「降ってきちゃったね」


 男性が、ぽつりと呟いた。

 目の前の大きなガラス窓を激しく鳴らす雨垂れ。厚い雲に覆われてすっかり暗くなり、店内に幾つもあるアンティークのランプに灯りを点ける。
 小高い場所に建つ小さな喫茶店は山の上にあり、厳選した木を使って私が自ら造った建物の中、五つあるカウンター席はガラス張りになっていて、夜になると景色がとてもきれいだ。晴れていれば向こうのほうに美しい山山の姿も見えるのだけれど、今は重く垂れ込めた雲と雨に押しつぶされそうな街並みのみ。

 店内にいるお客さんは、彼らだけだ。
 まだ晴れていた一時間ほど前にやってきた、親子とも兄弟ともつかない、けれど年の離れた友人という雰囲気でもない、二人。片方は成人してずいぶん経つだろう男性と、高校生くらいの少年。

 男性のほうは柔らかそうに波打つ黒髪を後ろに流して、穏やかな笑みを常に端正な顔に浮かべている。目尻にうっすらある笑い皺がなおさら人の良さを醸し出しているようだ。オリーブ色の七部袖のシャツに、ネイビーの細いパンツ、足元は黒いローファー。とても自然な様子で、隣の少年に椅子を引いてあげたり、身体を近付けて触れたり、頭を撫でたり。
 少年は猫のような雰囲気で、よく鳴って怖いとお客さんに言われる床板の上を、一切音をたてずに席へ座った。ショートカットの艶やかな黒髪、きりっとした目元で油分があるのか疑いたくなるような肌、ほっそりした身体をしていて、白に細いボーダーの六丈袖Tシャツにブラウンのパンツ、足元はキャンバス地の黒いスニーカー。いかにも美しい少年は、男性の言葉に間をあけながらぽつぽつと答える。触れられると身を寄せたり、テーブルの上に置かれた男性の手に自分から触ったり。

 天気が悪くなると、少年が寒そうに肩をすくめたので、ブランケットを渡すと男性と話すときとは少し違う硬質な声で「ありがとうございます」と頭を下げた。実に猫。

 私は用が無ければ、二人の後ろにあるキッチンにいる。そこには声が微かに聞こえてくる程度。温かなコーヒーでも淹れようと思い、用意を始める。それから紅茶のお代わりも。


「凄い雨だね」
「うん」
「天気がいいうちに店に入れてよかった。このあとはどうしようか」
「寒い」
「おいしいたい焼きを出してくれるお茶屋さんがあるらしいから行ってみる? あったかい焼きたてを出してくれるんだって」
「食べたい。あと、本屋行きたい」
「本屋?」
「うん。新しい小説が出た」
「俺も何か本読もうかな。最近あんまり読書してないんだよね」


 片や深みのある男性の声、片やまだ幼さを残した少年の声。その二つが、適度な距離感を持って往復する様子が完成されていて、普段もこのように会話しているのだろう、と思った。
 音楽の話、学校の話、上司の話、後輩の話、友人の話。
 話題は滑らかに移り変わる。


「コーヒー、新しいのどうぞ」
「あ、ありがとうございます」
「紅茶も。ミントティーです」
「ありがとうございます」


 せっかくなので、と、タルトを注文してくれた。6号のかぼちゃとさつまいもとごまのタルト。


「まだ止みそうにないね」


 キッチンに少年の声が聞こえた。


「もしかしたらずっと止まないかも。そしたら、どうする? 右京。家に帰れないよ」


 男性の、少し楽しそうな声。


「別にいいよ。おじさんがいれば、どこだって」


 照れる様子も無く、声を小さくするでもなく、さきほどまでと全く同じ声で答える。男性はとても嬉しそうに「そう」と言った。
 多分、彼らは親密な関係にあるのだろう。

 タルトを出して、キッチンに戻る。ふたりでスマートフォンの地図アプリを見て、道を確認していた。雨は幾分弱まっている。きっと、タルトを食べたら行ってしまうだろう。とてもいい雰囲気の二人が、今度はもう少し天気のいい日か夜に素敵な姿を見せてくれたら嬉しいのだけれど。


