お付き合いしたてのころのこと
「胡先生、新年おめでとうございます」
あちこちで爆発かと紛うような爆竹や花火が鳴り響く除夕の夜、やってきたのはキラキラ笑顔の眩しい王子様。
薄汚いアパートに全く似合わない、いかにも質の良さそうな深緑の厚手のコートを着込んだ佳人が、中国の俺の家の玄関に立っている。夢かと思った。
「佳人……なんで」
「どうしても会いたくて。すみません、急に。思い立って来たから連絡もできなかったです」
狭い居間のテーブルの上にあるパソコンで、今まさにメールの返信を打っていたところだった。
甘ったるい愛の言葉に辟易しながら、でも喜んでいる自分にため息をついて白酒を飲んでいたらチャイムが鳴り、まさか本人が立っていようとは。
中国の新年といえば家族親族で過ごし、餃子や料理をみんなで作ってみんなで食べ、迎えるのが普通。しかし俺にはそういうものがいない。近いものはいるけれど、ひとりは遥か北に、ひとりは日本にいる。
俺は北と南の境目の港町でひとり、もう慣れた静かな新年を迎えるはずだったのに。
「わあ、先生の部屋って何もないんですね」
中に招き入れた佳人は周りを見渡し、そんなふうに言う。居間には食事などいろいろするためのテーブル、座り心地のいい特注の椅子、ふかふかのじゅうたんがあればいいからあまり置かない。本などはまとめて本専用の一室に押し込んでいる。
新年らしい準備も何もしていないから、素っ気ない部屋そのままだ。
きょろきょろしている佳人を置き去りに、まだ些か混乱している頭を落ち着かせながらガラスの引き戸を開け、キッチンでやかんを火にかけた。窓の外ではまだまだ花火が鳴っている。
近くの会社の前で上がっているそれが見え、暗いキッチン内が赤い色に一瞬照らされる。また一瞬。
それを見ていたら後ろからふわりと温かさに包まれた。上質な匂い、不快ではない体温、ゆるく巻き付いた腕。
「先生、会いたかったです、凄く」
俺の身体を考えて、だろう、優しい抱きしめ方。きっとこれからもこの男が俺を強く抱くことはない。そんなことが容易に予想され、なんだかおかしくなった。
半年前に電話で告げられた気持ち。
もちろん冗談だとは思わなかったが、その重さをよくわかっていなかったようだ。たしかに俺は愛情に鈍いのだと、今、本当の意味で気づいた。
腕の中で身体を反転させる。見上げると白い光に一瞬若い恋人の顔が浮かんだ。真剣な眼差し、その奥にあるのははっきりとした、俺への恋情。
「佳人」
「はい」
いくらか緊張した風なのは、これが恋人になってから初めての対面だからだろうか。学生だった時より少し痩せたが、全体的にはなんだかしっかりしたという感じだ。
杖を隣のシンクに立て掛け、顎に両手を添える。
「来てくれて嬉しい。ありがとう」
まるで罪が許されたようにほっとする。そんなわかりやすい顔が愛しくて、つい引かれるままに頬へ口付けた。
「せ、せんせ」
「お、その顔可愛いな」
しなやかな皮膚が癖になる。そう言い訳して顎や唇の端などに口付けていたら、佳人の手が優しく俺の肩を掴んだ。
「先生」
「ん? キスは嫌か」
「全然嫌じゃありません。でも……俺もしたいです……」
大型犬のように愛嬌のある目にねだられたら何も言えない。さきほどしてやったようなのを甘んじて受ける。柔らかな唇が顔のあちこちに降り、最後にはそっと俺のに触れた。
キスなどいつぶりだろうか。目を開けたままでいたので、佳人の顔がずっと見えた。まつげが長い肌がきれい、鼻梁が美しい。離れた顔をまじまじ見る。暗がりでもわかるいい男が俺を好き。
「……我的天帝……」
やかんががたがたうるさいので、また身体を戻して火を止める。この動悸はなんだ。自覚したら急に胸が痛いくらいに早鐘を打ち始めた。まさかこの年になってこんなふうになるなんて。
