おじさんの家を出て間もなく強い雨が降り出した。
 春先の冷たい雨に打たれながらとりあえず駅へ向う。一晩寝るくらいの相手ならば、そこで誰かしら調達できるだろう。
 おじさんの家の周りとは異なり、駅前はとても明るい。駅の廂の下に入り、鞄から携帯電話を取り出す。午前一時。それでも人はまあまあいるから、この中から適当な人間を探さなければならない。
 
 眺めていたら、電話が震えた。

 おじさんであるはずがない。この携帯電話の番号は知らないからだ。画面に表示された番号は――通話を押して、耳へあてる。


「上から下までびっしょりだね、仔猫ちゃん。優しい俺が拾ってあげようか」


 聞きなれた低い声。周りを見回すと少し離れたところで黒い傘を差した男がこちらを見ながら微笑んだ。特徴的なブルーアッシュの髪、長身、色白。この人は頼る相手として数に入っていなかったのだが。


「それとも、イケメンの飼い主様のところへ送る?」


 首を横に振ると通話が切れ、視線の先の男がふいと踵を返したからぼくはまた雨の中に足を踏み出した。

 追いかけて着いたのは近くの地下駐車場。
 雨音が響く冷たいコンクリートと鉄柱、薄暗い蛍光灯の下で一際目立つ赤い車が佐々木さんのだ。
 助手席のドアを開け、長身を屈めて白いバスタオルを敷いているのを眺めながら服を絞る。が、やはり濡れていて、着替えるしかなさそうだった。


「着替え、面倒くさいでしょ。全部脱いじゃいなよ」


 脱ぐことは構わないけれど誰かに見られては困る。車は他にないが、監視カメラなどに映ったら。
 見渡すと佐々木さんは、大丈夫、と言う。


「ここ、死角になってるから。脱がせてほしい?」
「いらない」


 濡れてくっつく服が気持ち悪い。潔く全て脱いで乾いたコンクリートに落とした。


「相変わらず細いね。ここだけは柔らかくて丸いけど」


 手のひらが裸の尻を撫で回す。叩き落としてシートのバスタオルの上へ座った。それから一枚頭にかぶせられ、更に黒い毛布を手渡してくれたので、肩から羽織って膝を抱いた。これで身体全体を包み込むことができる。
 濡れた服は佐々木さんが拾って袋に詰め、荷物と一緒に車のトランクに放りこんだ。


「俺の家でいいのかな」
「うん」
「捨てられちゃった?」
「ううん」


 暖房で暖められた車内、流れるのは静かな音楽。車はおじさんの家とは反対方向のそれなりに栄えた街中を走る。

 おじさんはもう目を覚ましただろうか。いつもは朝まで起きないから今日もそうかもしれない。目を覚まし、家にぼくがいないことに気付いたらどう思うのだろう――?
「嫌だと思ったら、いつでも出て行って良いよ」
 そのようなことをおじさんに言われたことがある。だからぼくがおじさんを嫌になったと思って探したりしないかもしれない。それを少し寂しいと思うのはきっと我儘だ。
 傍にいたい。でも、何かあって困らせるのは嫌だ。頭がぐちゃぐちゃになりそうで苦しい。

 佐々木さんのマンションに着き、シャワーを借りた。黒いシャツとデニムという姿でソファへ座る。壁はほとんど本棚で、雑然と本が突っ込まれていた。読書は好きだけれど本そのものに対してさほど執着はないようだ。佐々木さんらしいと言えば、らしい。
 おじさんの本棚は本がきちんと並び、古いものでも新しい物も等しく大切に扱われていた。


「飼い主様とはもう終わり?」


 キッチンでお茶を沸かし、ぼくの前へひとつ、自分のところにひとつカップを置いて向かいに座る。


「うん」
「どうして? 邪魔だって?」
「ううん、おじさんはそんなこと言わない」
「誰かに言われた?」
「……迷惑掛けたくないって、思っただけ」


 ふぅん、と言ってカップを傾けながらテーブルの上に開いたモバイルノートを眺める。
 いつもは変わらない顔が、なんだか少し緩んだ気がした。表情豊かな方ではないから変わるとすぐわかる。


「佐々木さん、何見てるの」
「恋人」


 恋人。遊び好きな佐々木さんに似つかわしくない言葉が出てきて気を奪われた。
 なぜ画面に恋人? デスクトップに写真が設定されているのか、もしかして二次元の方だろうか。学校にもそういう人はたくさんいる。佐々木さんも実は……?
 ぼくの考えを読みとったかのように、ちらりとこちらを見る。


「言っておくけど実在する三次元の子だよ。部屋にカメラ仕掛けてあるから見てるの」
「怖」
「隠しカメラとかじゃないよ。本人も知ってる」


 もし二十四時間三百六十五日見つめられたら。
 おじさんだったら構わない。きっと佐々木さんの恋人もぼくと同じで、好きになったら割となんでも許せてしまうタイプなのだろう。それが犯罪すれすれの行為でも。


「右京もこういうの、嫌じゃないでしょ」
「嫌じゃないけど、おじさんはしないよ」
「どうだろうね」


 佐々木さんは寝る様子がない。ので、ソファへ横になった。ベッドは嫌だということを知っているから止めもされず、ただ一度いなくなって毛布を持ってきてくれた。それを身体に掛けてくれ、頭を撫でる。


「せっかく拾ったんだから、なにか見返りないのかな」
「何かって、何」
「なにか」


 答えず背を向けると、おやすみと声を掛けられた。佐々木さんは意味ありげなことを言って相手がその気になれば抱く。ならなければ深追いしない。そういう人だということを良く知っているから、気が乗らなければ無視すればいい。家に置いてもらって申し訳ないような気もするが、そういうことを言う人でもないので甘えさせてもらうことにしよう。

 目を閉じるとソファの質感の違いや、部屋の匂いへの違和感を強く感じた。なにもかもがすっかりおじさんに馴染んでしまっている。ここで寝ていても起こしてくれる人はいない。目を覚ましてもおじさんの姿はない。

 気のせいだろうか、意識が眠る少し前に涙が零れたような感触を覚えた。

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