ナツ、大陸へ飛ぶ 1
ナツについては『お友だち(偽)』
維星、永進、龍については『中国組』の『親愛的小星星』をどうぞ
*
ナツ
蜂王(ふぉんわん)
唐 維星(たん うぇいしん)
邵 永進(しゃお よんじん)
許 龍(しゅう ろん)
*
ナツが嬉しそうににこにこしながら談と帰ってきた。何かいいことでもあったのだろうな、と鬼島は出迎えた玄関で察する。可愛い顔をして、と微笑みかけながら「おかえり」と言った。
「ただいまです! 見てください優志朗くん!」
靴を脱ぐ前に、そんなことを意気揚々と言うものだから鬼島は首を傾げた。
「ん? なぁに」
「パスポートを取りました!」
てってれーん! と小さなボディバッグからそれを取り出して見せる。小さな冊子、見覚えのある表紙だ。全く予想もしていなかったものの登場に「パスポート」となんの芸もないおうむ返しをしてしまう。しかしナツは気にした様子もなく「はい」と大きく頷く。
「すごいです、これ一冊でたくさんの国に行けちゃいます」
「すごいねえ……?」
なんでいきなりパスポートなのだろう、個人を証明するものがないから? 頭の中に浮かんでは消える可能性。鬼島の頭の上には珍しく「?」が見えるよう。何に関しても先手先手を考えて動くが、ナツの行動はときどき読めない。だから一緒にいて楽しいのだが。
むふふ、と笑ったナツはとんでもないことを口にした。
「お金は貯めました! 海外旅行に行きます」
「おっ……ん?」
「維星くんがおいでって。永進さんも了承してくれています」
「あー、なるほどそういうこと」
ようやく思考回路が状況を読み込んだ。
維星と永進。大陸の北方を中心に広い勢力を持つ黒幇『四號街』の老大である邵永進、その庇護下にいる少年・唐維星。
飛行機嫌いでめったに大陸を出ない永進が維星の頼みを聞いて日本へやってきた際、鬼島邸に宿泊した。ナツと維星はそこですっかり親しくなり、互いに通訳を介したり、ときどきは学習した成果を書き綴ったりと文字での交流が続いていた。その中で誘われたようだ。
知らなかったな、と思いながら顎へ手をやり、ぴかぴか笑顔のナツを改めて見る。
「鬼島さんは一緒に行けないよ?」
「えっ!」
「いろいろな兼ね合い? があるから。まあズルしたら行けるけど」
「ズルはだめですよ……国際問題になっちゃう気がします」
「ナツくんならそう言うと思った。ついでに言うと談もだめよ」
「ええっ!」
斜め後ろに立っている談を振り返るナツ。談は申し訳なさそうに苦く笑う。
「すみませんナツさん……どうしても言い出すことができず」
「ナツくんは、多分大丈夫だと思うけど」
ぎぎぎ、と音でもしそうな動きで顔を鬼島に戻し、急にしょんぼりしてしまった。
「ひとりで行ける自信ないです……言葉もまだまだ、全然わからないですし」
「でも行きたい?」
問いかけにははっきりと頷いた。
「行きたいですぅ……」
しょぼしょぼ。そんな雰囲気のナツの頭をなでなで、鬼島は、じゃあと言葉を続ける。
「送り届けるまでやってくれそうな人に電話してみるね」
玄関での立ち話から居間へ移動し、談がナツのためにみかんを剥きながら「力及ばず」と言っている向かいで携帯電話の画面をタップ。
「鬼島だけど。今、いいよね?」
「ちょっと忙しいんですが」
なにやら物騒な音が聞こえる気がしたが、鬼島は無視をして「まあまあ耳貸してよ」と話を続ける姿勢を見せた。諦めたように「はい」と返事。とても嫌そうな声だったが、それも無視。
「お前、近々あっちに帰るんでしょ? 何しに行くんだか知らないけど」
「何で知ってるんですか……怖」
今度は少し引いたというようなトーン。やはり気にせず「そのときにさ」と本題に入る。
「うちのナツくん、連れて行ってくれない? さすがにひとりで行かせるわけにはいかないし」
「なつさん? なんでですか」
ドンッと派手な音がしたが、少しだけ携帯電話を耳から離して間を置く。確かに電話の向こうは少々忙しいようであった。
「そちらの可愛い維星くんが『来てね』って言ったんだって」
「はぁなるほど……別に構いませんけど」
具体的な渡航日程と、ついでにこちらへ戻るときに一緒に連れてきてくれるよう約束を取り付けた。話しながら頭の中で逆算をし、手続きが間に合うか否かを同時に計算する。大丈夫そうだと判断、切り際に
「道中、指一本でも触れたら逆さ吊りにして生皮剥ぐからよろしくね、蜂王」
そう言えば、『四號街』で暗躍する男はぽつりと「理不尽な」とつぶやいた。
「ナツくん、行けるよ」
ナツはとても嬉しそうに「やったー」と笑った。とても可愛かったので、その姿を写真におさめておいた。
そこからは怒涛の手続きラッシュだ。
「な、なんでこんなにやらなきゃいけないんですか」
「仕方ないね。国の決まりだから」
鬼島がいやいやながら所属している『東道会』の大陸担当にときおり助けを求めつつ専用のページへアクセスしてこまごまとしたビザ申請書への記入をしたり細かい基準に溢れた申請用の写真を撮影しに行ったり、蜂王とやり取りをしつつのフライト予約、『四號街』への個人的な連絡と必要書類の確認、受け取り、専門セクション予約、そして申請。
ばたばたと日々は過ぎていき、ようやく観光ビザを手に入れたナツはパスポートに貼られたそれを見て、目を輝かせていた。
