熱が下がったウキョウは、まるで何も覚えていないようだった。泣いたことも震えていたことも。それならそれで敢えて話題に出すこともないか、と、思ったので何も言わない。

 それからしばらく経った休日の朝。
 着替えて起き出してくるとウキョウは制服姿だった。ブレザーを着て、おはようと言いながら抱きついてくる。何となく懐かしい学校の匂いを嗅いだ気がした。


「ウキョウ、休みなのに学校?」
「うん。模試」
「あー……すっごい響き。模試かぁ……行ってらっしゃい」


 いつもと逆で、俺がウキョウを送り出す。濃紺の後ろ姿を見送ってリビングへ戻る途中、小さな紙が落ちているのを見つけた。
 模試、の文字、番号、場所、名前、一番下には当日はこれがないと模試が受けられない旨。


「あらら」


 とりあえず上着を引っ掛けて部屋を出、エレベーターで下って道を見る。まださほど遠くないところに背中。走って追いかけた。


「ウキョウ」
「……どう、したの?」


 びっくりした様子で、目をくりくりさせる。可愛い。頭を撫でて紙を渡す。


「忘れ物。これがないと受けられないって、あるけど」
「あ。うん。ありがとう」


 受け取り、ウキョウが顔を上げる。
 なにか言いたげな例の顔。朝の柔らかな日差しを含み、余計に透き通って見えるきれいな瞳。放たれるのはぴりっとした緊張感。


「どうかした?」
「……おじさん」
「なに?」
「ぼく」
「うん」
「ぼくは」
「うん」
「……いずもと、うきょうです」


 いつも呼んでいた名前に、苗字がついた。たったそれだけのことがなぜだろう。こんなにも新鮮な響きをもたらす。


「いずもとくん」
「……はい」


 うつむき気味に、恥ずかしそうに返事をした姿が可愛すぎてアスファルトに崩れ落ちそうになった。

 ウキョウから、出元右京くんに。

 目の前の存在が重さと厚みと熱を持って実態になった気がする。やっとなにかが繋がった。
 ウキョウ、右京。
 息を吸って吐いて、初めて告白するような気分で透明を見つめ返す。


「右京」


 ほんの少しの緊張と、胸を押しつぶすようにたくさんある愛しさを乗せて手を差し出し、名前を口にした。
 右京は頬を赤くしてとっても可愛い笑顔を見せて、手を取ってくれる。


「……りょうじ、さん。陵司さん。ぼく、たくさん、話したいことがあるんです。あの、熱のときのことも、本当は全部わかってるし」
「うん。帰って来たら聞かせて?」


 今すぐ連れて帰って一日抱きしめて聞いていたいけれど、呪わしいことに模試が待っている。待ってるからね、と伝えたら、頷いてその唇を頬に。
 ちゅ、と音をたてて、可愛い。


「行ってきます」


 すっきり伸びた背中で、光の中をしっかり歩いて行く。あの可愛い笑顔で戻ってきてくれるのを待とう。なにか作って待つのもいいかもしれない。

 道を戻りながら少し考えた。
 右京が名前を言ってくれたことで、なぜこんなに安心したのか。
 それは名前を言われないこと、正体がはっきりしないことが怖かったから。お互いを知っていこうと言って頷いてくれても好きと言ってくれても、何も聞かせてくれずなんの痕跡もなく急に消えてしまう日を恐れていたからだ。
 名前を知れば消えないわけではない。
 ただ、きちんと彼の痕が残る。「出元右京」という可愛い男の子が俺の人生の中に確かにいた、ということをはっきり思い出せる。

 振り返るともう右京の姿はない。
 けれど不安にはならない。
 きっと帰ってくる。大丈夫。

 笑ってしまうほどに怖がっていた。右京のことを深く深く愛し過ぎて。この年齢の男が真剣になるとこんなに重いのだ、と改めて自覚する。
 それでもいいって、右京が言ったし。
 ひとり開き直ってエレベーターの上昇ボタンを押した。
 扉が開く。
 

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