やかんと茶器を持って移動する俺の後ろをついてきて、明るい部屋の中、俺は椅子に、佳人は深緑のじゅうたんへ腰を下ろす。茶を注いだカップを渡してやると両手で受け取った。礼も忘れない。
「佳人、急に来て大丈夫だったのか」
「それは、全然。今ちょうど劇場も休みなので」
「寒いんだろうな、あっちも」
「ええ。気温が低い上、どんよりした天気が続いて滅入ります」
何気ない話にも漂う緊張感。今までは感じなかったこれも新しい関係ならではなのだろう。
なんだか少し楽しい。こんな思いをするとは思わなかった。
「今日はここに泊まるんだろ」
「ええ、すみません。そのつもりで来てしまいました」
「別に構わない。ベッドはひとつしかないから俺と一緒な」
寝室の方へ目をやりながら言ったら、ゴッ、と物音。見ると佳人の手から落ちたカップがじゅうたんの上をゴロン。空でよかった。
「いっ……いっしょ、ですか」
「あ? 嫌なら床で寝てくれ」
「いいえそんなまさか嫌だなんてことは」
「じゃあなんだ」
カップを拾い、それを両手で包んでもじもじしながら佳人は俺をちらちら見、諦めたように小声で言った。
「……ます」
「あ? 発言ははっきりしたまえ、八原学生」
「……先生が隣にいて寝ていたら意識して興奮して勃起しちゃいます……」
控えめに、しかしはっきり言った。それから俺の反応を伺うように見上げる。くぅーん、と切なげな声が聞こえそうだ。
緩やかな黒いパンツの上から自らの膝頭を撫でながら、佳人を見下ろす。
「お前俺とセックスするつもりで来たのか」
「え、あ、その」
「正直に答えろ」
明らかにおろおろ目を泳がせ、それからゆっくり頷く。
「……あわよくば、とは、思ってました……」
「……そうか」
息を吐く。
「できなくもないが、いろいろ注文つけるぞ」
「え」
「明かりはつけない、足にはなるべく触らない。ところで佳人、お前上と下どっちがいい?」
「えっ、あっ……う、上?」
「なら先にシャワー入れ。もう湯は出るようになってる。脱衣所はないから、中でうまくやれ」
居間の片隅、玄関の真横がシャワールームだ。
説明をしてからドアを閉めて立ち去り、寝室へ。水音を聞きながら布団を整えた。新年だから寝具を変えたばかり。その上にシーツをもう一枚。それからタオルケットを敷いた。
新年早々様々な液で新しい寝具がぐちゃぐちゃになるのは避けたい。
ベッドに座り、再び息を吐く。
告白されたとき、佳人も健康的な男だからありえるだろうとは思ったが。
「すみません、ありがとうございました」
「俺も行ってくるからいい子でな」
乾かしたばかりで温かい髪を撫で、肩を叩いてシャワールームへ行く。元から時間が掛かるうえ、やらなければならないことがある。プラスチックの椅子に座ったり、壁に寄りかかりながらいろいろ済ます。その中でもずっと考え事をしていた。
シャワールームは薄暗い灯りでコンクリート剥き出し、愛想も何もなく狭く、少し独房っぽい。ひとりのときは思わないのに、佳人が来た途端に気になった。
軍人上がりで傷があることも知っている。
だが実際に、この身体を見たらどう思うだろう。ずたずたと傷痕ばかりの、足の負傷に至っては目も当てられないような有様。佳人まで傷つくのならなるべく見せたくない。
ふぅ、と息を吐いた。
考えていてもしょうがない。だめならだめだったときに考えれば良い。覚悟を決めろ。
天井付近にある小窓からは、時折外の人の声がする。それも出る頃には止んですっかり静かになっていた。
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