親愛的小星星 4
永進が南方へ出張に行ってしまった。
主のいない静かな書斎のドアを開け、その寂しさに知らず知らず唇を尖らせる。黒革のふかふかした椅子に座ってみても気分は晴れない。ここに座った永進が笑いかけてくれることに意味があるのだ。
改めてそう感じながら、背もたれに寄り掛かる。目の前には広い机と本棚。ぎっしり本が詰まっているのは、永進が本好きだからだ。簡単な本を寝る前によく読んでくれる。それがないのもまた寂しい。
側には必ず誰かがいてくれるし、気を遣ってくれるけれど、それだけでは満たされない。ここしばらくで随分わがままになってしまったようだと、維星は小さくため息をついた。
何もなかったあの時は、望むことすらしなかった。手に入るわけがないと思っていたからだ。
しかし永進に拾われてからは、何でも与えられた。一番欲しかった愛情も惜しみなく注がれ、顔も手も態度も、永進のすべてが愛していると言ってくれる。
気が付いたら貪欲に欲しがるようになっていた。
いつも傍にいてほしい。
いつも見ていてほしい。
いつも、いつも、いつも。
これじゃだめだと思うのに抜け出せない。
永進がいなくなって、今日までで二週間。とても長く感じた。三日後には帰ってくると言うのに、一日が長い。
言いつけ通り勉強をしてきちんとご飯を食べてお手伝いをして、夜も早寝。果物をたくさん食べて温かい格好をしている。
本棚の隣の大きな窓から、灰色の重たい雲とひらひら舞い始めた雪が見えた。南方は雪が降らないうえ、半袖でもいい日があるほど暖かいらしい。全く違う環境だというから行ってみたい。
永進からは電話もメールもない。維星は声を出せないから電話がないのは仕方ないとしても、誰かにメールを託してもいいのではないか。
大きな椅子の上で、ぷく、と頬を膨らます。
維星は携帯電話を持っていないが、周りはみんな持っている。厨房の料理人のおじいちゃんだって。誰かにメッセージを送れば伝えてくれるだろうに。
永進が、本当は自分のことが嫌いなのか、と、ふと考えて怖くなった。なんとなく拾って、なんとなくかわいがっているだけなのか、とも。
永進は好きだとか愛しているとかしょっちゅう言ってくれるが、ペットに対するようなそれなのかもしれない。人をペットにする人をたくさん見た。永進もそうで、自分は実はペットなのか。
ぐるぐるぐるぐる考えているうちに、気持ちが重たくなってしまった。
書斎を出て、ぱたぱた小走りに厨房へ向かう。首に巻いているオレンジの布の端がひらひらたなびく。
「おう、どうした」
厨房の片隅、椅子に座ってひとり小さなテレビでドラマを見ていた老人がこちらを向いた。日に焼けた禿頭、老眼鏡をずらして上目遣いに維星を見る。
とことこ近付いた維星に、ぶっきらぼうに突き出されたのは裏紙を綴ったメモ帳とボールペン。維星はのろのろ一生懸命文字を書く。
「あ? 永進はどんな人? そんなんお前さんが一番知ってんじゃねえのか」
ふるふる、首を横に振る。
「おじいちゃん知ってる? あー、まあ確かに長い付き合いだけどな。先代のときからだから」
あちこちに火傷や傷跡のある手で顎を撫で撫で、唸る。
「実際、ワシにも永進っちゅう男はよくわからねえ。いつもあの調子で、心を表に出さねえからだ。でもなあ、ちびっこ」
にやり、笑う老人。その顔はなかなか悪そうだが、若い頃はさぞモテただろう片鱗が今も残る顔つきだ。
「お前さんに関してだけはよーっく解るよ。わかりやすくにこにこしてべったべたに甘やかして、見てるこっちが恥ずかしくなるくらい好き好き出まくってるからなあ」
維星は首を傾げた。
「ほんとにそう思う? ってか。ああ、思う。仏頂面がお前さんと話すときだけだらしなく緩んで、厳しさなんか影もねえ」
率直に言って笑う老人。
しばらくしてからこくりと頷いた維星。老人の皺だらけの手にちょんと触れ、にこにこして軽く頭を下げた。
「なんだ、そんなことが聞きたかっただけか。せっかくだからなんか食ってけ」
そう言って作ってくれたのは、大根とネギを混ぜて作った平たい餅(bing 小麦粉を卵と水などで溶いて揚げ焼きしたもの。韓国料理のチヂミに近い)で、もそもそ食べていると匂いにつられて若衆がぞろぞろやってきた。舌打ちをしながらも老人は手早く追加分を作る。
たちまち賑やかになった厨房からこそこそ抜け出し、自分の部屋へ。クッションに腰を下ろして膝を抱える。
他の人に見えるくらいなら本物なのかもしれない。わからないけれど。
お腹が一杯になったら眠くなってしまった。
横になり、目を閉じる。
目が覚めたら三日後になってやしないだろうか。そんなことがあるわけないのだが、先程よりも永進に会いたくなった。
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