1
あなたの顔も声も髪も肌も、優しいところも穏やかなところも、とにかくどこもかしこも愛しいです。
来週の金曜日に日本へ帰ります。その前に康昊さんの母国へ寄るけど、何か欲しいもの、ある?
愛する胡康昊先生へ
八原佳人
毎日送られてくるメールには必ず愛の言葉と添付ファイル。
添付の方を見る前に返事を書く。俺の方はいつもとても簡潔に、用件のみの内容。
送信を確認してから開くと今日、佳人が見た景色を切り取った画像が現れる。一枚だったり四枚だったり八枚だったり数はいろいろ。世界のどこかも色々だ。
今回は、オペラ座周辺の夜景。オレンジ色の灯りに照らし出された歴史ある建物の姿。その中に佳人の姿はない。
画像は外付けのディスクへ全て移し、ひとつのファイルにまとめている。日付をそのまま名前にして、佳人が帰ってきてから全部印刷。そして写真を見ながら酒を飲み、ここはどうだったこうだったと話を聞くのがいつの間にか恒例になった。
八原佳人との出会いは大学の講義だった。
文学とそれに関する各種資料の分野で日中の文章翻訳を行う傍ら、古代漢文学の研究者として多数の論文を発表している学者でもある俺に依頼が来た。
夏休みの特別講義をどうしても頼みたい、と、旧知の日本人学者からだ。拝み倒されて四日間だけ受け持つことを了承した。
久々の日本は夏。杖を持つ手に汗がにじむほど暑かったのを覚えている。
大学の特別講義は百人近い受講生。その中に、佳人がいた。
大教室の中、一番目につく席に座っていて何故か微笑むものだから、初日から強く印象に残った。整った精悍な顔立ちに黒髪の好男子。身体つきもしっかりしていて、なにかスポーツでもやっていそうな爽やかさを持っていた。
二日目の講義終了後、廊下に出て何歩も歩かないうちにうしろから話しかけられた。
「胡先生」
学生の声が反響してやかましく、冷房のきいていた教室と違って蒸し暑い廊下に凛と響いた低い声。今でもしっかり耳に残っている。
振り返るとそこには、あのいつも目が合う学生の姿があった。出席を取らないし学生の名簿ももらっていないので名前を把握していない。
「……なにか、質問ですか」
とりあえずたずねる。講義終わりに話しかけてきたということはなにか関連のある質問でもあるのだろう、と思ったからだ。
しかし、その整った顔の学生は肩へ斜めにかけていたドラムバッグから意外なものを取り出した。
「これ、胡先生が翻訳された本ですよね」
表紙もページもボロボロになった、いかにも古い絵本だった。それは忘れもしない、大学時代いちばん最初に引き受けた仕事で訳した中国の絵本。
中国では有名だった作家がほぼ自費出版のような形で日本でも売りたいと、安く訳してくれる人間を探していた。それが回り回って来たのだった。
翻訳家としてやっていこうと思ったきっかけとも言えた。
タイトルの下に作家の名前、その下には俺の名前がある。
懐かしさに思わず頬が緩んだ。
「たしかに、わたしです」
「これ、何回も何回も読みました。ほかにも何冊も先生の本、持ってます。翻訳が優しくてだいすきです」
あまりにまっすぐ言われて最初は驚いた。それから、自分を省みる。
「……優しくて、好きで、でもその翻訳者がこんな男でがっかりしたんじゃないですか」
ふ、と漏れた笑みは、自分でもわかるくらいにひねくれたものだった。
翻訳した本がどんなに有名になっても、どこかで賞をもらっても、一度としてメディアの取材を受けたことはない。講演依頼も講義依頼もすべて断ってきた。
俺の外見が理由だ。
どんなにいいものに関わってそれが褒められても、俺が前に出たら台無しだ、という思いがある。
しかし目の前の学生はその顔に美しい笑みを浮かべた。男らしい顔に美しい笑み、それは非常に魅力的に映える。
「先生に会って、直接声を聞いて顔を見て、夢が壊れたとは思いませんでした。むしろこの人があの話を教えてくれた語り手なんだ、と、すごく感激しています。そうじゃなければ話しかけたりしないです」
どこまでも透明な眼差しでそんなことを言われ、疑うほど人間を諦めてはいない。
「ありがとう。そんなことを言われたのは初めてです。あなた、名前は?」
「八原佳人です。音楽学院の二年生です」
「……音楽学院? ではこの講義と関係ないのでは」
「うちの学校は基本のプログラム以外も取れるんです。上限ないですから」
そう言いながら佳人はわずかに頬を赤らめた。
「シラバスで先生の名前見つけて……まっさきに登録リストに入れました。音楽の講義より先に。どうやら正解だったみたいです」
頬を染めて言う彼は、急に繊細そうな乙女じみた表情になる。なぜだろう、わからないけれど。
「先生、音楽はお好きですか」
「有名どころなら聞きます」
「今度、コンサートやるんです。お時間が空いていたらぜひ」
音楽よりスポーツのようなイメージがつきやすい外見だったから、音楽をやると言われて意外な気がした。
しかしコンサートへ行ってみたら素人耳の俺にもわかるくらいにいい音を鳴らす。それで、興味を持った。
日本で仕事があるときや休暇に時間を合わせて食事をしたり出かけたり、彼の部屋で飲んだり。そうしているうちに、卒業を迎えて渡欧を決めたと聞いた。
そのついでのように、愛の言葉。柔らかな声が囁いたそれが、電話越しにもはっきりと耳に滑り込む。
「先生は残念なことに、人から向けられる愛情に鈍いみたいだから。もう素直に口説くことにしますね。愛してます」
出会った時のように爽やかな声でそんなことを言うから驚いて、けれどすぐに笑ってしまった。
「俺は愛情に疎いか」
「ええ、かなり。好きじゃなきゃ、こんなぐいぐいいかないですよ。コンサート誘ったり食事に誘ったり家に誘ったり、好意があるからしてるんです」
「そうかそうか。そりゃ失礼したな」
「……本当ですよ? 本当に俺、先生が好きなんです」
「わかってるよ。疑ってない」
自然に受け止められたのも、全てが腑に落ちたからだった。彼はずっと俺に愛を伝えてくれていたのだ。人からの好意に疎いらしい、俺に。
「ありがとう、佳人」
「言っておきますけど、これは結論じゃないですから。まだ始まったばっかりで、前書きみたいなもんです。俺はあなたの絵本を見てからずっと好きで、これからいかに愛してるか伝えまくっていきますから」
そして電話とメールの愛の言葉、ときどきの逢瀬。俺が日本に住み始めてからは向こうで会ったり此方であったりさまざまな場所でお互いを確かめ合う。
日本で会うのは久しぶりだ。
いつも会う前にはほんの少し、緊張。それを悟られまいとして必ずバレて笑ってくれて、ようやくいつも通りになれる。
優しくて愛をたくさん持った男。
早く帰ってきてほしい。
戻る
-----
よかったボタン
誤字報告所