一瞬、どこだかわからなかった。
 おじさんの部屋を出てきたのだ、と、のろのろ起動し始めた頭が記憶を反芻する。佐々木さんの姿はすでになく、作ってくれたのか食べ残しなのか、ハムと卵とチーズのホットサンドがラップをかけてテーブルに置いてある。
 佐々木さんという人間はわかりにくい。優しいのか優しくないのか、人のことを考えているのかいないのか。あの人に愛された人はきっととても大変だろう。

 急須と茶葉を拝借してカップに緑茶を注ぐ。無駄に高級品が揃った棚に、ときどき可愛らしい造形の食器や湯のみがちらちら。よく周りを見渡せば明らかに佐々木さんが使わないだろう品がある。シュシュとかネックレスとか、髪を留めるピンとかピンクのふわふわスリッパとか。
 ……もし恋人が突然やってきたら、ぼくは責められるのではないだろうか。修羅場は嫌だ。かと言って行く宛もない。
 さてどう動くか。
 本当の最終手段は家に帰る、だが、それをしたら最後、死ぬまで外には出してもらえないに違いない。いや、死んでも。
 それでもいいか。おじさんと一緒にいられないのなら。

 ソファへ元通りに座り、膝を抱える。ぼくはいつからこんなに欲張りになったのだろう? 少し前までは、誰かの側にいてときどき体温を分けてもらえればそれでよかったはずだ。なのに今は共にないことをこんなにも悲しみ、苦しく思っている。
 居心地が良かった。今までで一番愛された。傍にいなくても体温がなくても満たされていた。
 こんなふうに思うのは、言葉や行動はもちろん、全てで愛してくれていたことが充分に伝わってきたからだ。おじさんは、嘘をつかない。
 だから今こんなに辛いのだろう。嫌いになって離れたほうがずっと楽。
 この先、こんなに気持ちが動く出会いは絶対にない。だとしたら、家へ帰っても同じだ。

 動くなら早めがいい。ここで修羅場になる前に。佐々木さんには電話で知らせておいたほうがいいのだろうか。

 廊下に出たとき、玄関の方で音がした。そちらは角を曲がらなければならないから、ここからは見えない。佐々木さんが帰ってきた、のだろうか。

 かつ、と、革靴の足音。普通家に上がったらこんな音はしない。
 誰?
 急に背中が寒くなる。佐々木さんには敵が多そうだ。いや、間違いなく多い。
 足音はすぐに角を曲がり、ぼくから見える場所に現れた。


「……なん、で」


 濃いグレーのスーツは背が高くて引き締まった身体によく似合う。落ち着いた雰囲気にも、若くも見えて素敵だ。ぼくが一番好きなスーツの色。


「……どうして」


 おじさんに一番似合うから、好きなのだ。


「仕事放棄して探した」


 どうやって探したのか、どうしてここに入れたのか、聞きたいことは色々ある。でも言葉にならない。
 じっとぼくを見つめる、目じりが下がり気味の一重の目。つい何時間か前に家を出たばかりなのに、とても長い時間会わなかったような感覚に襲われ立ち尽くした。
 ぼくを見つめたまま、おじさんは微笑った。それは何と言うか、無理矢理笑おうとしているようにも見える。


「嫌になったらいつでも出て行っていいよ、って言ったのは俺なのに、探しちゃってごめんね。顔も見たくないだろうけど」


 おじさんは、ぼくがおじさんのことを嫌いになったと思っているようだ。出て行く、ということはそういうことだと繋がってしまったのだろう。そんなことはない。おじさんを嫌いになることなどあるはずがなかった。
 首を横に振りかけ、留まる。迷惑を掛けるのは嫌だ。


「右京、はっきり言ってもらってもいいかな。嫌い、って。おっさんは粘着質だから、すっぱり切ってもらえないと諦められないんだ」


 おじさんはまっすぐに、ぼくを見て言った。
 おじさんの口から「嫌い」という言葉を聞いただけで肌が粟立つくらいに怖かった。普段そういうことを口にしない人だから余計に際立つ、その言葉の持つマイナスの意味。
 嫌い、なんて、言えない。誰よりも好きな人に。


「……どうしてそんな顔するの、右京?」


 一歩、おじさんが近付いてきた。俯くと視界に入る黒い革靴。いつも玄関にあって、他にもシューズボックスに何足かある。帰ってきたら磨いているから常にきれいだ。それがまた一歩近付いてきた。


「ねえ右京、家を出たのは何か他の理由があるんじゃない? もしあるんだったら教えてほしい」
「……りゆう」
「うん。ここに来るまでは、嫌いだとか飽きたって言われて終わりかなって思ってたよ。でも……なんでそんなに、悲しそうな顔するの?」


