みんみんとセミが鳴く。あちらこちらから攻め立てるようなそれに、木々を見渡しても姿は見えない。それらの音が遮られたのは、ヘリコプターが山の上を飛んだときぐらいだった。じゃわじゃわみんみん、一体どれほどいるのか想像もできない。

 普段歩いている道と異なる、石や砂の明らかな坂道を右京はせっせと登っていた。
 ひとりで。
 木々の上には青空が広がっている。白い雲が時折流れ、陽が陰る。風は町中と違ってひんやりと涼しく、機械のそれとも違う優しさがあった。

 右京の顔には汗がない。しかし首や身体にはそれなりに流れていた。軽装というわけではないけれど本格的でもない服装で、雨具と軽食と簡単な着替えの入ったリュックを背負って、初心者向けと言われる山に挑んでいるのは、昨日の加賀からの電話が原因だった。


「ごめんね、明日は仕事で行けなくなったんだ」
「……山小屋……」
「一応予約はそのままにしておいた。下から上まで一本だし、電車でも行けるし。もし右京が行きたかったら行ってもいいよ。気を付けてね」


 相当焦っていたようで、早口の後にすぐ切れてしまった。
 む、と唇を尖らせて携帯電話をテーブルの上へ置き、ごろりと寝ころんだ右京。こうなったら行ってやろう。そう思ったのだった。せっかく予約した山小屋もあるし、ひとりで山登りというのも悪くなさそうだ。

 加賀と約束をすると守られないのは少し嫌だけれど、先の約束をすればするほどつながっていられるような気がする。いつか加賀に捨てられる、と思ったことはない。でも先は、実際はどうなるかわからない。約束をしておけば、その可能性が先に先に延ばされるような気がする。

 自然の中を歩いていたら、あれこれと思いが巡る。そのままに考えながら、深くはしなかった。浅い場所をかすめて通り過ぎるだけ。
 途中、岩に座って休んだ。
 水を飲み、飴を食べる。体力があるかないかよくわからなかったが、どうやらないほうらしい。初心者向けの山だと加賀は言ったが、中腹少し過ぎでかなり疲れを感じている。

 おじさんがいたらどうだったかな。
 おじさんは、さくさく登りそう。

 あまり長く休むと歩きたくなくなるので、深く呼吸をしてよっこらせ、と立ち上がる。あと二時間もしたら頂上に着くだろう。
 そうしたら、そこにある山小屋に泊まるのだ。
 限定一組二名まで、料理と夜景と星空とふかふかベッドと温泉が楽しめるという盛りだくさんの場所。
 ひとりよりふたりがよかったけれど仕方ない。数年先まで埋まっているという予約。数年先のところに再び名を連ねようか。そうすればそこまで一緒にいられるかもしれない。

 間もなく頂上というところで、木々や草の間からかさりと、狐が顔を覗かせた。くりくりとした目でこちらを見ている。
 足を止めた右京は、狐と見つめ合った。
 近寄る意志がないことがわかるのか、逃げる素振りもなくただ見ている。歩き出したいが、目をそらすと負けたような気がするからだめだ。
 かさかさ
 ぴょこり、と、その狐の脇から小さな狐が顔を見せた。大きな狐に身体を擦り付け、大きな狐はぺろりと舐める。
 羨ましく思いながら、草の間に消えた狐を見送って、最後の上り坂へと挑んだ。


 果たして、たどりついた頂上。
 彼方の山の向こうへ沈もうとする夕陽、山裾にあるきらきら光を受けて輝く湖。絶景にふさわしい、自然の美しさ。
 しかし、それらの景色より何より、右京を驚かせたものがあった。


「思ったより時間が掛かったね、右京」


 意外に人気のない頂上、転落防止の柵に寄りかかっていた加賀が振り返って笑う。いつもと変わらないスーツ姿に革靴で、場にそぐわないことこの上ない。幻覚かとも思った。
 呆然とする右京に近付いてきて、小さな頭を守っていた帽子を取ると、汗かいてる、と、黒髪を撫でた。
 突然のことに目を白黒させる右京を見下ろし、柔らかな表情の加賀はほんの少し屈んで額へキスをした。


「仕事、片付いたから急いで来たんだけど。下から普通に登っても追いつけたね、きっと」
「おじさん、どうやって来たの……? 車?」
「まさか。車道ないよ、この山」
「……瞬間移動?」
「使えたら右京の目の前に現れるかな」


 首を傾げる右京の前で、にこにこしたまま長い人差し指をぴっと立て、示した先は茜色の広い空。遮るものなく広く広く、ある。
 見上げた右京は大きな猫目をぱちぱち。まさか、と思いながら、加賀を見る。


