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床の上ででかい図体を丸めて陽だまりにいる男。寝ているのかと思えばずいぶんだらしない体勢で楽譜を読んでいるようだった。片腕を枕に、もう片手には鉛筆を持って、しかし真剣に。
佳人にとってはこれも仕事で、邪魔をするのも悪いかと書斎へ戻った。
乱雑に本や紙が積み上げられたこの場所は佳人に言わせれば「倉庫」らしい。小さくて物にあふれた部屋が一番仕事をしやすいので、わざとこのようにしている。
わざわざ中国から持ち込んだ特注の椅子に座り、書きかけていた原稿を引き寄せる。締め切りはまだ先だが、だいぶ形になってきた。
中日間の翻訳や専門分野の学術論文など以外に、中国内向けの小説を書く仕事もしている。時としてこちらのほうがおもしろいこともあった。
漢字で埋め尽くされた紙は中国から担当が取りに来るらしい。ありがたいことだ。一時前までこんな紙束はクズ同然だったがありがたがられるようになり、最近の小説ブームに感謝しなければならない。
手に取った万年筆はまだ新しいが手に馴染む。佳人が買ってきてくれたものだ。佳人が活動している劇場のそばに古い文具店があり、なかなか面白いものがある。と以前メールに写真を添付して送ってきた。
人の良さそうな白髭の老店主の周りには整然とペンやノート、スケッチブック、絵の具などが並ぶ。そこで俺に似合うと選んでくれた、深い赤、熟成されたワインのような色合いの太軸万年筆。緩やかな曲線があり、なんとなく疲れにくいような気がする。
インクは赤混じりの黒。筆跡の外側に僅かに滲む程度の色にした。するする書けて悪くない。
書き出せば時間を忘れる。
あっという間に前のめりになり、紙の中の世界へ。虚構と現実が織り交ぜられたそこで生きる人物になったような気持ちで、先へ先へと進む。
踊る登場人物に、いつの間にか踊らされていた。身体から抜け出して紙の中で。翻訳と異なる部分はここだ。人の世界ではなく自分の世界で、存分に自らを開放できる。
何処かにおいてきたような生身の肩へ触れたものがあった。それで急速に引き戻される。
「あ、やっと気付いてくれた」
すぐそばで音が鳴る。
僅かに顔を動かすと、もうすぐそこに男前な顔。
「……いつからいた?」
「五分くらい前からです」
「悪い。全然気付かなかった」
佳人は苦笑いを浮かべ、首に回していた腕を解いた。温かさが離れてしまって少し寂しい。
椅子ごと後ろを向く。
見上げた瞳は戸惑ったように揺れ、唇を噛んでいた。立派な身体の脇でふらふらしていた両手をそっと取る。
すると佳人は足元に座る。それから手を俺の腿に乗せ、同じように頭も。
「子どもっぽいこと、言ってもいい?」
「ああ」
「……俺がいるときは仕事しないでください」
なるべく静かに笑ったつもりだったのだが、震えで気づかれた。顎を乗せて上目遣いでじっとり睨みつけてくる。
「笑わないでよ。真剣です」
「いや……うん。悪い」
「あなたはすぐ紙の世界へ行ってしまうでしょう。すごく怖いんですよ。紙に向かうあなたを見ていると、もう戻ってこないみたいな気がする」
「そんなわけないだろ」
「いいえ。だって康昊さんはそっちが好きだから。……俺なんかよりずっと」
拗ねたような口ぶりで言い、膝へまた顔を埋める。片手を離してふわふわした髪を撫でながら知らず知らず、口元が緩む。
珍しく嫉妬心を見せた。普段は尻尾を振る大型犬に見えるが、こうやって言われるときちんと男なのだと認識する。奇妙なことだが。
普段がそれだけ穏やか、ということだ。表情も感情もとても豊かなのに、マイナスの部分をあまり見せない。遠慮しているのかもしれないが、優しくて明るいばかり。
だからときどき負の部分を見るのが心地よい、と言ったら怒るだろうか。
「佳人」
「……はい」
「俺は確かに、紙の世界が好きだ」
「知ってます」
「でも俺の中で、佳人より好きなものなんかないぞ」
驚くべき素早さで顔が挙げられた。
もう目は喜び一色、尻尾は激しく振られている。
「本当ですか」
「ああ」
「朝飲むお茶よりも?」
「好きだ」
「徹夜明けのベッドよりも?」
「好きだな」
「この椅子とあの居間の椅子よりも?」
「好き」
「ふるさとの包子とか餃子よりも?」
「……そうだな」
「今、迷いましたよね」
「お前と食べるのが一番旨いとは思う」
「でもたくさん好きって言ってくれたから嬉しいです。俺も、あなたと作る餃子が好きだし」
にこにこ笑顔全開で伸び上がってきてキス。柔らかな唇が無邪気にくっついた。唇から離れたら顎へ、首へ、手首へ、手の甲へ。
「……ごめんなさい。本当は、仕事しないで、なんて言っちゃダメなのに」
俯いたままでぽつりと零す。
「お前がいるときには仕事するつもりなかったんだがな。見たら楽譜相手に難しい顔してたから、邪魔するのも悪いと思って」
「……話しかけてくれて良かったのに」
「次からはそうする」
俺の手を撫で、ぎゅ、と握りしめた。温かい。もうすぐまたこの温もりなしで送る毎日がやってくる。何回離れてもそれに慣れることなどなく、何度抱きしめても飽きることはない。
普段だったら言わないことを言うのは、時間が惜しいからだろう。
「佳人」
頬を両手で包み込み、キスをする。俺からするのはとても少ないから恥ずかしくてたまらないが、佳人が喜ぶから。
俺はつくづくこの男が好きなのだ、と、角度を変えながら感じた。
匂いも味も触れた感触も何もかもが馴染む。愛しいとか好ましいとかさまざな感情が溢れ出す。
「康昊さん」
「なんだ」
「好きです」
「知ってる」
「うん。言いたくなっちゃいました」
「そうか」
紙の匂いの中に混じる、よく知った香り。
狭い狭い倉庫のような部屋で身を寄せ合って気まぐれに会話をする。あと少ししかない時間を慈しみ過ごすために。
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