「ただいま」


 久しぶりに家の玄関を開けて挨拶をしてみるも、いつものように出迎えてくれる姿はなかった。玄関に靴もない。買い物か、どこかに遊びに行っているのか。何にせよ行く場所があるとか会う人がいるならばいいことだ。意外と引きこもりがちな子だから。
 そのまま部屋に上がって服を脱ぎ、着替えを持って全裸のまま降りてシャワーに直行する。仕事モードはもうそろそろオフにしたい。家でぐだぐだするために帰ってきたのだから。


「直、帰ってんのか」
「あ、ただいま」


 シャワーを浴び始めて少しして、鈴彦くんの声がした。


「帰るなら帰るって一言よこせよな」
「ごめんね」


 ぶつぶつ言う割に、声はそこまで不満を持っていなさそうだ。わかりやすくて、ひとり浴室で微笑う。つんつんしても隠し切れないところがすごくかわいい。鈴彦くんが帰ってきたから、と、浴びながらついでに溜めたお湯に身体を浸す。家を建てるときに丸いお風呂がいい、と鈴彦くんが言ったから、その通りの浴槽にした。灰色の、少々深めの広い丸いやつ。

 そしたらやっぱり、やってきた。


「別にお前と入ってやろうとか、そういうんじゃねーから。ただ、買い物して、汗かいて気持ち悪いから」


 言い訳しながら赤い髪と身体を洗ってそそくさと入ってくる。向かい合うようにして、膝を抱えて。水でぺたりとおちついた髪を耳に掛けてあげると、肌に触れたのが気になったのか頬を少し赤らめた。


「直、今回、長かったな」
「うん、色々あったから……もうホテル暮らしは当分嫌だなあ」
「そんなこと言って、また、どうせ、すぐ」


 だんだんトーンダウンする声。どうやら今回は相当寂しがらせてしまったようだ。肩に手を滑らせ、抱き寄せる。なんだよ、と言ったけれど抵抗する様子はなく、くるりと身体を反して僕の身体を背もたれにする。
 まだ若い肌はよく水を弾いて、こういう明るいときに見るとますますつやつやときれいだ。撫でて、口づけてみる。唇にも優しい感触。


「ごめんね」
「別に」
「ありがとう」
「別に」


 お腹のあたりを抱きしめていた腕を外して、鈴彦くんが両手で持ち上げる。手に手を重ねて指を撫でたり、手のひらを撫でたり。小さいころから一緒にお風呂に入るといつもこうだ。本人は意識していないのかもしれないが、僕の手で遊ぶ。けれどそれは何か言いたいことがあって、でもうまく言葉にできなくて考えているときだということを発見済み。
 大体はそのまま飲み込んでしまうし、僕も深く聞いたりはしない。でも状況を考えると、寂しいとか一人にするなとか、そういうところなんだろうな、と。

 抱いたまま赤い髪へ頬を寄せ、今度は僕が鈴彦くんの右手を両手で持っていろいろしてみる。撫でたり、指を絡ませたり。指が伸び、骨が浮いて男っぽい手だ。いつの間にこんな素敵な手になったんだろう。子どもの成長は早い。


「ついこの間までぷくぷくの手だったのにな」
「いつの話だよ」


 ジジィめ。と呟く鈴彦くん。指を絡めてぎゅっと握ると言葉を飲み込んだ。こうやってされるの、好きだよね、と囁けば、耳が真っ赤になる。行為に及んでいるときも、普段も、こうして手を繋いであげると安心したような顔をする。
 何も言わずにぷるぷるしている鈴彦くん。ふふ、と笑ってその手を持ち上げると、見覚えのない傷痕が目に入った。中指の第一関節と第二関節の間にくっきりついた細い痕。


「これ、どうしたの」
「ん? あー、よそ見してたら包丁で切った」
「こんなはっきり痕になってるんだから相当深かったんじゃないの」
「別に」


 傷を作って、痕になるまで知ることがなかった。そう思うとなんだか、どうしようもなくやるせなくなる。大切な子がけがをして、でも鈴彦くんのことだから誰にも言わずにひとりでなんとかしたんだろう。それを想像すると悲しかった。


「ごめんね、鈴彦くん。まだ痛い?」
「痛いわけねーだろ……」


 ふつりと途切れた言葉。首をかしげると、やっぱ痛い、と言う。


「たまに痛い。もしかしたらなんか悪い菌でも入ってんのかも。だから直、消毒しろ」


 明らかな棒読み。強気な目が見上げてきて、はやくしろよ、と言う。指にそっと口づけると、もっと、と言う。正解だったようだけれどもっとか。そこを覆うように何度かキスをして、手の甲へ、手首へ、腕へ、唇を触れさせる。


「この傷は何?」
「この前階段から滑り落ちた」
「鈴彦くんはしっかりしたいい子だけど……ときどきすごく心配になる」


 そこにも消毒をせがまれたので、その通りにした。触れ合うのは久しぶりで、くすぐったそうに笑う鈴彦くんがとてもかわいくて、幸せを感じつつ腰を押し付ける。


「お前、やめろよ」
「鈴彦くんが可愛いから悪い」
「はぁ?」
「寝室行こう」
「はぁ!?」


 よいしょと立ち上がらせ、ボタンを押してお湯を抜き、引きずるようにして浴室を出る。身体を拭いてあげていると今にも逃げ出しそうだったので、僕は鈴彦くんを抱きしめておかなければならなかった。


「お前いくつだよ……」
「鈴彦くんの前では同い年」
「ふざけんな」


 そうは言っても本当は、まんざらでもないんでしょう。
 囁くと足を踏まれる。痛いけれど力加減をしてくれているのがわかるので、結果的に僕の燃料にしかならない。

 ああ、うちの子はかわいいな。

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