「ふおお、これでおれは出入りできるんですな」
「なくさないようにね。異国でパスポート失くすと面倒くさいわよぉ」
「はいっ! お腹に貼り付けておきます!」
「密輸みたい」
「気をつけないと……どきどき」
もろもろの準備を談と済ませて、空港へ向かう日の朝。
どうしても鬼島は会議の都合で見送ることができなかったので、家の玄関の前でしばしの別れとなった。滞在日数のわりにはごく小さなキャリーバッグと最近お気に入りのボディバッグを持ち、セーターにデニム姿のナツを抱きしめる。
毎日少しずつ注意事項は言ってきたので、あとは特別話すことはない。と鬼島は思ったのだけれど。
「素敵な人がいてもついていっちゃだめだからね」
「何回言うんですか。大丈夫です」
「お水成分が全然違うから絶対に直飲みしないように」
「はい。お土産買ってきます! いってきます、優志朗くん」
「いってらっしゃい。気をつけてね」
額にキスをすると、ナツは恥ずかしそうに笑った。
空港四階にある国際線搭乗手続きロビー。
まだ昇らぬ朝日のせいで高い場所にあるガラスの外は暗い。
冬の朝は動くのが億劫だな、と思いながら身支度を終えて家を出た蜂王は待ち合わせの十五分前に到着していた。端にあるベンチに座り、辺りを見回す。早朝とは言え出発便が多いので、なかなか混雑していた。喧騒に耳をすませるとさまざまな言語が混ざりあっている。
今から帰るのだろうか、それとも行くのだろうか。
どことなく嬉しそうに見える人が多く見えるのが不思議だな、と思う。嫌々出国する人だっているだろうに。華やいだ表情の人が印象に残るだけなのかもしれない。
華やいだ表情で、今日の同行者を思い出す。
一度だけ会ったことがある、ナツという人。『東道会』の異端・鬼島優志朗が可愛がって可愛がって、その様子はまるで別人とも言われているそうだ。『東道会』は蜂王が所属する『四號街』とは長い付き合いであり、鬼島は表舞台にちょこちょこと出てくる。『四號街』老大・邵永進はなぜか鬼島が特別気に入りだ。
俺からすれば、ずいぶん不気味だけど。
読めない表情でへらへらと近付いてくる様子がどうにも苦手だ。気を抜いたらばくりと食われてしまいそうな気がする。そんな鬼島が大事にしているということでどんな人間かと思いながら、維星から預かった手紙を携えて会いに行った。
これが、案外と普通の子だった。
表情豊かではつらつとしていて、はっきりしている。陥れるとか策略を巡らせるとか、そんなこととはとても縁遠いというか、縁がなさそうに見えた。むしろそれが、鬼島が大事にしている証拠なのかもしれない。
つらつらと頭に浮かぶ順番で思考していると、きょろきょろしながらナツが現れた。
立ち上がり、大股に近付く。
「ナツさん、おはようございます」
「うぉっ。おはようございます。蜂王さん、今日はよろしくお願いします」
「こちらこそ。荷物、少ないですね」
ナツが引いているのは深い青の小さなキャリーバッグ。それと片腕にマウンテンパーカー、紺色のボディバッグ。
「はい……あの、永進さんが着替えも何にも持って来なくていいって……一応こまごまとは持ったんですけど」
困惑顔で言う。老大のことだから、身の回りのものを一から十まで揃えたんだろうなと考えた。なんなら客間の改装から家具の入れ替えまでやっていそうだ。
「人を迎えるのが好きな方ですから。油断していると箸の上げ下げの必要もなくなりますよ」
「ひぃぃ……緊張します」
「気楽に気楽に」
ナツを促して一応、航空会社のカウンターの方向へと向かう。列に並ぶ必要はない。優先手続き、優先搭乗ができる席だからだ。
「蜂王さんは、その小さいかばんだけなんですね」
話しかけられ、帽子のつばに触りながらそうですねと答える。最低限のものだけあればいい。向こうにも生活に必要なものが揃っているし。
「旅慣れしてるように見えます。素敵です」
「故郷に帰るだけですから。特別準備するものもないだけですよ」
ぶらぶらと歩きながら、時間を見た。もうカウンターは開いている。
スムーズにナツが荷物を預け、パスポートを出してチェックイン。保安検査は毎回混雑しているので、と蜂王に言われて、すぐに向かった。
「ご飯は食べましたか」
「しっかり食べました!」
「良いですね」
「ご飯は食べないと。元気が出ません」
隙あらば食べるのを放棄しやすい自分とはだいぶ違うな、と思う。蜂王は夜にいつも行くイタリアンレストランが閉まっていれば何も食べない。たとえそれまで一日、一食もとっていなかったとしても。
保安検査を無事通過し、出国ゲートを経てチケットに印刷された搭乗口の番号まで歩く。
免税店などを横目に、奥まった場所にあるそこを目指した。角を一回曲がって、間もなく。手前にあるところとは異なり、まだ人はまばらで静かだった。
「たばこ吸いに行くならお供しますよ」
「えっ」
「来る途中、喫煙室見てたので。違いました?」
「違わないです……」
「行きましょう」
にこにこしているナツが先に立ち、来た道を引き返す。
「よく気付きましたね」
「優志朗くんも、よく探してるので」
「なるほど……」
よく人を見ている。気をつけなければならない。
外で待っているナツに気を配りながらたばこを吸う。黒い不織布のマスクを外し、吸って、またマスクをした。マスク内に呼気がこもって煙いのが気になるけれど致し方なし。喫煙者の宿命だ。