「あの、ヘリコプターの音」
「聞いてたんだ。そう、俺。緊急だからって十里木さんにお願いして飛ばしてもらって。急ぎすぎちゃったね」
「ぜ、税金が……」


 苦笑いに変わった加賀の表情。驚きすぎてそんなことしか言えなかった右京は他の言葉を探して、しかし何も見つからなかったのでとりあえず抱きついた。
 うれしい、ありがとう……なんだか少しずつ違う気がする。だからやはり何も言えないままで加賀の肩に顔を擦り付ける。スーツの生地から、加賀のいつもの匂いがしてとても安心した。


「……疲れた」
「うん、お疲れ様。温泉入ってゆっくり休んで。ご希望ならマッサージも致します」
「うん」


 猫の子でも撫でるように優しく頬に触れた加賀がもう一度額にキスをしてきて、右京は頬の手を取って親指の下あたりへお返しをした。

 木をふんだんに使用した山小屋にはすでに料理の香りが漂っていた。部屋に着いてさっとシャワーを浴びた右京が出て来ると山の幸川の恵みを使用したたくさんの美しい品々が待っていて、部屋に加賀とふたりだけという気楽さからゆっくり味わった。魚も山菜も鳥も美味く、はぐはぐと一心に食べる右京を前に安心したような顔で箸を進める加賀。


「おじさん、山女魚、おいしい」
「もっと貰おうか」


 こくこく頷く右京に笑って、加賀は内線電話の可愛らしい子機を持ち上げた。


 満腹になると少し休み、揃って部屋の外に備え付けの露天風呂に浸かった。距離は全くなく、加賀の足の間に右京が座っていつも家の浴槽でしているような入り方だ。
 ごつごつと自然の岩を使ったのであろう様子の丸い場を満たすちょうどいいとろみの湯。さきほどから加賀の溜息が止まらない。


「おじさん、疲れ取れる?」
「もちろん……あー……いいなぁ……空気もいいしごはんおいしかったし」
「山女魚、おいしかった」
「三尾も食べたもんね。右京がたくさん食べる姿、可愛かった」


 わしわしと濡れた髪をかき混ぜる手のひら。
 後頭部をぴったり加賀の胸へ寄りかからせ、空を見た。光量抑えめの最低限の電灯の上へ、これでもかと星が散っている。


「……夏の空だね」
「うん」


 湯の中で、腕が右京の細い腰を抱きしめた。


「今年の夏は何しようか」
「なんでもいい。おじさんがいたら」
「夏だけじゃないね。これから来る秋も冬も、春も。考えておかないとあっという間に過ぎちゃうから」
「そんな、先の、こと」
「考えようよ。ふたりで何するか考えたら、きっと楽しいから」


 身体を起こして振り返ると、いつもの優しい笑みがあった。


「右京と、来年も再来年も十年後も、ずっと一緒に何かしたい。もちろん、毎日一緒にいること前提で」
「おじさん」
「嫌な大人でごめんね」
「全然、いい」


 湿った髪をかきあげた加賀に胸をときめかせながら、右京は肩に噛み付いた。言葉にならない愛しさを歯に込めて。そう、これが自分の伝え方だった。


「今日は一段と激しいね」


 がぷがぷ、肩、首筋、腕、手首。岩に座らせて内股やふくらはぎや、足首まで。今は足の指を甘噛みしている。
 見下ろしてくる加賀は困ったような顔。


「きれいな子に、イケナイコトさせてる気分」
「もっとイケナイコト、してもいい?」
「いいけど、続きはベッドでね。寒くて死んじゃうから」


 たしかに、湯から上がれば結構寒い。
 口を離すとひょいと抱え上げられ、身体をシャワーで流されてから洗面台を備えた脱衣場でバスタオルに包み込まれる。


「温泉から上がるときは、シャワーしないほうがいいんだって」
「あとでもう一回入るから」


 身体を拭かれながら、右京の目に洗面台の鏡へ映った背中が見えた。加賀の背中は意外と筋肉質で、でもまっさらだ。歯が疼く。あそこにも、噛み付きたい。言葉にならない愛しさを、刻みつけて、みたい。


「おじさん、ベッド行ったら、うつ伏せに寝て」
「なんで?」
「いいから」
「いいけど」


 ぐいぐい、背中を押す右京。
 おじさんと睦み合いたくてたまらない。


 さて、翌日の右京は激しい筋肉痛に苛まれて子羊ちゃんのごとくぷるぷるしながら加賀にあれこれ世話され。
 帰りは手を引かれて、きちんと山に合った格好の加賀に励まされて無事下山したのだった。

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