中国組 | ナノ

親愛的小星星 10


 維星はむっつりと黙り込んだまま、部屋でひとり、字の練習をしていた。もう何日もそうしている。淡い緑の民族風の服を身に着けた小さな背中を見つめ、出入り口のところで龍は静かに息を吐いた。歳の読めない、少年じみた顔は心配そうな表情。維星が字の練習をしている日々と同じだけ、そんな顔をしている。維星がそんな風になっている理由はただひとつ――永進のこと。

 一か月前のことだった。
 永進が西へ行かなければならず、維星はそれについていきたいと言った。空港に出発する時間まで、駄々をこね続けたのである。


「今回は、連れていけない」
「どうして」
「危ないからだ。同じ四號街の会合なら連れて行ってもいい。だが今回は、違う。だから星星、家でいい子にしていてくれないか」
「……や」
「星星」
「永進といっしょに、いく」


 あまりわがままを言わない維星が譲らず、さらには泣き出してしまった。
 どんな場面でも冷静さを欠くことなく乗り切ってきた永進であるが、大事な子どもの突然の涙にはさすがに動揺の色を隠せない。けれど時間は迫っている。会見の場に遅れていくわけにはいかない。特に、今回の相手は異常なほど時間にうるさいから。


「すまない。星星、愛している。行ってくる」
「やだ、永進、や」
「龍、頼むぞ」
「はい」


 じたばたと腕を抜け出し、追いかけようとする維星を抱え上げて背中を撫でる。しくしく泣く維星の様子は、普段と違って見えた。永進もおそらく気づいていただろうが、連絡が取れる場所ではない。携帯電話の電波も届かない、西の小さな村に住む老大に会いに行ったのだ。聞けば、車道さえ整備されていないとか。
 そんな場所に、どうして西を統べる黒幇の老大が住んでいるのか、よくわからない。上納される金額だけで相当なものであるはずなのに、わざわざ不便な土地で。

 そのうえ、一週間の予定だったのが二週間になり、三週間になり。
 黙り込んだままの維星は、泣いたり、引きこもったり、とにかく元気がない。ときどき龍に「永進は?」と尋ねてくる。「まだお帰りじゃないようです」と答えると、ぽろぽろ涙をこぼして泣く。抱っこして慰めても、しばらくそのまま泣き続ける。気を晴らしてあげたいが、維星はどこに出かけるのも嫌がり、部屋のある棟から出ようとしない。中庭には時折出ているようだが、そこでも木の枝の上にちょこんと座って、まるで一体化したようにじっとしているだけ。

 ようやく永進と共に行動している乃靖から連絡が来たのは、一か月が経過しようとしていたときの昼だった。


「もう……酒飲まされてすごい……酒漬けの漬物になりそうっす……やっと電波届くとこ見っけて、龍兄の声聞きたくてたまんなかったっす」
「それより、小維がずっと泣いてるって、老大に伝えて。元気ないし、話さないし」
「わかりました……」


 ふにゃふにゃの乃靖の声。相当参っているらしい。けれど今の龍の最優先事項といえば維星。気にしてはいられない。
 少しの間を置いて「龍」という、骨太な低い声がした。厚みのある美しい低音は、あまりよくない安い携帯電話のスピーカーを通してなお、魅力が損なわれない。久しぶりの声を聞き、龍は息を吐きだした。


「……維星が相当困らせているらしいな」
「もう、心配で心配でたまりません。小維、様子がずっと変なんです」
「そんな予感はしていた。だからすぐ帰りたかったんだが」
「早くお戻りください」
「わかってる。二日三日で戻る予定だ」
「お願いします」
「ああ。それまで、もう少し維星を頼む」
「はい」


 予感はしていた、ということは、原因もわかるのだろうか。対処の仕方も。
 なんとなく察しはつくものの、どちらにせよ永進が戻ってこないことには維星は安定しない。心から信頼しているのは永進ただひとりだから、だ。

 通話が途切れた携帯電話を手に持ったまま、龍は窓の外へ目をやった。維星は今日も高い木の上に登り、どこか遠くのほうをじいっと見続けている。身動きもせず、ずっと。首に巻かれた藍色がはためいても気にしない。


