「おかえり」


 と、いつもなら出迎えてくれる鈴彦くんがいなかった。家の中も暗いまま。今日は早く帰る、と伝えればいつだって家にいてくれるのに、どうしたんだろう。学校用の靴がない。帰ってきてないんだろうか。
 腕時計の針は夜の九時。高校生ということを考えると、遅いとも早いとも言えない時間。友だちといて時間を忘れるくらい楽しいならまだしも、他所の誰かに何かされていたら、と思うと頭が痛くなる。
 リビングの灯りをつけて、バッグから取り出したノートパソコンの電源を入れる。立ち上がりは早い機体なのに、今日は妙にゆっくりに感じてしまう。トップ画面は鈴彦くんの写真。おいしそうにアイスを食べている横顔を隠し撮りしたもの。きつめの目が緩められていてとても可愛い。が、平面で見るよりも立体で見たい。触れたい。キスをしたり、むっと尖らせた唇で罵ってもらいたい。
 デスクトップのアイコン、なんでもないファイルの形をした一番下にあるものをクリック。画面が黒く沈み、浮き上がるように表示される地図。位置測定機能というのはとても便利で、最近のものは誤差もかなり修正されている。使い始めの頃よりずっと頼もしくなった。今や欠かせない存在だ。
 白い部分が道、赤や緑が建物。黄色く点滅するのが、鈴彦くんの位置。右上にカーソルを持っていき、四角のボタンをクリック。すると、鈴彦くんが最近立ち寄った場所が右側に細長く一覧で現れる。ここはそれのどれとも異なる住所のようだ。もう一度ボタンをクリック。鈴彦くんのクラスメイトや交流のある人物の住所が現れるが、やはり該当なしのメッセージが表示された。先ほどと同じだ。
 ずっとアイコンが止まっている緑の建物は服屋のようで、でも鈴彦くんがいつも服や小物を買いに行く通りじゃない。その上はマンションになっているから、その部屋のどこかにいるかもしれない。誰と、何をしに。僕といるよりも楽しいことなのだろうか。
 急に頭が真っ白になる。電源を落とすこともないまま、鍵とかばんを掴んで閉めたばかりの玄関を開けた。

 情けないことだとは思う。高校二年生の「おとうと」を、好きにさせてあげられもしない。大人のくせに、何十年も長く生きていて経験があるくせに、すぐ余裕がなくなる。こんな僕に鈴彦くんは気付いているのだろうか。だとしたらとても格好悪い。いつでも格好いいと思っていてほしいのに。

 車を飛ばして着いた店の駐車場。薄暗い場所で、店も街灯もぽつりぽつりとしかない。スマートフォンから確認すると、まだ黄色は動いていなかった。溜息。どこにいても、誰といても、何をしていても、怒ってはいけない。それにまだそういう時間じゃないし、鈴彦くんは悪いことをする子ではないと信頼している。
 でも、なんというか、もやもや。もやもや。きっと今酷い顔をしていることだろう。

 エンジンを切って、なのにハンドルへ手を掛けている僕。
 早く外に出ればいいのに、何をもたもたしているんだろう。
 頭の中には、ほかの誰かと仲良くしている鈴彦くんが浮かぶ。お友だちができるのは悪いことじゃない。多くの物事を見ることだって素晴らしい。僕に手を引かれて生きていくのではなく、自分で自分の世界を見つけるのはいいことだ。でも、なんでだろう。もやもやが消えない。

 そんな僕の前を、鈴彦くんが通り過ぎた。青いシャツにチェックのスラックス、焦げ茶色のローファー、手ぶらで、後ろのポケットに財布が無造作に入れられているだけ。歩くとふわふわ揺れる、ツーブロックの上部、長い部分。赤っぽい茶色に染められて、きつく見える目元、高い鼻、薄い唇。そんなことがつぶさに見えるくらいに、鈴彦くんは特別。


「鈴彦くん」

 ドアを開けて名前を呼ぶ。
 振り返り、驚いたような顔で僕を見た。


「なんでいるんだよ」
「いちゃだめ?」
「怖っ……こえーな」
「鈴彦くんのことならなんでもわかる、って思ってたんだけどね」


 近づいて、頬に触れる。その身体から知らない、嗅ぎ覚えのない香水が香った。それも、かなり強く。


「誰といたの」
「誰って」
「香水の匂いがする」


 肩を掴む。鈴彦くんの目が細くなった。
 

「何怒ってんの。帰りが遅いから?」
「怒ってないよ」
「自分はいつも帰ってこねーのに、ずいぶんだな」


 へっ、と鼻で笑い、強気に見上げてきた目は、少しだけ揺れている。


「いつもいつも、とりあえず一回『帰りが遅くなる』って連絡すりゃいいと思ってんだろ。連絡してきたって二回に一回は嘘だけどな」
「鈴彦くん、怒ってるね」
「怒ってねーし。怒ってんのは直だろ」
「怒ってないよ。心配しただけ」
「心配しただけでその顔か。どう見ても責めてんじゃん」
「……とりあえず車乗って。外で大声出すのはよくない」
「電車で帰る。ひとりで帰れば」
「いいから、乗って」