あとは搭乗案内があるまで待つだけとなる。蜂王とナツは横並びで座り、時が経つのを待った。
少しずつ、人も増えてきて賑やかになる。
「先に乗り換え空港に行って、少し待って、それから維星くんがいるところに着くんですよね」
「そうですよ」
「ううう、緊張します。国外に出るのも初めてなので」
「難しいことはありません。着くまでは完璧にサポートできるようがんばりますし」
「蜂王さんから離れないぞ……」
そうしてください、と言いながらマスクの下で笑う。横顔は確かに、緊張しているようだった。
「一回目のフライトは一時間ちょっとですから、寝てもいいですよ」
「どきどきしているので寝られそうにないです」
「空港に着いたら、少し早いですけどご飯食べましょうか。混雑する前に」
「ご飯!」
「おいしいところがあるので、案内します」
何がありますか、と前向きに食いついてきたので食事の話題が正解なのだ、と理解した。こうこうこういう料理があって、と説明すると目を輝かせた。純粋な表情は癒しに繋がる。蜂王もほわほわ。
飛行機は窓際の席にナツ、通路側の席に蜂王。座席の前後はゆとりがある。ファーストクラスではないが、ビジネスとの中間のようなものだ。いつもならエコノミーで帰るが、永進から「ナツさんに快適な旅を楽しんでもらいたい」と言われたので予約した。
「外が明るくなってきましたね」
「景色が見えると思いますよ。夜は夜できれいですけど、明るい世界を上空から見るのも悪くないです」
「楽しみです」
一時間半ほどの空の旅。
乗り換えをするだけなので機内で特別やることもなく、提供された軽食を楽しみながらあっという間に空港に到着した。蜂王と案内板に従って異国の土地を歩く。トランスファー専用の荷物検査を通過して、出発ロビーに出た。
「ひ、広い」
明るいうえ、天井がとんでもなく高い。右を見ても左を見ても、果てしなく廊下が伸びているようだ。蜂王がいなかったらとっくに迷子になっていたにちがいない。
「おいしい食堂が地下にあります」
迷いなく歩く姿が頼もしい。優志朗くんが頼るだけあるな、と思った。
地下は地上階と異なり、やはり少々薄暗い。昼になればもっと明るくなるんですけどね、と聞いたので、まだ人が少ないから光量を抑えているようだ。
メニューには親しんだ言語の表記もあったが、注文はやはりこの国の言葉のようで。蜂王にこれで、と言うと、するすると異国語が出てきて驚く。支払いもスムーズにカードで終えてしまい、席に向かい合わせで座りながら「すみません……」とうなだれた。
「どうしましたか」
「いえ、なんか全部やってもらってばっかりで……」
「気にしないでください。あ、お金のことでしたら永進老大から預かってきてますのでご心配なく」
「既におもてなしが始まっている……?」
永進は果たしていくら渡したのだろうか。考えそうになって、やめた。想像するのが少し怖いような気がしたからだ。
「食べましょうか」
そう言って、小さなテーブルでは食べるのに邪魔になると思ったのか蜂王がずっとかぶっていた帽子を脱いだ。マスクも外す。さらさらした黒髪、整った顔だち。思わず固まるナツ。
「……ナツさん?」
「いえ、あの、お顔、初めて見たなぁと」
「そうでしたか?」
「前にお会いしたときも、マスクしてらっしゃいましたし」
ぼぼぼと音がしそうな勢いで顔が赤く染まる。ああそういうことか、と蜂王は理解した。人を不快にさせないレベルの顔であることは自覚している。
「好きですか、俺の顔?」
「はい……」
「よかったです。ビビンバと一緒に堪能してくださいね」
いただきます、と蜂王はキムチチゲを食べるべく、ステンレスのスプーンを手に取った。ナツもビビンバを混ぜ始める。が、ちらちらと顔をうかがってきて、可愛らしかった。
「食べ終えたら、時間がありますから少し見て回りましょう。何か買うものとか」
「特には」
「ではドーナツでもいかがです?」
「食べたいです」
職員の姿もある食堂で食べたビビンバはおいしかった。やはり本場は違うのだろうか、水? 食材? 調味料? 考えつつ完食し、少し休んだのち地上階へ戻る。マスクと帽子を再度身に着けた蜂王の横でむしゃむしゃとドーナツを食べながらあちこちを見て、時間も良い頃合いになってきたので搭乗口付近のベンチに落ち着く。
既に人が多くなっていて、ガラスから見える外の世界はすっかり昼の様子である。飛び交う異国の言葉。
「あの、入国審査ってなんか聞かれたりするんですよね」
「そうですね」
「……おれ、言葉なんにもわかんないです」
「わからない顔していればそれなりに対応してくれると思いますよ」
「英語、とか……英語もちょっと怪しいですけど」
「残念ながら」
「うう、ですよねぇ」
可能であればお手伝いしますが、と言いよどんだ姿を見るに、やはりひとりで挑まなければならないようだ。鬼島に紹介された先生について学んではいるものの、聞き取りが得意ではないのと本場の言葉の速さについていけない気しかしない。
「なんとかします……がんばります」
「一メートル後ろから見てますね」
「はい……応援よろしくお願いします」
十個のドーナツをおいしくいただいて、時間が来たけれど飛行機には乗れなかった。
