『鈴彦くん、ご飯食べたかな』

 そんなメッセージが何度も送られてくる。鈴彦はその文章を見ていつも頷いたり首を横に振ったりするくらいで返事は送らなかった。
 咳が出る。
 風邪を引いてしまったらしい。家を出て三日目の朝だった。制服姿で飛び出し、服は右京のを借りていた。


「今日は家に帰る」
「体調悪いんだったらうちに帰ってきなよ」
「いーよ。うきょーに移したら悪いし」
「そんなこと」
「気になる。だから学校終わったら帰るから。悪かったな、迷惑かけちまって」


 ううん、と言って、整った顔に心配そうな色を浮かべる右京。鈴彦は結局、午後一番で早退していった。


 家に着くと途端に具合の悪さが倍ほどになってのしかかる。久しぶりの帰宅、ずるずる這うようにして階段を上がった。部屋に辿り着き、制服や靴下を脱ぎ捨てて寝間着に着替え、万が一のとき用にスマートフォンを持ってベッドへ転がり込む。熱が出ているのか寒気がして、背を丸めて咳をしながら直のことを考えた。
 帰ってこい、と言ったら帰ってくるだろうか。
 まさか、そんなわけがない。
 いつだってひとりにされる。悲しくって泣いてもひとりだ。
 熱の心細さだろうか、ぼろと涙が溢れた。最近妙に涙もろかったのは病気のせいかもしれない。
 そんなふうにこじつけて、苦しい中でスマートフォンを手に取った。





『直のばか。くそやろう。帰って来い』
『どうかしたの』
『具合が悪い。お前のせいだ』


 送られてきたメッセージを読んで居ても立ってもいられなくなり、有給申請をして返事を貰う前から速やかに帰宅した。なぜだか家にいるような気がしたのだ。
 案の定、玄関に鈴彦くんが通学に使うローファー。久しぶりに目にした。階段の上からかすかに咳の音が聞こえてくる。けほ、けほ。乾いた音と湿った音の入り混じるそれに、ああ本当に具合が悪いのだと思った。具合が悪いと正直に言ってしまうほど、だったのだろう。
 帰ってくる途中で買い込んできた経口補水液や栄養剤、食材などをダイニングカウンターの上へ置き、階段を上がる。鈴彦くんは自分の部屋にいるようで、ドアの向こうからかわいそうなほど咳が聞こえてきた。


「鈴彦くん、入っていい?」
「嫌だ」
「どうして」
「……移ったら困るだろ。大好きなお仕事できなくなるぞ」
「そんなものより鈴彦くんのほうがずっと大事だよ」
「嘘つき。帰ってこねーくせに」


 がらがらとした声で一生懸命言い返してくる姿に胸がぎりぎりと痛くなってしまう。病気はいつからなのかも知らないし、体調が悪い間ずっとひとりでいたと思うと、情けない気持ちになった。


「本当にごめんね」
「別に。そこらへんに食い物とか置いておいてくれりゃいいから。さっさとどっか行け」


 ドアを開けようかどうしようか、鈴彦くんに従おうか。
 やはり無理だった。


「入るよ」


 開けて、中へ入った。
 鈴彦くんにしては珍しく、制服が脱ぎ散らかしてあった。いつもきちんと片づけるのに。よほどだるかったのだろう。シャツも脱ぎっぱなしで、靴下も落ちている。ブラインドが閉め切られたままの薄暗い部屋のベッドの中に鈴彦くんがいた。


「入ってくんなっていった、のに」


 げほげほ、苦しそう。息をするたびに妙な音が鳴っている。


「入らないと鈴彦くん、寂しがるでしょう」
「寂しくねーよ」


 きっとこちらをにらむつり目。けれどいつもより目が弱弱しい。それでも僕は、久しぶりに目にした鈴彦くんが嬉しかった。不謹慎だ。


「何か食べられそう?」
「いらねー」
「じゃあ買ってきたもの持ってくるね。あと鮭のお粥作っておくから」
「……いらねー」
「だめだよ。何か胃に入れないと。あと水分」
「直がいれば、いいし」


 思いもよらない言葉に、人生でほぼしたことのない二度見というものをした。ベッドに潜り込んだ鈴彦くんのくぐもった声ははっきりと、よく聞こえた。


「直がいりゃーいいっていつも思ってんのにお前いねーし、かと思えば突然帰ってくるし、わけわかんねーよ。このご時世連絡なんかいつでも取れんだろ」
「ごめんね」
「連絡してくりゃー飯くらい作って待っててやるのによ」
「ごめんなさい」
「ばか。お前のこと好きだからって余裕こいてんだろ」
「こいてないよ。いつも心配しているよ、鈴彦くんがご飯食べているかな、とか、寝ているかな、とか」


 ずずと鼻を啜る音が風邪なのか泣いているのかわかり兼ねた。だからそっと、布団を捲ってみた。
 幼子のように身を丸めて膝を抱えた鈴彦が泣いていた。


「……ごめんね」
「お前の仕事の邪魔してーとか思ってねー」
「わかってる。器用にやれない僕がいけないんだよ。鈴彦くんはひとつも悪くない」


 がり、がり。
 親指の爪を噛む。それをそっと押さえてやり、そのまま握り締めた。


「ごめんね、鈴彦くん。大好きなのに一緒にいてあげられなくて。頭も心も鈴彦くんでいっぱいなのに、一緒にいたいと思うのに」
「……ほんとに思ってんのかよ」
「うん。すごく」
「……帰って来いよな。連絡して、飯食って、寝るっつー普通のことが直としたい」
「うん。なるべく」
「絶対」
「わかりました」


 抱きしめたかったけれど、とても辛そうだったから諦めた。指に口づけ、さする。


「鈴彦くん、早く元気になってね。僕、ひとりで寝るの嫌いなんだ。知っていると思うけれど」
「……うん」


 珍しく素直に頷いた鈴彦くん。
 それから三日ほど鈴彦くんは寝込み、その間僕は、僕なりに甲斐甲斐しく世話をした。あれこれと身のまわりの世話をして、夜は床に布団を敷いて隣で寝た。鈴彦くんの風邪が移ればいいのに、とも思ったけれど、そんなことはなかった。残念だ。


「鈴彦くん、今日は早く帰るからね」


 そんなメッセージを送る頻度が上がった。仕事をひとつ減らしてもらったからだ。完全に若手へ指導する側に回り、自分が前に立つことはなくなった。家族のために、可愛い恋人のために。
 メッセージが返される。


『今日は手抜き飯でうどんだぞ』
「いいよ、僕は鈴彦くんがいて作ってくれたらなんでも」
『ばかなおし』
「ばかでいいよ。可愛い鈴彦くん」
『ばーか』

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