 ぼくがもう少し、好きな人に対しても嘘がつければよかったのに。
 思ってももう遅くて、また泣いてしまった。おじさんの前だと本当に良く涙が出る。恥ずかしいくらいだ。


「どうしたの? 右京、泣かないで。ごめんね」


 おじさんの手が肩に触れたら、もう駄目だった。温かさを知ってしまっているから縋りつかずにはいられない。腕を回し、肩の辺りに顔を押し付けた。


「右京、苦しいことがあるなら言って。ひとりで考え込まないで。怖がらないで俺を、見て。大丈夫」


 その言葉を聞くのは何回目だろう。おじさんはよくそう言ってくれるのに、ぼくはなかなかできない。却って心配させているのだとわかっているのに。


「落ち着いて、大丈夫だから……」


 抱きしめられ、名前を呼ばれる。おじさんの声はどうしてこんなに優しいんだろう。


「ぼくがいると、邪魔になる」
「どうして?」
「おじさんは、ぼくを拾って愛してくれた。でもそんなことを誰かが知ったら、やっぱりおかしく思うよ。人を拾うなんて、変だから」
「……まあ、それはね」
「もしそれを、おじさんの仕事の人とかが知ったら、おじさん、変な目で見られちゃう。全部が、なくなっちゃうって。だからぼくは、おじさんの傍にいないほうがいい」
「……そっか、なるほどね」


 そういうこと、と呟いておじさんの手がぼくの後頭部あたりをゆっくり撫でた。


「普通の企業だったらそうかもしれないね。社員の素行が悪ければ、会社の評判から利益に繋がるから。でもね、右京。俺がいるところは企業じゃない。その心配はないと思う。みんな変な人だから、俺以上にやばい秘密がいっぱいあるよ。でもそれは仕事に関係しない」
「……どうして?」
「舞台裏がごたごたしても、表がなんともなければ幕は開く」
「……おじさん、職業、なに?」
「国家公務員みたいなもの、かな」


 にこ、と笑ったおじさん。


「右京、帰ってきてくれる?」
「本当に、いいの」
「うん。心配なら右京の戸籍、俺のところに移しちゃおうか。きちんと手続き踏んで」
「……それって」
「お? ……あ! ええと、そういう意味じゃ……いや、そういう意味でも全然いいんだけど、あの、嫌じゃなければ? ごめんねこの話はもうちょっと雰囲気のいいところですべきだね。ごめんね」


 真っ赤になって慌てるおじさんは、胸が焼けると思うほど愛しかった。


「とにかく、何の心配もないから、安心して」


 言いながらぼくの頬を撫でる。おじさんの手のひらの体温が気持ちいい。
 不安が全てなくなったわけではない。でも、なんとかなりそうな気がした。なんて曖昧なものだろうと思うけれど、おじさんを信じようと思った。ぼくはなんでも、おじさんといられたらそれでいい。
 頬に添えられた右手を取り、指先に噛みつく。どうしても我慢ができない。今すぐおじさんの身体中を噛みたくてたまらない。


「……その目は、見覚えがあるな」


 ふふと笑ったおじさんは、額にそっと口付けてきた。それからもう一度、強く抱きしめられる。


「……ごめんね。こういうこと言うと嫌かもしれないけど、もう黙っていなくなったりしないで。嫌いになったら嫌いって言ってからにして。俺だめだ、右京が自分の中にいないの、本当に耐えられない」
「ごめんなさい」
「ごめんね、押し付けて」
「ううん、大丈夫」


 むしろ、嬉しい。カメラを仕掛けられても構わない。
 荷物持っておいで、と言われて一度リビングに入った。





「……ねえ、終わった?」
「終わりましたよ。すみませんね、そこで待っていただいて。しかも土足で上がっちゃいました。気持ちが逸って」
「別に。右京は持って帰ってね。他の男のことばっかり考えてる子は趣味じゃないんだ」
「ご迷惑おかけしました」
「そう思うなら今度何かで返してよ。一庶民のお願いなんか、簡単でしょ? 国家間の情報工作に比べれば遥かに」
「……俺のこと、ご存知なんですか」
「そっちが調べてるとき、こっちも調べてるよ。俺のお願い断ったら右京にばらすぞー」
「善処します」
「俺はイイ人だからふっかけたりしないよ。あなたとは長くやっていきたいしね」
「目障りにならない程度でお願いしますね。上司の目に留まったら、蝿だと思って叩き潰されてしまいますので」
「十里木直は怖いからね。気をつけます」





「右京、帰ろうか」


 伸ばされた手を


「……うん」


 躊躇いながらも、取った。


「右京が好きだよ。世界で一番」
「ぼくも、おじさんがすきだよ」


 雨はすっかり上がっていた。


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