使用機材の遅れで一時間ほど遅延してしまったのだ。
ようやく案内されて乗り込むと、やはり前後が広く、今回は座席と座席の間も広かった。ソファのように座り心地がいいので驚いて隣の蜂王を見る。「どうですか」と聞かれたので「すごいです!」と答えた。
離陸してすぐに蜂王が目を閉じたので、静かに窓の外を眺めていた。青空の中を進んでいるのだが、全くそんな気がしないのは静かで風景が変わらないからだろうか。
しばらく飛んで、眼下に大陸の景色が見えたときは感動した。
山、斜面、集落、川、海、街並み。色が全然違うという印象を持つ。それから、似たような建物が密集している率が高い。学校らしきものは広い。高層ビルっぽいものが多い。高速道路らしきものの周りには何もなさそうだ。全く違う風景に、わくわくと緊張が高まる。
都市のような街並みが見えてきたところで、ぱちりと蜂王が目を覚ました。
「窓の外はいかがですか」
「建物の密集率というか、なんか全然違うなって印象です。外国感があります!」
「面白いでしょう」
「はい!」
着陸態勢に入るというアナウンスを蜂王が翻訳して伝える。
「降りたらもう寒くなりますから、席でそれを着た方がいいです」
ずっと持っているマウンテンパーカーを目で示される。出る直前、鬼島に持たされたものだ。向こうの寒さは尋常じゃないからねとのことで、こちらはマイナス四十度でも耐えられる優れモノだとかなんとか。
「わかりました」
「まずは入国カードを書きます。それとパスポートを提出して入国審査です」
「いよいよだ……」
「ここさえ乗り越えたら、あとは永進老大が全てやってくれますからご安心を」
「がんばりますっ」
ふんすと鼻息。そしてふと気付く。
「あのう、永進さんはもう空港に?」
「ええ、維星と定刻には着いて待っていると」
「ありがたや。蜂王さんは」
「俺は、やることがありますので空港でお別れです。また帰りの日に会いましょう」
「わかりました。助かります。ありがとうございます」
「いえいえ」
地上に降りると途端にがやがやと辺りが一層賑やかになった。蜂王の耳に届くのは、早速誰かに電話して話す声や連れと話す声など。ナツがジャケットを着てかばんを掛け直すと同時に、外に出られると乗務員が伝えに来た。
空港の中も、満足にあたたかいわけではない。地方の一小都市の小さな空港はそこまで行き届いていないのである。
表示に従って進むとすぐに入国カードを書くカウンターがあった。ナツに指示をしながら蜂王も記入する。ビザの種類、乗ってきた飛行機の情報、個人情報や滞在先の都市名、住所と電話番号、目的。
「英語でもいいですよ」
「はい」
自身はさらさらと簡体字で記入して、係員のチェックを受ける。
入国審査は人民と外国籍と特別レーンの三つ。外国籍のところに、ナツを先に並ばせる。
「なんか怖そうです」
ガラス板の向こうにいる、深緑色の制服を身に着けた若い男性を見てナツが怯える。大丈夫ですよ、と宥めた。
「指紋の登録が最後にありますから」
「緊張」
「大丈夫大丈夫」
ほとんどが人民だったので、外国籍レーンは空いていた。同時に着いた飛行機もない。あっという間にナツの番になってしまう。
内容は渡航目的や帰りの飛行機の予約について、何日間の滞在か、などごく簡単なものだったけれどナツははわはわ。担当者が困ったような顔をして、パスポートの情報を読み込んだ後にカードを入念にチェックする。
それから単語単語の英語が出てきたので、あわあわしながらようやく返していた。どうやら親切な人だったようだ。最後に指紋を取り、入国スタンプをパーンと押して返され、ゲートが開く。
次の蜂王は帽子とマスクを外す。短期間で様々な国への出入国スタンプやビザが貼ってあるのでいろいろ聞かれた。どこでも通用するような無難な返事をして、あっさりとクリアする。
「お待たせしました」
「緊張しましたぁ」
「英語ができる人でよかったですね」
「言葉を真剣に勉強しなきゃなと思いました。なんだか申し訳なくなります、この国に来てこの国の言葉がわからないというのは」
「そうですか」
「蜂王さんはすごいです、いろいろな国の言葉ができて」
「必要に迫られて叩きこまれた結果に過ぎませんよ。無事入国、おめでとうございます」
「ありがとうございます!」
ぴかぴか笑うナツにマスクの下で微笑み返して、荷物の受け取りと税関のX線検査を通過する。蜂王のライターが一瞬引っかかったが返された。大都市ではライターの持ち込み・持ち出し不可なのだがここは大丈夫らしい。ばらばらな規格が面白いところである。
「ナツさん、ようこそいらっしゃいました。長旅でしたでしょう」
到着ロビーへ一歩踏み出してすぐ、そんな艶のある低音が聞こえた。右側を見る。明るい空間にわだかまるような黒い髪や衣服。雰囲気が異質なのだとわかる。周りをかためる人といい、緊張感がある。
わだかまる黒である、永進が近付いてきて隣へ立った。
「大変でしたか」
「いえ、蜂王さんがいてくれたので――」
きょろ、と辺りを見回す。蜂王の姿はどこにもない。ついさきほどまで後ろにいたはずなのに。
「蜂王は別行動ですから。あれは役に立ちましたか」
「ずっと助けてもらって、心強かったです」
「それはよかった」
永進が、朱墨で刷いたような唇で微笑む。いささか発音に元の言葉の訛りがあるが、穏やかな速さが耳に優しい。
