来ない。外はすっかり日も暮れて、食欲をそそる家庭のにおいが立ち込める時間帯になった。俺は今日一日この椅子に掛けていつも通りの1日が始まるのをいつもと同じように待っていた。なのに、来ない。重い息を吐いて窓の外を見れば、空は綺麗に暮れている。半熟の目玉焼きに箸を入れた時のようにぐずぐずに溶けた夕日が見えた。あと10分もすれば新八と神楽がスーパーの袋を鳴らしながら帰ってくる。新八が不平を並べながら台所に立ち、神楽が無垢な目で世の中の不浄をブラウン管に垣間見る。湯気の立った貧乏飯を食って、奴等を風呂に入れてじきに瞼が重くなって、寝る。いつもと変わらない1日だ。だけど足りない。決定的に不足している。 来ないなら来ないで、連絡位入れたっていいんじゃないのか。 そんな思いが頭を過ぎる。しかしあいつは何か約束を取り付けてここに来ている訳じゃない。正直を言えば、俺が知っているのはあいつの姿形と名前、そして電話番号ぐらいだ。住所もここに来ている以外の時間は何をしているのかすら、俺は知らない。聞いたこともないし、あいつが自ら語った事もない。俺はいつでも全てを見せようと心がけていると言うのに。あいつは悪くない。解ってる。だけど俺の中の不満は不恰好に膨らんでいく。まるで俺が恋した時がそうだったように。最早言い訳にもならない舌打ちをひとつ。堪えきれなくなって1日腰を据えていた椅子から立ち上がった。あいつは悪くない、俺だって、悪いなんて事はない。ブーツを引っ掛けて外に出ると、丁度階段の下に新八と神楽の姿が見えた。 「あれ、銀さん」 「おーちょっくら出てくらあ」 何を早とちりしているのか、ガキ共は微笑ましげに俺を見る。目的地はそんな遠くにある用でもないので、源チャには乗らない。からあげのにおい。路地に駆けてゆく三毛猫。電信柱にとまり人間を馬鹿にするように見下ろすカラス。帰路を急ぐ近所のガキ、サラリーマン。少しよれた紙切れ片手に半熟の目玉焼きの中を歩く。とろとろに蕩けた道の向こうから、醤油を溢したような黒い影が見える。色素の薄い髪、整った顔。あれは、 「旦那ぁ」 「総一郎君、いいところに」 一番隊隊長の姿と共に、背景に屯所の門も映った。マヨネーズ色の門壁。 「ちょっとドSのよしみで聞きたいことがあるんだけど」 「面倒は御免ですぜ」 眩い目玉焼きの光がじりじりと群青色に蝕まれてゆく。形容できない色に染まった雲がやけにせっかちに流れていく。ふと、自分の空腹に気づいた。朝飯を食ってからから何も食べていない。これは早く事をすまさなくてはと、俺は年下である男に手をすりながらマヨネーズの根城へ足を進めた。 ▼ 「もしもーし」 「はあーい」 少し綻びが見え隠れするようなアパートから、聞きなれた声が聞えた。俺は甲斐も無く緊張し、空には以前群青と橙が同居している。 「え、銀ちゃ」 1日ぶりに見た顔は驚きに崩れていた。化粧なんてしてなくて、家着で、寝癖がめだつ。いつもの溌剌とした姿からは考えられないほど自堕落な生活を思わせる姿に、俺もあんぐりと口を開けた。驚く女と呆けた男。滑稽このうえない2人の男女がアスファルトに長く影を伸ばす。 「なんで、ここ」 「…それより、お前今日どうしたんだよ」 目をまん丸にして俺を見る。やめろ、見んな。そんな言葉を吐くのすら恥ずかしさを覚えてしまうので、ぐ、と吐きかけた息を飲み込む。自分が十分恥ずかしい行動を取っているのは一応承知していた。だけど、それを見せる訳にはいかない。恥ずかしい云々ではなく、男として、最低限のルールが在る。 「ああ…今日は、お腹が痛くて」 「…それだけ?」 「……結構しんどいんですよ」 腹が痛むのが死活問題なのは俺だって重々理解できる。ただ俺が聞きたいのは、今日丸1日俺を翻弄したのが、ただの腹痛だと言うのがにわかに信じがたいだけだ。 「心配、してくれないんですか?」 可愛らしく俺を覗き込む。やめろ、見るな。いいや、もう少しこのままで。…もうどうにでもなってしまえと思う。むしろどうにでもして欲しい。 「帰るぞ」 「え?」 「早く着替えて寝癖どうにかして来い」 「え」 「ほら」 自分で言って自分でどんどん恥ずかしくなっていく。あいつを無理やり部屋に押し込めて俺は再び空を仰ぐ。殆ど黄身は残っていない。白身のような雲に僅かに滲む黄色と、それを飲み込もうとする群青色の狭間に、ちいさく輝く一番星を見た。 どうにもうまくいかない。 |