「すみません、長居してしまって」
「いえ、ここはそういう場所ですのでちっとも構いません」


 支払いながら、男性が申し訳なさそうな顔をする。その後ろでは、晴れ間が覗いていた。少年は先に表に出て、興味深そうに玄関のところのふくろうを見ている。


「またいらしてくださいね」
「はい」


 頭を小さく下げて出て行く男性。少年と自然な様子で手を繋いで、少し下に停めた車のほうへ歩いていく。その背中を見送って、お皿やカップを下げようとテーブルへ。するとソーサーの脇に、小さな猫の折り紙が置いてあった。猫の狭い額に、おいしかったです、と、整った字で書いてある。
 あの少年が座っていた席だ。思わず笑う。それはお会計の脇に貼らせてもらった。





「右京、あの喫茶店気に入ったんだね」
「うん。紅茶もタルトも、おいしかった。雰囲気もよかったし」


 助手席の右京は、太ももの上でなにやら新たに折っている。


「猫の折り紙、いつ覚えたの」
「お泊りのときに、なつ先生の折り紙講座があって教えてもらった。置いてきて大丈夫だったかな」
「店主さん、いい人そうだったから嫌がったりはしないと思うけど……」


 山道を下り、住宅街に出た。雨上がりで空気が一層きれいに感じる中を窓を開けたままで走る。街中まで戻ると、雨宿りしていたのか様々な店からばらばら人が出てきていた。


「本屋行ってからたい焼き買って、温泉寄って帰るでいい?」
「うん」


 顔を上げた右京が、じっと俺を見る。


「何?」
「おじさんとお出かけ、やっぱりすき」


 嬉しそうに微笑みながらそんなことを言うものだから、俺は簡単にときめいてしまう。かわいい。もし赤信号になったらすぐ抱きしめただろうに、悲しいかなそのチャンスはなかった。
 初めて来た小さな本屋で、天井から下がっている表示を頼りに小説コーナーへ。すると本棚の前に平積みされている小説を見つけたらしい。さっと手に取る。目がきらきら。黒と白の装丁はひどくシンプル。


「推理小説?」
「うん」


 そういえば右京が熱心に読んでるシリーズがあった。右京の部屋の本棚にきちんと収められているのをいつも目にしている。映画化、と帯に書いてあって「映画観にいくの」と尋ねると、迷っている、と答えた。


「ぼくの中にイメージがあるから」
「あー」
「気になるんだけど、迷ってる」
「公開時期はまだまだ先みたいだから、ゆっくり迷ったら?」
「うん」
「俺も何か本買おうかな」
「それより先に、書斎の積読本、どうにかしたほうがいいよ」
「はい……」


 お支払いをするまでに店内をぐるりと一周して発見した猫のかわいい写真集をなんとなく開いたらふたりして胸がときめいてしまい、結局一緒に購入した。小説は、右京が自分で買うと言ったけれどほぼむりやりもぎとって俺が。


「自分で買ったのに」


 と唇を尖らせる。


「いいの。俺が買ったら、いないときに読んでもなんとなく俺のこと思い出すでしょ」
「……いつも考えてるのに」
「そうですか」


 ありがと、と言って、膝に置いた本を撫でる。俺は右京の頭を撫でて、再び車を走らせた。

 それからたい焼きを買って、温泉に入って、晩ご飯にそばを食べて今は帰りの、すっかり暗くなった道を走っている。人気の無い一般道。右京は助手席で、いつの間にか眠ってしまっていた。今日はあちこち行ったから疲れてしまったのかもしれない。お風呂で身体が温まった、ということもあるだろう。

 温泉に浸かって頬を赤くさせている右京はいつもとってもかわいく見える。満足そうにふぃ、と息を吐いて、きもちいい、と呟く。お風呂上りには牛乳を飲んで、また満足そうに、ぷは、と。
 かわいい。かわいいったらない。膝から崩れ落ちそうなほど。

 道の途中でコンビニに寄った。夜の中でそこだけ明るい、不思議な空間。
 お茶とガムを買って戻ると右京がうっすら目覚めていた。まぶしそうに目をしぱしぱさせている。


「おじさん」
「うん?」
「……ぎゅってして」


 乗り込むなり絡んで来た細い腕。席の間のセンターコンソールが邪魔ながら、腕を回して抱きしめる。しばらくそうしていたら寝息が聞こえて、再び眠ったのがわかった。身体を戻し、後ろの席に身を乗り出してブランケットを取る。それをかけてやり、暑くないように温度を下げた。


「おやすみ」


 額に口付け。
 家に着くまではゆっくり寝かせてあげよう。まだ先は長い。右京が太ももの上で折った和柄の折り紙の箱に粒ガムを移して、それからゆっくり、車を動かした。

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