「荷物をお預かりしましょう」
「いえ、軽いですから」
「お気になさらず」
つい、と視線を隣へやるだけで、男のひとりがナツの荷物を受け取る。
「維星くんは」
「なーつーくーん」
小さな声だがしっかりと聞こえたので、そちらを見る。維星がぴょこぴょこと走ってきた。以前会ったときより明るく、背も伸びているようだ。ぎゅうと抱き合う。
「なつくん、来ました」
維星の口から日本語が聞けた。
「来たよう。久しぶりだね」
「嬉しい」
ふかふかと柔らかな花のような香りがした。
ぎゅうぎゅうと抱き合って再会を喜ぶ二人の横で、永進が龍にたずねる。
「維星の具合は」
「車酔いだったみたいです。休んだので、もうすっかり」
そうか、と応じる。空港に着いてから今まで、体調を悪くした維星は龍と共に車の中で休んでいた。よくなったならよかった。
維星はナツの腕にぺったりとくっついている。嬉しそうな顔が可愛らしく、ふっと微笑んでから龍を紹介する。
「ナツさん、維星はまだ言葉を学んでいる最中です。滞在中、何か困ったことややりたいことがあればわたしでもこの龍にでも遠慮なく話してください。龍は案内係兼通訳兼護衛としてお世話します」
「許龍です。いつもは維星と一緒にいます。よろしくお願いします、ナツさん」
なんとなく談を思い出す青年だった。真っ白な明るい笑顔に端正な顔立ち、はっきりとした優しい声、伸びた背筋。
差し出された手を握り返し、ナツです、と言うと笑みを深めた。もふもふ頬が赤くなってしまう。
「なつくん、なつくん」
維星がくいくいとナツの服を引く。見下ろすと、厚手の外套からごそごそと手袋を取り出した。落ち着いた茶色と深緑のツートンカラー。
「あげます」
「ありがとう!」
外は寒いですから、と龍が維星の言葉を聞いて通訳する。にこにこする維星にもう一度お礼を言い、身に着ける。
「こちらの冬は本当に寒いので、気をつけましょうね。靴も、足が冷えるようだったらすぐに言ってください。危ないです」
「気をつけます」
龍に言われ、頷いた。確かに、飛行機を降りた瞬間、何とも言えない寒さの外の空気を感じた。危ない、という意味がわかるような気がする。
「車の中は暖かいです。すぐそこですが、気をつけるにこしたことはないです」
永進にうながされ、維星と手を繋いで外へ踏み出す。
「い、痛いですね!?」
冷気が刺す。容赦なく吹き付ける強風に雪のようなものが混ざっている。寒い、というか痛い。顔がびりびりする。まわりを見る余裕もなく、維星に手を引かれながらせかせかと車の後部座席に乗り込んだ。
「今日は天気が悪いです」
右に維星、左に永進、運転席に龍、助手席にまだナツが知らないイケメン。車内の暖かさにほっとした。
滑るように走り出した車が一般車線に合流する。
「道が広いですね」
「そうですね。国土も広いですし、人口の分、車も多いですから」
運転しながら龍が応じる。
窓の外に高い看板が見えた。漢字で書いてあるが、形が異なるためか見慣れず、一瞬では内容が判別できない。そういえば交通事情が逆だな、不思議な気持ちだな、と思う。
高速道路に入ったのか道の脇が斜面になってしまった。それか、木々。
「ナツさん、寝てもいいですよ。しばらく景色は同じです」
永進に言われる。移動中は気を張っていたからか全く眠くならなかったが、睡魔がやってきたところだった。助手席のイケメンが龍に話しかける異国語を聞きながらうとうと目を閉じると、肩をそっと引き寄せられた。
「寄り掛かってください」
高級な墨のような、豊かな香りがする。
「なつくん、ねます」
維星のたどたどしい言葉を最後に、夢の中へ。
永進の肩の辺りへ頭を預け、すう、と眠っているナツと手を繋いだままの維星。じっと永進を見上げる。
「ずるい」
「ずるくはないだろう」
「維星も背が高かったら……ぐぬ」
「たくさん食べて運動すれば大きくなる」
ぽんとナツの腕へ頭をのせる維星。ふぁ、と小さく欠伸をしたのを見て、寝るか、とたずねると頷いた。間もなくして維星も眠りに落ちる。永進は静かな動きでブランケットを出し、ナツと維星にうまい具合にかける。
後部座席をルームミラーでうかがっていたナツの知らないイケメン・乃靖が振り返って永進を見る。
「なんでおれのこと紹介してくんないんですか」
「必要か?」
「酷い……」
冷ややかに返され、肩を落としてすごすごと前を向く。龍は運転席で笑っていた。
維星が目を覚ますと、慣れ親しんだ自室のベッドの上だった。服は室内着になっており、布団もしっかりかけてある。昨日の夜はナツが来るのが楽しみで寝つけなかったので、すっかり熟睡してしまったようだ。
傍にあった上着を羽織って、あたたかな室内履きを履いてぱたぱた部屋を出る。隣の永進の部屋は無人で、首を傾げながら少し離れた客間を見た。少しだけ扉が開いているようだ。近付くと、声がした。
なつくんの声だ。
維星は急いでそちらへ行く。中を覗くと、ベッドに座ったナツが龍と話しているところだった。
「なつくん、おきます」
「維星くん」
隣へ座り、ぺとりと腕にくっつく。ナツはむふふ可愛い、と笑っていて、龍もほのぼの。
「小維、今、家の中を案内しようかっていう話をしてたんだけど一緒に行く?」
