高校三年生になった鈴彦は、順調に大学入学試験を終えて、家を出て行った。
大学近くの学生寮に住んでいる。寮と言っても、学生だけが入居を許されているアパートということで自由度は高い。最初、家を出ていくことに難色を示した直だったが、管理人が常駐していて警備会社も近くに待機所を構えている、ということで許可を出した。
ひとり暮らしをすることを直が保護者として許した理由はそれだけではない。
入試を控えたある夜、鈴彦が真面目な様子で言ったのだ。
「考えたい」
と。
「何を?」
柔らかく尋ねれば、目を逸らして、テーブルの上のカップを見つめた。白いその中にはなみなみと、まだ湯気を立てるココアが入っている。鈴彦の顔は、小さい頃の困った表情そのままだった。
「……直と、一緒にいていいのか」
「どういうことだろう」
「お前のことが好きだ。でも家族として好きなのか、よくわかんねー。だからひとりで暮らして見極めてくる」
鈴彦は、およそ四年間大学へ通う。
その中で様々な出会いがあり、発見があるだろう。直は小さく息を吐いた。
「いいよ。好きにやってごらん」
もう少し、直が何かを言うかと思った。
鈴彦が顔を上げると目が合う。ただ微笑んで、引越し当日も穏やかに見送ってくれただけだった。
さて、大学生活が始まった。
鈴彦にとっては初めてのひとりの生活もだ。静かな小さい部屋で、ちょこちょこと課題をこなし、学校へ行き、帰りに買い物をする。家に帰って料理を作り、食べ、アルバイトとして始めたオンラインの授業を教師として運営する。
そんな生活の中で、ふと思った。
「これって直といたころと変わんねーな」
思わず、オムライスを食べながらつぶやく。
もともと直は、帰ってくることがない、もしくは遅い時間の帰宅で、ひとりで過ごしている時間が圧倒的に多かった。いくら業務が減ったとはいえ忙しい時期というのがあるようで、結局週に二回くらいしか一緒に食事をする機会がなかった。朝か夜、それも鈴彦が待っていれば、の話。
は、と笑い、はぁ、と溜息をつく。
直がいなくても案外寂しくないのは、離れている時間がもともと長かったからなのだろう。四六時中一緒にいれば、ひとりになったら寂しいのかもしれない。
「自業自得だな」
時々連絡してくる直が、寂しいかい、と尋ねてくる。寂しくねーよと返すのは本心で、本当に少しも寂しいと思わなかった。むしろ誰を待つこともない生活は気が楽だ。夜遅く帰ってくるだろうから、と献立に気を遣わなくていいし、帰ってくると言っていたのに帰ってこなくてそわそわする必要もない。
「この生活の楽さに気づいちまった……」
まだ一年目なのに、まずひとつ発見してしまった、と鈴彦はちょっと笑う。
直は必要ない、という結論を出してしまいそうだ。
もともと人と関わるのが苦手な鈴彦だったが、大学ではグループワークなどもあるのでそうは言っていられない。おどおどしつつもなんとか相手とコミュニケーションを取っている。
が、仲良くしたいと思うような友人らしい友人は一年経ってもできなかった。
必要があれば話すが、というレベルで、一緒に遊びに行ったり遊びに来たりという相手はいない。
大事だと思ったのは右京の存在だった。高校で奇跡的に仲良くなった右京は、やはりそちらの大学で友人を作ろうとしていなかった。時々会っては近況を報告する。その時間の尊さに気付いたのだった。
「うきょーロス」
と言うと、冷たい美貌の友人が笑う。
「ぼくロス?」
「そう。うきょーロス。なんで同じ大学に行かなかったんだろうな」
鈴彦の部屋で、クッションに座っている右京はおかしそうな笑みを口元へ浮かべたまま、自分が持ってきたビスケットを一口齧る。
「それは、ぼくが勉強したい学部がなかったから」
「つらい」
「つらい?」
「つらい」
鈴ちゃんはぼくが好きだねえ、という言葉に、珍しく素直に頷いた。
「ぼくロスはわかったけど、十里木さんロスにはならないの?」
「ならねー。全然ならねー」
「ぼくはおじさんと離れてひとり暮らししたら、二日くらいで寂しくなると思う」
「おれもそう思ってたんだけどなー……」
テーブルに置いたグラスの側面を指先で撫で撫で、鈴彦が呟く。
「おれ、直いらねーかも。やっぱり家族として好きだったのかもしれねー」
右京が目を瞬かせた。
「直しか頼れる人がいなかったから頼ってたけど、もし自分が就職してひとりでもやっていけるってなれば、たぶん直の顔見なくてもいられる」
「そう」
「うん」
「それが鈴ちゃんの結論?」
「今のとこな」
そうなんだ、と言って、それ以降右京は何も聞かなかった。鈴彦も、それについては触れなかった。
大学在学中、鈴彦はほとんど家に帰ることをしなかった。
直の顔を見ることはなく、電話で時々話す程度。やはり寂しくはなかったし、たまに右京に会えたらそれでよかった。直について考える事もあまりない。
好きだけれど、ただそれだけなんだろう。いつからか家族に対する愛情と恋愛とを混同しただけ。
就職することを決め、どういった場所で働くかということもなんとなく絞り込んだ。
一応直に相談しておこう、と思い、電話をして久しぶりに帰った家。
玄関から変化はなく、物の配置が少し変わっているだけだった。直が早めに帰ってくると言ったので、冷蔵庫の中を覗いてある食材で夕飯を作る。ひとりでもしっかり自炊をしているらしく、野菜や肉などがきちんと入っていた。
直が帰って来ないことも考え、温めたら食べられる程度まで準備をする。
そしてやはり、告げられた時間を過ぎても直は帰って来なかった。やっぱりな、と思いつつコートを身に着け、夕飯を準備してある旨のメッセージを送って靴を履く。
離れていたおかげか、もうイライラすることはなかった。直も忙しいんだな、くらいだ。むしろ忙しい中で帰ってきてくれていたことに感謝しつつ、家を出て鍵をかけた。
就職したら、どこかまたアパートを借りてひとり暮らしをしよう。
直にも余計な負担を掛けさせなくて済む。
そう思う決心がついただけ、帰ってきた甲斐があったというものだ。暗い道を歩きながら、なぜか出てきた涙の理由もわからないまま、手の甲で拭った。
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