 語気を強めると、しぶしぶといった様子で乗り込んだ。しかし僕がいつまで経っても車を動かそうとしないので、見上げてくる。


「帰る気ねーの」
「鈴彦くんがどこで何してたのか、教えてくれたら帰る」
「うざ」


 鈴彦くんの冷たい言葉が突き刺さる。冷静でいようと思っていた自分はどこへ行ってしまったのだろうか。心の中で自分を笑う。確かに、今の僕はとてもうざったいだろう。ほったらかしにしているくせに、叱る。嫌な人間に違いない。


「……悪いこと、なんもしてねーよ。疑ってんだろうけど」
「別に疑ってない」
「顔が疑ってんだよ。お前のその濃い顔が」
「濃いかな」
「激濃い」
「そう」


 また黙る。鈴彦くんはそんなにどこで何をしていたかを言いたくないのだろうか。


「……鈴彦くんを信用してないとか、夜出かけるなとか言ってるわけじゃないよ」
「い」
「言ってるように聞こえるかもしれないけど。本当に思ってない。鈴彦くんは頭がいい子だから。僕よりもずっと」
「皮肉かよ」
「違うよ」


 鈴彦くんの顔を見ると悲しそうに見えた。僕が嫌なことばかり言うからだろう。信用されていないと思うのも、僕の嫌な思いをぶつけられるのも、どちらも鈴彦くんが悲しくなるだけ。


「鈴彦くん」
「なに」
「ごめんね」
「……ふん」


 深く息を吐いて、ようやく頭の中が落ち着いたような気がした。


「鈴彦くん、悲しくさせてごめんね」


 鈴彦くんは何も言わなかった。
 でも、僕のほうに少し近づいてきたから、少し許してくれたような気がする。


「……悪いことしてねーよ」
「わかってる。最初から、知ってた」
「ここの店、何の店だか知ってんの」
「調べなかったから。もう、鈴彦くんがそこに長居してるっていうだけで気が気じゃなくて」
「何で知ったんだよ」
「秘密」


 鈴彦くんが白い目でこちらを見ている。ような気がする。鋭いつり目の三白眼。


「……トイレの中でも監視してんじゃねーの」
「……」
「黙んな。不安になるだろーがよ」
「鈴彦くん、今日の下着は青だよね」
「直……」


 うえ怖っ、と呟いた鈴彦くん。おえ、ともう一度呟いてから、ここの店、と隣のコンクリートの建物を指さす。


「ここ、スーツの仕立て屋。ネクタイ生地がいっぱいあるって、加賀さんに聞いたの」
「……ネクタイ」
「直、最近、仕事でたくさん褒められてるって、うきょーと加賀さんに聞いたから、それで……でもほんとにいっぱいあったから、選ぶのに迷って」


 ごにょごにょと言いにくそうに口を動かす。その言葉を最後まで聞かなくても、僕の心はいっぱいになっていた。愛しさと、自分の愚かさと。悲しくなってくる。鈴彦くんは僕のことを考えてくれたのに。


「加賀くんに会ったの?」
「ううん。うきょーから聞いただけ」
「そう」
「……直に似合うネクタイ、選んだ、から。ちゃんと使えよ。保管用ねーから。実用一本だけで」
「ありがとう。本当に」
「別に。全然気にしてねー。ほんと、全然」
「実に申し訳ありません……」
「来週温泉、約束覚えてんだったら許す」
「そこはもちろん休みにしてある。旅館も予約して、完璧になっている、はず」
「じゃあ許してやってもいい」
「ありがとう。キスしても?」
「だめ。家帰りてー。疲れた。飯作れよ」
「喜んで、なんでも」


 ようやく走り出した車の中で、鈴彦くんの手が伸びてきてシフトレバーに掛けていた僕の手の甲をするりと撫でたのはいったいどんな意味があったのだろうか。他所をむいていて表情がわからなかったのだけれど。

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