四階奥の部屋には、大きなベッドが一台と机、カメラ付きのデスクトップパソコン、箪笥がある。カメラで遠方の客に流していた可能性もある。顧客を調べさせなければ。永進はさっそく龍に電話して内容を告げ、あらゆるものを拾って帰れと命じた。ここの公安は動かないだろう。ならばこちらで上げるしかない。
燃やすのは性急だったな、と、反省した。頭に血が上っていたのだ。危なく子どもと証拠とを一緒に灰にしてしまうところだった。怒りで考えが及ばなくなるのは悪いくせ。
「維星、維星。俺はお前に怖いことをしない。良かったら出てきてくれないか」
ベッドの下、机の下、箪笥の中。全て見たけれど姿が見えない。
廊下に顔を出し、ずらりと並ぶドアを見た。他の部屋には恐らくいない。普段なら他の部屋に、客と子どもが何人もいたはずだ。
ならば廊下――だが、隠れられそうな場所は見えなかった。ランドリーのようなところもない。他の階にやすやすと移動できたのだろうか。
再び室内に入り、辺りを見回した。窓もない、出入り口はドアだけ。消えるわけもないからこの部屋のどこかにはいるはず。
ベッドの隣に置いてある木の箪笥を改めて確認する。やはり粗末なシャツが二枚、掛かっているだけだ。何度見たところで変わらない。
ベッドと、箪笥。箪笥の上には隙間があり、天井は板張り。
まさか。永進は天井を見上げ、廊下へ走った。
「陸、陸、来てくれ」
永進よりも小柄な陸が、箪笥の上に上って板を探る。すると真上の一枚が緩み、外れた。そこへ上半身を伸ばす。
「維星!」
声が、変わった。やはりそこにいたようだ。
「もう大丈夫だから、おいで。怖いことは起こらない。痛いこともされない。誰も維星をいじめないから」
しばらくの説得の後、陸が箪笥の下に降りてきた。
しばらくして、細くて白い足が見えた。細い腰、頼りない胸元、汚い布を巻いた首、それから顔。怯える大きな目、丸みを帯びた頬、乱れた黒髪、赤い唇。
身体つきは未成熟さを持ち、あちらこちらから妖しげな色気が滲む。顔も確かに一番可愛らしい。はっとするような輝きを持つ、宝石のような子。
永進を見て、身軽にベッドへ降りると向こう側にいる陸に抱きついた。陸は柔らかく受け止め、震える維星の頭を撫でる。
「この人は怖い人じゃない。あの悪魔を退治してくれた人だよ」
大丈夫、と、何度も言い聞かせる。陸はずっとこうしてこの場所で子どもたちの心を守って来たのかもしれなかった。シャツから覗く胸元にも手首にもぼこぼことした傷痕が見える。
維星は大きな目で、恐る恐る、しかしまっすぐに永進を見つめてきた。強い吸引力を持った瞳だった。今も、維星以上に印象的な目はない。
陸に連れられて下に降り、共に病院へ行った。それを見送った永進の背後に立った龍。
「老大、この館はどうしますか」
「全て持ち出したな」
「あらゆるものを」
「燃やせ」
炎に包まれた館は一晩掛けて燃え落ちた。それを見上げていたのは永進と龍。すべてが炭になるまで、ただ立って見つめていた。
ほんの五年ほど前の出来事である。
「……館は燃えた。あのゴミも、もういない。お前を縛る物は無いんだ」
わかっていると言うように維星が頷く。怯えていたはずの目はいつの間にか、輝きを取り戻していた。声を聞き、触れ、抱きしめられて随分安心したようだ。
実際に維星は落ち着いていた。永進がいれば大丈夫だと、今は信頼がとても大きい。傍にいてくれたらやり直せる。少しずつではあるが、そう思えるようになっている。
あのとき、初めて永進の目を見たとき、なんて美しい人なのだろうと思った。この人は自分を傷つけないだろう、そう感じたのだ。あまりにまっすぐ強く見つめてきてくれたから。
永進はしっかりした目に微笑って、相変わらず華奢な身体を腕に抱き上げた。
「一緒に寝よう、星星」
嬉しそうに頷き、永進の頬へ自らの頬を寄せる。柔らかな感触を感じながら、ゆっくり部屋を出た。
書斎隣の寝室で、ベッドに入って維星を寝かしつけ、それからヘッドボードに背中を預けて正面の壁を見上げる。
ナイトランプのほのかな明かりにぼんやりと浮かぶ写真。どれも見事な細工の額縁に収まって壁に掲げられていた。
先代の老大のものもあるが、今は永進のものも数多い。老大になった日の写真、先代と撮った写真、維星と撮った写真。
その中の一枚に、維星と共に暮らすことになった日の写真もあった。
怯えたような目、永進の後ろに隠れている。そのころから考えると、随分変わったと思う。出歩くことも増えたし、勉強にも本にも強く興味を示している。テレビで興味深そうにドラマを見ていることもある。同年代に比べたら知っていることもできることもまだまだ少ないのかもしれないが、時間を掛けて教えていくつもりだ。
失われた時間は戻らない。積み重ねて行くしかない。傷ついた記憶に上書きなどできるはずもないので、新たな幸せを残して行くしかないのだ。
「維星、今は、前よりは幸せなのか」
目を覚ましていたらきっと満面の笑みで頷いてくれただろう。
そう思うことにして、永進もベッドに身を横たえて目を閉じた。
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