龍にたずねられ、いく、と元気よく答える。ナツも維星と同じ室内履きを履いて、廊下に出た。維星はナツの腕にくっついて、龍が左側を示す。
「あちらが霊廟です」
「霊廟」
「代々の『四號街』老大や永進老大のご兄弟がいらっしゃいます」
「なるほど……」
「では、向こうに行きましょう」
白い漆喰の壁と極彩色の柱。柱や天井には色褪せのない細かな彫刻や天井絵が施されている。見ているだけで楽しかった。
「ここは昔の建築様式、四合院という造りに近いです。中庭を囲むように棟が建っています」
広い中庭には木々が植えられており、春や夏になれば花も緑もきれいですよと龍が言う。
廊下の突き当りに両開きの扉。
「ここから先は寮です。ナツさんは用事がないと思います」
「はーい」
入るな、ということだと理解する。こちらへ、と手前を曲がった。
「ここがいつも食事をしている場所です。一般的には居間に当たるでしょうか」
「食堂みたいですねえ」
左側、広々とした室内に椅子と机。右側は厨房になっていた。業務用と思しき調理場や水回り、冷蔵庫、水道。真ん中に作業台。ステンレスが光っている。かなり丁寧に掃除されているようだった。
「老頭」
ナツの腕から離れた維星がぴょこぴょこと厨房に入っていく。
「んー? どうしたちびっこ」
「あのね、なつくん来た」
「ああ、お客さんか」
椅子から立ち上がり、一角の休憩スペースを出てカウンターへ。
「なつくん、老頭」
「うちの調理を全てやってくれている人です。みんな老頭と呼んでいます」
手をついてじいと見つめてくる、禿頭の日に焼けた老人。背が高く細身だが腕は太く、しっかりした筋肉がついているのがわかる。大きな目は圧力があるかのようで、たじ、とする。
「ナツさん。『東道会』の鬼島さんの、パートナー」
「ああ、あの男のな」
「よろしくお願いします……」
たどたどしく挨拶をすれば、ん、と手が差し出される。傷痕や火傷の痕があり、厚みがある手だった。握り返すとかさっとした肌の質感をしていて、あたたかい。さっさといなくなってしまったが、ああ見えて優しいんですよと龍が言う。
「ここを過ぎると玄関です」
立派なホール。どこも床はぴかぴかで泥やちりのひとつも落ちていない。
どこへ行っても室内が暖かいことに気付き、それを龍に言うと「暖気がありますからね」と言われた。ぬわんちー、ナツが繰り返す。
「この国の北方に欠かせない暖房システムです。どの部屋にも大体ひとつはあって、二十四時間暖かな空気が供給されます」
「へえ……すごい」
「この家は広いですから、トイレにも完備されています。ナツさんが泊まる客間にもありますよ」
「注意して見てみます」
あちらは、とホールの真ん中で居間(食堂)に繋がるのと反対の扉を示す。
「あちらは、前老大の弟さんが住んでます。居住地区ですね」
「およ。ならば入らないよう気をつけますね」
「多分、本人は気にしないと思いますけどね」
ふふ、と龍が笑う。それを聞いていたかのように扉が開いた。
「お、龍と維星じゃねぇか。何してんだ? 新しい家族か? 維星今日も可愛いなあ」
大声で何やら言いながらのしのし近付いてきて、維星の頭を撫で回す長身大柄な男性。維星は力に負けて首がぐらぐらしている。むちうち、とナツが心配していると「銀飛大爺、くび」と言った。
「おおすまんすまん。今日も可愛いぞ」
「維星はいつもかわいいよ」
「そうだな!」
豪快に笑って、ナツを見る。人当たりが良さそうな笑顔だが、目元は鋭い。鬼島を少し濃くした感じがする。ぴゃ、とナツが固まると、龍が「お客さんですよ」と言った。
「『東道会』の鬼島さんのところからいらっしゃったナツさんです」
「あの小僧の。はあーなるほど、初めまして。蔡銀飛だ」
「ナツです」
こちらに来て握手をするのは何回目だろう。慣れない接触だけれど、人の肌を感じるのは苦手ではないナツは差し出された手を握り返す。大きくて指が長い手だ。
「もし暇だったら、滞在中遊びに来てくれ。茶をいれる」
「銀飛大爺がいれるお茶はおいしいですよ」
龍が訳しながら添えた。ありがとうございます、とお礼を言い、老頭に用があるという銀飛とは居間で別れて、客間の方へ向かう。
「シンプルな家の中でしょう」
「わかりやすいです」
「この邸内には常に誰かいますから、困ったら声を掛けたら助けてくれますよ」
「ぼ、ボディランゲージでがんばりますっ」
龍が笑う。
「困ったら維星に言ってね」
「ありがとー。一番に言うね」
「うん」
維星は、滞在中はナツにリラックスしてもらいたいとふんすふんす鼻息が荒い。絶対に役に立つのだという気概に溢れている。ちょっと老大に似た気質になってきたな、と龍は思っていた。客好きの永進にだいぶ似てきた。
「今日は臘八節ですから、夕飯にお粥が出ます。臘八粥といいます。ナツさんは甘いもち米のお粥は食べたことありますか」
「ええと、料理屋さんで一回。おいしかったです」
「老頭が作るのは絶品ですから、楽しみにしていてくださいね」
「はーい。期待しています」
客間に戻り、維星と龍としばし歓談。維星とナツは龍を介しながらではあるがいろいろな話をした。外が次第に暗くなってきて、夜を迎える。用事だということで出ていた永進が帰宅し、客間に姿を見せると維星にぎゅうと抱きしめられていた。
「ただいま、星星」
