大人に、聡いいい子だと言われた。それは担任教師であり、俺を生んだ両親であり、俺のことなんか何も解っちゃいない近所のババアだったりした。聡いとは何だ。

聡い(さとい)1理解・判断が的確で早い。賢い。2感覚が鋭い。敏感だ。

辞書を開くと、無機質な文字列が俺の頭を更に混乱させた。どういう意味だろう。もし仮に俺が聡いとして、期末テストなどで俺よりも点数の高い奴は俺よりも聡いということだろうか。じゃあその「聡い」という言葉は俺よりも「聡くて」「いい子」な奴に言ってやればいいのではないだろうか。それとも勉強の理解・判断が的確で早いのと、この「聡い」は違うのだろうか。俺は脳内に疑問を残し、辞書を図書館に返して、かわりに好きな作家の古い本を借りて図書館を出た。黒い学ランをクラスで浮かなくて教師にも目を付けられない程度に着崩して、道着と教科書の詰まったスポーツバッグと竹刀の入った袋を担いでスニーカーを履く。適度に薄暗くなり街中が橙色に薄く染まったこの時間帯は嫌いじゃない。

"遠い昔に約束したことが、今眠りについたよ。
あの日を思い出すのはもう、やめにしよう。
悲しいことにあの日のきみがぼやけて見えないんだ。
"

何度も何度も目で追ったこのフレーズ、手に馴染んだ古びた本の感触、独特の臭い。全てが俺の記憶を刺激した。がたんがたんと揺れる夕暮れの電車の中で、俺の存在はどこまでも平凡だった。可笑しいことに俺の名前ばかりが連なる図書貸し出しカード。俺以外にこの本を借りた奴はひとりしか居なかった。もう1年も前。もうあいつはいない。
見知らぬ人間しかいないこの空間で、俺ひとりだけが異様な存在のような気がした。否、もしくは、俺だけが人間で、俺以外の全ての乗客が人ならぬもののような――、周りの存在に隔たりを感じて、急に恐ろしくなった。わけの解らない焦燥から、自宅の最寄駅よりもふたつも早い駅で下車してしまった。またとぼとぼと俯き本に目を走らせながら家への道を歩く。なんでもない風を装って、俺にはまださっきまでの焦燥がまとわりついていた。通りすがる人間、コンビニのガラスから見える人間、あちこちから聞える生活音。全て知らない、俺は、何も知らない。

"生きたくなんてないの、なんて、うそついちゃった。
ほんとは誰よりも生きたい。生きたいけど、辛いの。
ねえ、生きるのって、こんなに疲れるんだね。
"

現実から逃れるように、本の世界に漬かっていく。たった一度読んだだけで、このフレーズを暗記して、俺に聴かせてくれた声は、今の俺のような、こんな悲しい孤独と戦っていたのだろうか。もっと身近で、もっと長く。耳にこびりついて離れない声はまだまだ沢山あった。それだけが俺を知っていた。理解してくれていた。意図しないで、足は勝手に動きを早め、文字を目で追えないほどの速さで俺は歩いていた。すぐに見慣れた自分の家に着いて、「ただいま」も言わずに自分の部屋に駆け込み、ベッドに突っ伏した。いつもと違った様子の俺を心配してか、軽い音で母親がおれの部屋をノックした。返事はできる心持じゃなかった。いま口を開けば、とんでもない言葉を口走りそうだ。「十四郎、どうしたの?具合悪い?」母親の心配そうな声が、ドア越しに聞こえてくる。鍵かけていないから、入ろうと思えば入れるが、母親は入ってくる気配を見せなかった。「今日は塾お休みする?先生に電話しておくわね?」返事をしない俺に、少し焦ったような声を洩らす母親は、数秒俺の返事を待った後、勝手に電話をかけに行ったようだ。チクショウ。1回休んだらどれだけ置いていかれるかわからない。今日塾を休むんだったら、家でそれ以上勉強しないといけない。今すぐにでも身体を動かし、シャープペンを握り、参考書を開き、受験に備えなくては。頭痛がした。針金で頭をきつく締め付けられるような、激しい痛み。頭を未だ身体にまとわり着く竹刀やスポーツバッグを身を捩ってベッドから落とし、布団を被って頭を抱えうずくまった。なんだ、なんなんだ!
さっきの母親の声が、まったく見知らぬ女の声に聞えた。俺の名を呼ぶ声の響きも、口調も微妙なイントネーションも母親の物だったのに、声だけがまったく違って聞えた。あれは誰だ。知らない、知らない――。
また、遠慮気味にドアがノックされた。「ね、十四郎、どうしたの。大丈夫よね?何も無いわよね?十四郎は、い い 子 だもんね?」どうしても俺の声を聞かないと安心できないらしい母親に、「ああ、大丈夫。ちょっと具合が悪いだけだ。寝れば治る」と告げ、わざと寝返って布団の擦れる音を母親に聞かせてやった。「そう、よかった。夕飯は?」先程よりも些か安心したような母親の問に、声を出すだけで痛みをます頭に眉を顰めながら「いらない」と応えた。やっと母親のような何かはいなくなった。痛みが幾分か和らいだような気がする。
布団の中が息苦しくなって、布団から顔だけだして深呼吸をした。窓の外に見える空は、夕暮れも終わりに近づいて橙と紺の混じった微妙なコントラストを描いていた。涙が滲む。あいつが死んだ日のような、とても綺麗な夕焼けだった。

"泣いていいよ。"

何度も読み返したあの本の、一番最後のページの一番最後の一文。そして、最期の言葉。ああ、そうか。わかった。本当に聡いのは俺じゃなかったんだ。俺を聡いいい子だと言う大人達は、皆俺のことなんか何も解っちゃいなかったんだ。そうか、俺は俺のままで良いのか。あいつらの望む「聡いいい子」なんかになる必要なんか。ああ。本当に聡いのはきっと、

"ぼくときみとへその胎動"
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