらぬ心配をかけたくなかった。決して隠したいわけじゃない。隠すことも悟にいらぬ心配をかけると名前はちゃんと解っていた。
「…私ね、きっと皆についてくのはまだまだ無理があると思うんだ」
「俺が居るから大丈夫だろ」
「…そうだね、悟くんがいるもんね。うん、私頑張れると思う」
「…マジで、明日から一緒にココでベンキョーすんの?」
前の学校はどうしたのか、親はなんて言ったのか、なんで入学できたのか、どうしてそれを自分に言わなかったのか悟は全部昨日からずっと気になったままだった。
どれも素直に聞いたとして、名前はそれを怒ったり嫌がったりしないだろう。そんなことは解っている。それでも悟は問いかけの最適解を探して、ストレートに聞くに至れなかった。
出来ることなら名前の方から悟に全てを話してくれれば話は早いのだが、名前もそれを躊躇していた。
悟の問いかけに対して、名前が話しあぐねている話を、わざわざ名前がはぐらかしてしまうような話を悟が踏み込んで聞く事はまだできなかった。
だから悟は、今日聞き出そうとしていたこと全部を引っ込めて、どうしても確かめる必要のあったことだけ先に問いかけた。
こんな毎日が続くのか、それが期待だけで終わらないかどうか、未だに信じられずに居たから。
「…うん、そうだよ。悟くんと一緒に居るよ。一緒に勉強して、一緒に生活してくんだよ。」
頭を上げない悟を空いてる手で名前がそっと撫でれば、悟はゆっくり顔を上げた。
再び交わった視線に悟は絆されてしまう。悟のような宝石を思わせる特別な瞳を持っているわけでもないのに、悟は名前の眼差しに全てを暴かれてしまっている気がする。悟が思っていることなんか全て見通されていて、隠し事を許されない、そんな風に思う。だから悟が欲しがった言葉以上のものを名前は与えてくれるのではないかと思うくらい、悟はいとも容易く名前に呑まれてしまうのだ。
「…なら、いいわ。ゆっくり教えて、隠し事はナシな。」
「うん、ありがとう。」
「ん。」
悟は急いで言葉を求める必要はないとどうにか自分を納得させて、自分を宥めるように名前にまた口付けた。
角度を変えて繰り返される口付けを名前は目を閉じて大人しく受け入れる。触れるだけ、かと思いきや軽く唇を吸われたり舐められたり、いつぶりか解らない糖度の高いスキンシップに嫌でも胸は高鳴る。
このまま流されてしまうかどうか、降り注ぐ口付けの合間にぼんやり考える。
自分を優先して、深く聞かずにいてくれた悟のしたいようにさせてやろうと決定付けるのに時間はかからなかった。
「ん、……悟くん…?」
「……あーーーー………」
いきなりぴたりと止んだキスの変わりに、名前の肩に凭れかかってきた悟に名前は不思議そうに声をかけた。
名前は悟の大きな背中を優しく、あやすように撫で「どうしたの?」と問いかけた。
「………我慢できなくなるから、終わり。」
「…それは大変だ…!ここは教室だしね…!」
「クッッッソ………」
「ふふ、ありがとう。」
名前の肩に頭をぐりぐりと押し付ける悟に仕返しとばかりに名前も悟の頭を抱きしめ頭をぐりぐりと押し付けた。
誰も見ていないとは言え、ここは教室でもうすぐ陽も落ちてしまう。
名前は悟のしたいようにさせてやろうと思っていたが、悟は嫌々ながらもちゃんと理性を働かせたらしい。
悔しげに呟く悟からちゃんと我慢してくれたのだとよく分かる。名前はなんだかそれが嬉しくて可愛くて堪えきれずにくすくす笑った。
名前は強引ながらも、自分のことを一番に考えてくれる悟が堪らなく愛しかった。
「帰ろっか!お腹すいたね!」
「おー………」
一頻りじゃれ合ったあと、満足したように名前が笑って立ち上がる。名前は何も言わずに悟に向かって手を差し出し、悟は腑抜けた声で返事をしながらその手を握った。
こんな悟を見たら、傑や硝子はどう思うだろうか。彼は欲しいものに対して強引で貪欲だが、大切にしようと決めたものには案外臆病なのだ。
ゆるく繋がれた手が二人の影を繋げる。間もなく沈み切ることを色で示す太陽がドラマチックに二人の輪郭をも染め上げた。
手を取って歩いて行けば、行き先なんかなくたって何処へでも行ける気がした。
マジックアワーの逍遥