「おかしいな……」


 前の席の右京の呟きが、帰り仕度(といっても手ぶらなので立ち上がって、机の中の携帯電話や財布をポケットに入れるだけ)をしていた鈴彦の耳に届いた。


「どした?」


 がさごそ、机の中を探ったり鞄を探ったりしている右京のつむじを見下ろしつつ尋ねる。


「ん……ちょっと、見つからなくて」
「何が」
「ハンカチ。さっき確かに鞄に入れたんだけど」
「最近そういうこと多くねー?」


 右京は物を収める場所を大体決めている。教科書も、今日の授業以外のものはきちんとロッカーにきれいに収めているし小物類はきちんとまとめているし、鞄の中も机の中も実にすっきり整頓されている。
 その割に、最近急に失くし物が多くなった。こうして探している右京をよく見かけている。鈴彦は右京の鞄を持ち上げて机の上に置き、中を見る。やはりすっきりと整頓されているのに、ハンカチのようなものは一切見当たらない。
 ハンカチを探している右京を見るのは、もう何度目だろう。


「誰かに盗まれてたりして」
「まさか」


 そんな話をつい最近したばかりの二人の間には妙な沈黙が降りた。鈴彦の目の前でしまわれた物が失くなったこともある。きっと気のせい、と収めるには多い回数だ。まして右京の容姿と成績は生徒から羨望と嫉妬の眼差しを受けやすい。誰かが恋情を寄せて、あるいは憎悪から右京の物を盗み去ることも考えられなくはない。


「……うきょー」
「うん、わかってる」


 右京の白い肌が、いつもより白くなったような気がした。普段と変わらない無表情にも見える横顔は、よく見れば強張っている。右京のことをわかる鈴彦が見てようやくわかるレベル。
 夕方の、帰宅する人で賑やかな道を二人で歩き、駅までいつものように一緒に帰った。いっそ不自然なほどその話題に触れることもなく、だ。
 別れ際、鈴彦は自分とは違う方向へ帰る右京をホームで見送った。普段ならばそれぞれ階段を上がるために別れる。しかし心配だった。右京もそれを解っているらしく「ごめんね鈴ちゃん」と言ったけれど「別にー」といつもの調子で返した。
 そこそこ空いた車内に乗り込み、手を振る右京。鈴彦も手を振り、発車するまで見ていた。さて帰ろうかと、階段の方へ足を向けて降りようとしたとき。


「オレノウキョウニチカヅクナ」


 声がした気がした。意味を理解するよりも先に、景色が不自然になる。激しい痛みと気が遠くなる感覚に目を細めながら、一瞬にして段の下の方へと転がった鈴彦の視界に見えたのは、同じ制服。自分はあまり身につけないが、右京は毎日きちんと着ているあの。顔はよく見えない。
 誰だ、お前がやったのか、どうして。鈴彦は意識が遮断される恐怖と、人の向こうに消えて行くその人物への疑問を覚えながら、ゆっくり目を閉じた。





 右京はいつもの駅で降り、残るもやもやを振り払うようにいつもよりずっと早足で道を歩いた。それに、早く帰らねばならない理由がある。
 玄関を開けると迎えてくれたのはいい匂いと明るい廊下と、大好きな人の笑顔。


「おかえりー右京」
「ただいま、おじさん」


 抱きしめてもらい、ほっとする。今日は午後休みで早く帰って来ると朝知っていたからもともと授業が終わればまっすぐ帰る予定だった。
 制服から着替えてダイニングテーブルに着き、加賀が作ってくれていたマグロの漬け丼を一緒に食べる。食卓を囲むのは久しぶりで、聞いたり聞かれたり、さまざまな話をした。


「……右京、何かあった?」


 ふと会話が途切れたあと、加賀が柔らかな笑みを浮かべながら尋ねてきた。右京はなんとなくぎくりとする。心配を掛けたくないから黙っていようと思っていたのに。


「ううん、何にもないよ。ただちょっと眠いだけ」
「本当に?」
「うん」


 加賀を騙し切れる自信はない。それでも、まだ何が起こっているのか自分でもわからないうちは何も言えない。
 多分誰かが、なんらかの目的で私物を盗んでいるのだと予想はつく。しかし何のために、どうして盗むのかがわからない。目的がわからないと適切な対処ができない。中途半端な対応は相手を刺激するだけだ。


「……ねえおじさん」
「うん?」
「敵意と好意、どっちがより厄介だと思う?」
「急に凄い質問だね」
「なんとなく」


 加賀は一重の目を瞬かせ、そうだなあ、と、浅漬けをかじる。ぽりぽり。噛んでいる間考えて、飲みこむと同時に口を開いた。


「好意かな。敵意は大体はっきりしてるでしょ。あいつのどこが気に入らないって、多分突き詰めれば見えてくる。でも好意は、薄らぼんやりしたまま進行することだってあるし急加速しやすい気がするんだよね。敵意よりもちょっと曖昧な感情。だから、処理がし難い」


 加賀の言葉に頷きながら、恐らく盗んでいる人間をひとりだと仮定してその人間が一体どんな思いをこちらに向けているのか考えていた。持ち物を盗み去るのは、嫌がらせだろうか。でも本当に無くなって困るものは、今はまだ盗られていない。ハンカチ、ノート、下敷き、愛用のシャープペンシル、リップクリーム……飲みかけだったパックのジュースは右京がトイレに行っていて鈴彦が俯いて電話をしていた間に消えていた。それと、箸。家に帰ってきて洗おうと取り出したら、お弁当箱と一緒に袋に戻したはずのそれがなかった。直接的な被害はない。
 けれどもし、何か大切なものが奪われたら――例えば、スマートフォン。加賀がくれたスマートフォンはかなり大切にしている。写真などは加賀のパソコンにも取りこんであるけれど、やはり貰った物はそう簡単に手放したくはない。それから二代目のシャープペンシル。書きやすさが損なわれるのは地味に辛いことを思い知った。
 そして、加賀や鈴彦など自分の大切な人に被害が出るのが一番恐ろしい。
 もやもやした右京の心はご飯を食べて一緒に洗いものをしてもなお続いた。ソファで膝を抱えて背筋を丸める。

 加賀はそんな右京を椅子に座って後ろから眺めていた。その顔はすでに思案顔で、右京が何を隠しているのか探そうとしている目だ。テレビがついていて、サバンナの特集がやっている。しかしどちらもそれは見ていない。右京の目は床を、加賀の目は右京を。

 そこへ、加賀のスマートフォンがカウンターの上で振動した。低いバイブレーションの音。立ち上がってカウンターへ近付き、確認すると画面に表示されていたのは上司の名前。今日は同じ午後休みを取っていたはずだ。鈴彦と食事に行くのだと嬉しそうにしていたのを思い出す。


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