「政府が、長時間労働の排除について本格的に乗り出す方針であることを発表しました」


 女性アナウンサーのはっきりした声に、台所にいた右京と鈴彦は同時に顔を上げた。
 映像がスタジオから切り替わり、内閣の会見場の様子になる。演台に立ったのはお年を召した内閣官房長官。資料を見ながら「再来年を目処に」「すでに公官省庁では業務時間以降の残業を禁止する措置を取っている」と話している。


「本当かな」
「さー。だとしたらおっさんちがもっと早く帰って来るんじゃねー?」


 レモンを半分に切ると、独特の爽やかな香り。スクイザーで絞る右京の隣でブロックから切り出した豚肉を叩きながら鈴彦が唇をとがらせ、言う。その言葉に右京は首を傾げた。


「おじさんたちって、本当に国家の人なの?」
「え、知らねー。職業何? って聞いたらいつも「国家公務員的なもの」って言うから、そういうことにしてんだけど」
「おじさんもそう言う。本当に公務員なのかな」
「あれだけはぐらかす意味がわかんねぇよな。嘘つくならもっとスマートにつきそうだし、案外本当かも」


 今日もふたりは帰って来ない。
 本来は早く仕事が終わる予定だったので四人で食事でも、などという話をしていて、鈴彦は学校帰りに右京の家に来て待っていた。連絡が来たら外に出て待ち合わせ場所に行くことにしていたのだ。そしておじさんズは同じ時間に電話をよこし、まったく同じ言葉を言って電話を切ってしまった。「会議で帰れない。ごめんね」――とても焦った口調だったので、きっと何か起きたのだろう。右京は、大丈夫かな、と心配し、鈴彦は、勝手なおっさんだ、と呟いた。
 外食予定だったのを急きょ家食に変えたので、特に何も考えていなかった。冷蔵庫を開いて考えていた右京の上から鈴彦が覗きこみ、「いいのあんじゃん」と悪く笑った。示したのは加賀が買ってきていた熟成豚ブロック。何かを作るつもりでいたはずだ、と右京が言ったけれど「腐る前に使うべき」とブレザーを脱ぎ捨てさっさと料理に取りかかる。


「約束してたのに破るおっさんが悪いんだよ」


 右京は今まで何度か加賀と約束をして、それが果たされないことのほうが圧倒的に多かったけれど、加賀が悪いと考えたことはなかった。仕事だから仕方ないと思っていたのだ。


「鈴ちゃん、十里木さんたちが約束破ったと思うの?」
「あ? あたりめーだろ。仕事だとか関係ねーし。見通し立てて約束しろってんだよ」


 その言い方も理論もとても乱暴に聞こえたけれど、却って約束を破られたことが悲しかったんだと感じた。いつもこうやって、約束を破られるたびに怒りを表しているのだろうか。自分とはまったく違う。
 どちらが良いと言うつもりはなく、ただ新鮮だったのだ。

 容赦なく豚ブロックをスライスして筋を切った鈴彦は、その表面に刻んだにんにくを擦りこみ始めた。「くくく……家がにんにく臭くて驚くがいい」と、悪人のように笑っている。右京は大根をすりおろし、レモン汁と胡椒と混ぜた。鈴彦の指示だ。
 パン粉にもにんにくを入れ、二枚ずつ重ねた豚肉に卵をつけてパン粉を付けて油で揚げる。右京は片づけをし、千切りにしておいたキャベツを二枚の大きな皿にそれぞれ盛りつけて準備。それからダイニングテーブルを拭いたりマットを敷いたり箸を並べたり、テーブルの用意もした。

 良い色に揚がった豚かつのレモン大根おろしがけが今日の晩ご飯のメインである。それと味噌汁に漬け物、麦入りご飯、梅干し。
 厚みもあり量もある。当然だ、それなりの大きさのブロックを切ったのだから。


「どっかにチーズ挟まってるやつもあるからな」
「うん。いただきます」


 鈴彦も右京もひとりの時間が圧倒的に多い。晩ご飯を食べるのだってひとりが多かった。
 自然、黙る。食べながら話をする習慣があまりないからだろうか、いまいち話すことが見つからず、点きっぱなしのテレビから流れるバラエティー番組の声ばかりが大きい。

 しかし別に悪いことではないような気がした。前に人がいるというだけで、なんか、違う。


「うきょー、加賀さんがいないときちゃんと飯作る?」


 鈴彦がふと思いついた、というように話しかけてきた。


「作るよ、おじさんが夜帰ってきて食べたりするし、簡単なもの」
「まじか。すげーな」
「鈴ちゃんは作らないの?」
「いまいち作る気にならねー。うまくできてもまずくできてもひとりじゃん? なんつーか、まじ尾崎放哉って感じ」


 うんざり顔で溜息を吐く。その言い草に思わず笑ってしまった。


「まあね。張り合いはないかも。でも、鈴ちゃん小さい時から十里木さんと一緒でしょ。ひとりには慣れてるんじゃないの」
「いやー、こりゃ慣れねぇな。何してもシーンって言うあの静けさ、だいっきらい」


 鈴彦の言葉はまっすぐで、右京はつくづく自分と違うな、と思った。十里木さんに対しては妙につんつんするけれどわかりやすいし、あれも好意の表し方だとわかっていれば可愛く思うだろう。しかし自分は、顔も言葉も、いつだって膜を一枚隔てているようなわかりにくさがある。鈴彦が眩しく感じるのはその膜の外にいても強い光があるからだ。


「……鈴ちゃんって、素直だよね」
「は?」
「ぼくはわかりにくいから」
「まあわかりやすくはないな」
「ちゃんと伝えられてるのかな」
「それは問題ないんじゃねーの」


 食べ終えて、新しいかつを持ってきた鈴彦は右京の皿にも取り分けながら言う。


「うきょー、素直だし」
「え、でもわかりにくい」
「素直さとわかりやすさは違うって」


 大丈夫、と、鈴彦は笑った。やんちゃそうな、年相応の表情。勉強ばかりの学校でひとりだけ毎日を充実させているような雰囲気漂う、変わった男子。


 鈴彦はその日、泊まって行った。着替えは加賀の服を貸したが「やべぇって、こんなお高級な服着れねぇって」と言って夜に洗濯をして、加賀の新品パンツ一枚で右京と眠り朝早く一度家へ帰って行った。
 入れ代わりのように帰って来た加賀は眠そうな目で、でも右京を見ると笑う。


「ただいまー」
「おかえりなさい、おじさん」
「昨日は楽しかったみたいだね」
「わかる?」
「うん。鈴彦くんがいてくれてよかったね」


 そう言って加賀は右京の頭を撫で、抱きしめて髪に口づけ。腕の中で心地よく目を閉じる。


「おじさん、ご飯あるよ。昨日鈴ちゃんが作ってくれた、豚かつ」
「朝からかつはキツいなー?」
「おじさんの豚使っちゃった」
「……Oh……このにんにく臭さは、豚が犠牲になったにおいか……」
「ごめんね」
「いいんだよ。おじさんたちが約束破ったのが悪いんだから……」


 後日、十里木からお詫びの豚肉が届いた。

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