中国組 | ナノ

親愛的小星星 5


智華(ジファ)
乃靖(ナイジン)





「散歩に行く。維星も行くか」


 永進が尋ねるとこっくり頷いた。眺めていた画集を本棚へ戻し、駆け寄ってくる。
 共に衣装部屋へ行き、維星を特に厳重に防寒させる。今日は比較的温かい、と言っても氷点下だ。
 クリーム色の毛糸の帽子、茶色の耳あて、裏ボアの厚い上着を二枚着せ、更に厚手のコートを着させる。ズボンも二枚穿かせたあとにブーツ。手袋をしっかりはめたのを見てから黒革に包まれた手を伸ばして繋ぎ、若衆に見送られながら外に出る。
 途端に吹きつける冷たい風。永進は高く分厚い襟を寄せ、片手で留め具を留めた。黒いマオカラーの綿入りロングコートと下に着ている厚い服は、このくらいの寒さなら十分乗り切らせてくれる。
 お互いに手袋をはめた手を握り直し、ゆっくり歩き始めた。風は止み、遠くの道路を走る車の音や近所の家から漏れるテレビの音を聞く。維星は道沿いを流れる河に夢中だった。流れの鈍いところは表面が凍っている。

 ひとつ、大きな道の横断歩道を渡り、着いたのは公園。広場、池、橋、健康器具がある。ちらほらと人がいるが、もう少し暖かければもっと賑わっていただろう。
 維星は傍を離れ、少し先の池へ歩いていった。その近くにはさり気なく部下の乃靖がいて、がっしりした身体に黒の厚い上着を着、寒そうに首を竦めながら見守っている。散歩だろうがなんだろうが、いつでも着いて来なければならないのだ。

 ベンチに座った永進の後ろへ不意に現れた気配。しかしそこには人などおらず、木々や背の高い生け垣があるだけである。見た目には永進だけ。


「可愛い子だね。『四號街』の老大が愛するには可愛らしすぎやしない?」
「今回は随分長い出張だったな、智華」


 永進の低い呟きを的確に聞き取り、くく、と笑うテノール。明るく若く、脳天気そうな声音だが一筋縄ではいかない人物であることを嫌ほど知っている。


「あの大規模テロ以来、そこら中で勢力図が書き換えられているから常に情報を更新する必要が出てきたんだ。でも国内も少し離れただけで変わる。実に面倒くさい」
「仕事だから仕方ないだろう。我慢しろ国家の狗」
「犬の鋭い嗅覚で判断するに、君もかなり変わったみたいだ、邵老大。今まではそんな人間らしい匂いをさせていなかったと思うんだけど。死臭ばかりさせて」


 ふん、と鼻を鳴らす永進。


「そんな匂いをさせていたらあの子が逃げる。敏感だからな」
「気をつけなよ。老大の可愛いかわいい唐維星くんは娼館で売れっ子だったみたいだから、色んな奴が探してる。元客のね」
「国家公安部所属の上級諜報員は、人さらいに攫われて売り買いされていた子どものことも知ってるんだな」


 言外に非難を込める。するとまたあの、微かな笑い声が聞こえた。


「逮捕じゃなくて情報が飯の種だもん。本当にさ、何人かはこっちで適当な理由つけて逮捕状取って引っ張るけど、うまく遊んでる奴らは無理。そういうのは質悪いからね……って、老大は知ってると思うけど」
「ああ、承知している」
「以上、世間話は終わり。また来るね」


 ふ、と気配が消えた。
 それからすぐ、走り寄ってきた維星が永進の手を掴んだ。軽く首を傾げる。


「なんでもない。どうかしたのか」


 くい、と引かれ、立ち上がって池に近付く。完全に凍りついており、表面が真っ白だ。
 それを見ながら永進は呟いた。


「ここ、乗っても問題なさそうだな」


 それを聞いた維星は驚いたように目を見開き、ぶるぶると首を横に振る。どうやら怖がっているようだ。
 永進はひとり、足を踏み出した。なんの躊躇いもなく池の上へと立ってみせる。維星よりずっと大柄な永進はすたすた、ごく普通の足取りで真ん中あたりまで行ってしまった。
 冷徹な瞳、通った鼻筋、顔の造りに見合った赤い唇といった風にパーツひとつひとつが冴えた美貌を備え、漆黒の髪と同じ色の服を着たその姿はまるで主のようだ。

 陸で見ている維星は永進の淀みない足取りにひやひやどきどき。どこかが割れたら大好きな人が冷たい水の中に吸い込まれてしまう。
 徐々に怖くなってきてしまった。
 氷が割れたら、という恐怖ももちろんだが、手を伸ばすにはかなり遠く、声は出ない。――もし、永進がこのままどこかに行ってしまったら。

 池の真ん中までやってきた永進は、きょろりと辺りを見回した。足元は普通の地面のように硬く、しっかりしている。どうやらかなり深い場所まで凍りついているようだ。
 このまま対岸まで行けそうだ、と思いつつ振り返る。するとそこで維星がぼろぼろと大粒の涙を零していた。その隣で乃靖が永進を見ながら苦笑い。

 いつになく慌てたようにばたばたと氷の上を走り、永進が戻る。


「どうした、星星?」


 しがみついてきた小さな身体の、華奢な背中を優しく撫で擦る。しかし維星は首を横に振り、泣くばかり。
 代わりのように乃靖が永進に耳打ちした。


「……老大がどこかに行ってしまう、と思ったんじゃないでしょうか」


 なるほど、と頷いてから維星の身体を軽々と抱え上げ、頬を寄せる。


「お前を置いてどこかに行くわけないだろう。そんなことを考えたのか」


 涙を浮かべた瞳のまま、頷く。ぎゅうと縋り付いてきたのを強く抱きしめた。


「安心しろ。どこへ行くにも一緒だ」


 妙に優しげな笑みを浮かべた老大の姿を見、いつものことながら別人のようだと乃靖はこっそり笑った。人間くさい老大も嫌いではない。
 ぐすぐす泣くのを慰めつつゆっくりした足取りで歩く男の広い背中を、軽く走って追いかけた。


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