「おかえりなさい。なつくんとなかよくしてた」
「いいことだ。どうだ、仲は深まったか」
「うん」
乃靖が龍に近づいて話をしている。このイケメンさん、永進さんがいるところにはずっといるんだろうなあ。鬼島さんについてる秘書の篠原さんみたいな感じなのかな。思いながら見上げていると、急にこちらを見たので目が合う。
「乃靖」
相手が口を開きかけたところで、永進の静かな声が呼んだ。ぴ、と肩をすくめて行ってしまう。永進に何やら小声で言われ、振り返り振り返り客間を出て行く。なんとなく寂しげに見えた。
「ナツさん、お疲れでは?」
「お水もらいましたし、元気です!」
「今日は早めに休んで、明日の朝は一緒に市場へ行きましょう」
「市場!? 行きます! 永進さんが行くんですか」
「ええ。食材などを見に。食はすべての基本ですから、毎朝維星や老頭と一緒に市場へ行って買い出しをするんです」
「はえーそうなんですねえ。でもわかります。食は全ての基本」
永進が微笑む。
「食は身体を養い、心を癒します。なのでわたしは、大事な家族が食べるものは自分で選びたいんですよ」
「維星は明日、みかん買う」
「今の時期はいいみかんがあるからな」
市場にわくわくするナツ。乃靖が顔を覗かせ「食事の時間だそうですよ」と言いに来た。
「これがお粥!」
いろいろな大皿料理を食べて、最後に出てきたお粥。もち米のほかに棗、山芋、百合根、はすの実、黒ゴマなどなどが入っていて、水分が日本のものより少し多めだ。食べてみると確かに甘い。けれどしつこくなくて食べやすい。
「らーばーじょう、おいしいです」
「よかったです」
木のテーブルに龍と維星、永進とナツという四人で座っている。乃靖は先に食べたのか、テーブルの隣に立っていた。おいしいおいしいとナツがどの料理もぱくぱく食べるのを、カウンターに頬杖をついた老頭が見ている。
「老頭、おいしいって」
「ああ、よかったよー」
維星が伝えると、いつものようにふやけた返事がある。けれどその顔は嬉しそうで、おいしいものをおいしいと食べてもらえるのが嬉しいようだった。むふんと維星も嬉しい気持ちだ。
以前、鬼島とナツと一緒に食べたのもおいしかったけれど、ナツが自分の国の料理をおいしいと目の前で食べてくれるのはとても嬉しい。
「前に本で読んだんですけど、油が多く使われていて味が濃いって書かれていたんです。ずいぶん違いますね」
お粥をおかわりして、ナツが言う。龍が頷いた。
「この国は東西南北、国土が広いです。たくさんの民族と歴史と文化があります。その中で各地域で発展したいくつもの料理があって、同じ名前の料理でも味や使う食材が全然違う、ということもよくあります。この辺りは特に、味付けは薄くして素材の味を楽しみながらいただく、ということが多いんですよ。各地で使う油の原料も違いますから、そこから既に特徴があると言えます」
「興味深いです。ということはこのお粥も地域では食べたり食べなかったりですか」
「そうですね。主に北の方……この辺りでは盛んですが、南の方では既に廃れ始めているとか」
「ふむふむ」
「餃子や饅頭、餅なんかもこの辺では主食としてよく食べますが、南に行くほど食べないですよ。その代わり、麺だとかお米だとかが主食になっていきますね。土地や気候が理由です」
「面白いです。いつか食べ歩きをしてみたい……じゅるり。言葉の勉強がんばります」
「はい」
食事が終わると、老頭がやってきた。
「あの、おいしかったです」
たどたどしく言葉で伝えると、目が合う。
「うまかったか。よかったよ」
「すごく」
「うん。明日の朝も楽しみにしてろ」
器用なバランスで皿や器、箸などを回収して去っていく。厨房には若いお兄さんたちの姿が見えたので、これからみんなで皿洗いや片付けなどをするのだろう。人の家に滞在して自分が食べたものを人に片してもらう、というのはなんだか落ち着かない気持ちだったが、維星がくいくいと手を引いたので思考が途切れた。
「なつくん、かえります」
「うん、部屋に帰ります」
客間に戻り、がさごそと荷物からまずはお酒の瓶を引っ張り出す。
「これ、鬼島からです。永進さんは水みたいに日本酒飲むから、水みたいな日本酒を手に入れたって言ってました」
「ありがとうございます。これは、幻の日本酒として有名ですね」
「そうなんですか」
「たまたま手に入ったときに飲みましたが、また会えて嬉しいです」
「よかったです」
黒い瓶を撫でて、後ろに立つ乃靖に渡す。
「維星くんに、炭酸飲み比べセット。最近好きだって聞いたから」
「ありがとう」
永進に渡したボトルとは別に、小さな瓶がいくつも出てくるので維星は、かばんが四次元空間に繋がっているのでは、と思ってしまった。先日見たアニメの青くて丸い猫型ロボットが思い出される。
「これは老頭のところで預かってもらおうね」
「うん」
龍が回収して、厨房へ持っていくことになった。
「龍さんには、今度なにか送ります。なにが好きですか」
「お気になさらず。でもいただけるなら本がいいです」
「本、ですか」
「はい。読書が趣味なんです。推理系の小説を読んでみたいです」
「わかりました!」
送ります! と元気いっぱい答えたナツに目を細める。
「さて、もういい時間だ。ナツさんはシャワーへどうぞ。龍、使い方を」
「はい」
「維星もー」