「おーいちびっこ、おやつ食うか」


 厨房を取り仕切る老頭の声が、食堂の窓からかけられる。
 維星はちょこっと考えたらしい。そのあとで、するりと屋根へ飛び移り、そこから真下の食堂の窓へ足をかけて入り込んでいった。
 おやつやご飯を食べるから、まだいい。
 二日三日のうちに帰る、という永進の言葉を信じて、龍は食堂へ向かった。


 深夜。
 維星がひとりで横になるベッドが、揺れた。


「ただいま、星星。いい子にしてたか」


 後ろから抱き込まれて、維星は首を横に振る。


「……永進が、いないから」
「いないから、悪い子だったのか」
「いないのが、だめ。いけないんだもん」
「龍を困らせてばっかりだったんだな」
「龍叔叔がいったの?」
「いや、想像だ」


 髪を優しく撫でられ、涙がこぼれる。静かに泣いたのに、どうしてか永進は気づいた。維星の身体を返してこちらに向けさせ、胸に頭を抱く。


「一か月もほったらかしてすまなかった」
「よんじんの、ばか」
「うん、すまない」
「ふあん、なのに」
「うん」


 心なしか艶を失ったように見える黒髪に口づける。出発の時の様子でわかっていた。何か思うことがあるのだと。普段から遠出するときは嫌がるが、あんな風に泣いて騒いだことはなかったからだ。でも維星を優先にして先に先に延ばしてきた会見、もうこれ以上はどうにもできなかった。
 維星を置き去りにすれば、仕事ができる。仕事をあきらめれば維星の心が守れる。
 永進なりに相当悩んだけれど、西の方を放置して、いま広まりつつある麻薬の情報を得られなければ被害が深くなる。金は外部の組織に流れ、国の中から汚染が広まる。そういうわけにはいかなかった。維星を犠牲にした罪悪感は、自分ひとりで抱えればいい痛み。麻薬のほうは、そうではない。考えた結果。


「かわいい小星星、本当にすまなかった。俺がいない間、ひとりで寝てたのか」
「……龍叔叔がいっしょにねてくれた」
「そうか。ひとりじゃなくてよかった」
「永進は」
「ん?」
「だれとねたの」
「ひとりで」
「ほんと?」
「ああ」
「乃靖叔叔は?」
「やめてくれ。あんなにでかい男と寝たら鬱陶しくてかなわない。それに乃靖は、現地の奴らに気に入られて毎夜通して酒を飲まされてた」
「乃靖叔叔、おさけのむ?」
「ああ。相当」


 胸に顔を埋めている維星のことばが、ふと、途切れた。


「星星?」
「……永進、星星のこと、かんがえた?」
「毎日な」
「あいたいって、おもった?」
「ああ、それも毎日」
「維星がおなじくらいいなくなったら、おなじくらい、なく?」
「もっと泣いて、ダメな人間になるかもしれない。維星より大人だから、いろいろと方法が豊富でな」
「永進は、だめじゃないよ」
「今は、かわいい星星が腕の中にいてくれるから」


 すまなかったな、と再度重ねると、維星は首を横に振る。


「かえってきてくれたから、いい」
「今日からはしばらく、ずっと一緒にいられるから」
「うん」
「泣いた分だけ、摂取しないとな?」
「なにを?」
「水分。だから、いちご狩りにいこう」
「うん」
「乃靖には毒素を出させないといけないから、あいつは岩盤浴だ」
「いっしょにいかないの?」
「いちごの隣が岩盤浴」
「うん」


 東北地方の春はまだ始まったばかりだ。
 維星が強く傷ついた季節、おそらく攫われた時期。忘れていたわけじゃない。普段よりはるかに不安定になる間が、まだ続く。どこかへ旅行に行くのもいいし、そろそろ本気で海を見に行ってもいい。維星が見たことのない、海を。


「どこか遠くへ行くか」
「うみ」
「そういうと思ってた」
「いく」
「予定を立てよう」
「うん」


 永進の、予定を立てよう、は一週間以内に実現することが多い。維星は腫れぼったい目を輝かせて永進を見上げた。


「星星」
「永進、だいすき」
「ああ。俺もだ」


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