「維星は俺と入るか」
「永進、まだお仕事?」
「いや、今日はもう休む」
「じゃあいっしょ」
「うん」
龍から説明を受け、湯を溜める。「なんかあったら呼んでください。ここにいるので」とドアの外を示されてあわあわしてしまう。
「もう龍さんも休んでください」
「ナツさんになにか不便があっては、俺が老大に叱られますので」
にこにこ、しかしきっぱりと言われてしまってそうですかとしか言えない。ささっと出て来よう、などと考えていたが「ごゆっくりどうぞ」と言われたので甘えることにした。
なんだかんだ移動や慣れない環境で疲れていたのか、あたたかな湯に浸かった瞬間「あー」と声が出てしまった。ドアが閉まっているので龍には聞こえなかったと思うが。まさかこんなに手厚く迎えてもらえると思っていなかったので恐縮してしまう。が、嬉しい。
備えてあったものを使って髪や身体を洗い、備え付けのタオルを使って身体を拭く。さすがに下着は持ってきたものを身に着けたが、清潔な洗面台の上に白い寝間着が用意されていたので身に着けた。襟のあるパジャマだ。着心地がいいのできっとお高いんだろうな、などと考えながらそろりそろり、浴室を出た。
「いかがでしたか」
「すっきりです」
「お水とお茶を用意しておきました。歯磨きセットもありますので使ってくださいね」
「何から何までありがとうございます」
白い陶器のカップに入ったお茶は適温になっており、透き通った琥珀色をしている。香りが豊かで美味しそうだ。
「加湿器は、乾燥が気になったらここを押してください」
「はい」
「もし困ったことがあったら、維星の部屋にいますのでそこの電話で呼んでくださいね。遠慮なさらず」
「わかりました」
「あと、日本語が使えない人間がドアの外からノックをしたり声をかけてきても開けてはいけません。そのときも開けないまま、電話で呼んでください」
「それは危ないとかいう、ぶるぶる」
「老大と維星のお客さんですから、うちの人間は俺に断りもなく訪問したりしません。俺が一緒じゃなかったら無視をしてください」
「はわわ」
「ないとは思いますけど、一応。もしもの話です」
「わ、わかりました」
ではおやすみなさい。良い夜を。そう言って龍は出て行った。
広々とした客間でナツは、改めて部屋をぐるりと見渡してみる。書斎に置かれていそうな重厚なテーブルとふかふかした椅子、ライト、時代を感じる電話器、ナツが四人は寝られそうなベッド、さらさらした寝具、ウォーターサーバー、コップが複数、お菓子類、そのほか気遣いのいろいろ。床は白いタイルで、壁はやはり白い漆喰だ。赤茶のドア枠や窓枠には繊細な彫刻がしてある。そしていい香り。
大きな窓の外を明るいときに見たが、流れているのかいないのかわからないような速さで流れる大きな大きな川があった。対岸に古びた平屋、更に向こうにビル群。カーテンを閉めてお茶を飲んで一息、歯磨きをしてベッドへ横になる。
「あ、優志朗くんに連絡しないと」
この国では通常、連絡手段は国産アプリしか使えないんですよと龍が説明してくれたが、ナツには鬼島が持たせてくれたポケットWi-Fiがある。設定も済ませてくれたのでメッセージアプリを開いて通常通りメッセージを打ち込み、送信した。返事を待つこともなく、襲ってきた眠気に身を任せる。なんとかベッドの近くにあるスイッチに手を伸ばし、灯りを消した。
「はっ、ナツくんからだ!」
「よかったですねー」
「無事に着いてます、楽しいです、おやすみなさい……はあああ可愛いねえ……楽しんでいてなにより」
「よかったですねーじゃあ帰ります」
「待ちなさいよあーりん。今夜は帰さないわよ」
「帰してくださいよ……」
「談もいないしー佐々木もいないしーそうなるとあーりん呼ぶしかないじゃん」
「ひとりで静かに過ごしてください。ではまたおやすみなさい」
「着いていってもいいのよ……満和くんに嫌がられてもいいの?」
「脅さないでください。……寝るまでですからね?」
「わーい。ありがと」
座り直した有澤は、向かいで濃いめの焼酎が入ったコップを傾ける鬼島を見る。
「よくひとりで行かせましたね。何があるかわかりませんので、俺は絶対嫌です」
「まあ邵永進がついてるからこそだけどね。一人旅だとかだったら絶対に行かせなかったよ。国内でも危ないのに、外国なんてなおさらでしょ」
「最近、大陸系が活動盛んですし。本土ではこっちからは想像もできないようなすさまじいぶつかり合いがあるって聞きましたが」
「『四號街』は勢力を伸ばしてる。影響力もでかい。今回は拠点だから大きい問題は起きないって踏んでるけど――何か起きたら困っちゃうな」
ナツがいないからか、眼鏡をかけていない鬼島の目が前髪の奥で冷たく光る。有澤はふうと息を吐いた。
「さすがにすぐには手出しできませんよ」
「わかってますぅ。面子にかけてナツくんは無事に帰すでしょうし、心配はしてない」
ふんと笑って焼酎を煽る。鬼島の横にはすでに数本、空の瓶が転がっているが有澤は見ないふりをして日本酒を口に含んだ。心の中で「ナツさん、早く帰ってこないかな」と思いながら。
これから毎晩付き合わされるようでは、たまったものではない。
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